野山を駆ける男がいる。 何かを追うわけでも、何かに追われているわけでもなく、駆けている。「はぁっ、はっ、はぁ」 しなやかに足を繰り出して進む彼の顔は、たのしげであった。 そのまま駆け続け、木々の合間より抜け出た彼は、そのまま開けた空間へ跳躍し、そこにあった滝壺へと落ちた。 澄んだ水が、沈みゆく彼の姿を揺らめかせる。しばらく沈んだ後に、男は岸辺へ向かい泳ぎながら、頭を出した。「ぷは」 岸に手をかければ、その手の先に人の足があった。ゆっくりと顔を上げると、柔和な笑みがある。「佐助」 猿飛佐助は、しゃがみ、頬杖をついて水中の主、真田幸村を見つめていた。幸村は岸に上がり「さすがだな、佐助!」 草色の衣をまとった忍を、褒めた。「こんくらいできなくちゃ、忍の長なんてやってらんないっての」 ほら、と佐助が手を出せば、幸村は衣を脱いで下帯姿となり、脱いだものを渡した。それを、佐助が木にかけて干す。「忍相手に、山中での競争をもちかけるなんて、旦那くらいだよ」「足には、自信があるのだがな」「旦那は、早い方だと思うよ。だけど、忍は空を行くから」 いたずらっぽく片目をつむり、天を指させば幸村が見上げる。「空を飛んできたのであれば、叶わぬな」 幸村は、佐助が大きな烏を操り空を行くことを、知っている。けれど、彼は佐助が単身でも空を行けるように思っている。「佐助は、身軽ゆえ風にも乗れるのだろう」 手をかざして見上げる空は、濃い青をしていた。「旦那のほうが、似合いそうなんだけどねぇ」 佐助に目を戻せば、変わらぬ笑みの中に、あるかなしかの悲哀のようなものを見つけ、幸村は首をかしげた。かしげたが、それをどう問うていいのかがわからない。わからないが、気になる。「佐助」 だから、名を呼んだ。「はぁい」 答えた佐助は面映ゆそうで、心根が通じたことにほっとした。通じたからと言って、何かが出来るわけでは無いが、ただ気付いてもらえたというだけでも十分に救われることを、幸村は知っている。――それは、ほかならぬ佐助が教えてくれたことであった。「佐助」 次の声は、常のように張りのあるもので「はいはい。いってらっしゃい」「うむ」 ひらりと手を振られ、幸村は滝壺に飛び込み、夏の気配を含んだ水を楽しむ。それを、佐助はただ見守っていた。 中ほどで顔を出した幸村が「佐助も、泳げ! 気持ちが良いぞ」「冗談! 俺様、濡れたくないもん」「そうか」「そうだよ」 言えば、とぷんと幸村の頭が沈む。それを見る佐助の目は、無意識に幸村の息の長さを計り、水中で起こりうる異変を逃すまいとしていた。 かつて、幸村が弁丸と呼ばれていた頃――佐助がまだ、童忍であった頃に、彼が水に飲まれてしまったことがあった。 子ども同士というものは、身分の違いというものよりも個人の力量や度胸に一目を置く。その中で負けん気の強い弁丸を、挑発したものがいた。 子どもたちの間で、穏やかな滝壺に飛び込むという遊びは、いつの世でも楽しまれ、また度胸試しにも使われる。その日は前日の大雨で川の水が増しており、誰の目にも危険であることは明らかであった。 弁丸は、それに臆することなく飛び込み、流された。 子どもたちが騒ぎ、大人の耳に入り、まだ弁丸付としての自覚が薄かった――戦忍である自分が、子守役になっていることに不満のあった佐助の耳にも、届いた。 知らせを聞いた佐助は、風のように走り、川にたどり着けば流れの速さを見取り、流されている距離を検討して飛び込み、弁丸を救った。 幸い、気を失っていたことで余分な水を飲むことの無かった彼は、数日後には目を開いた。けれど、そのときに肌におぼえた怖気を、佐助は忘れることが出来ずにいる。 出来ずにいるが、そのようなことがあっても水を怖がることなく、こうして暑い日には泳ぎたいと望む主を止めることもできず、必ず付き従うようにしていた。 幸村も、その時の佐助の顔を――目覚めて一番に見た佐助の、泣き出しそうな笑顔を覚えている。そのような顔を二度と見たくは無いと思いつつも、ひどく嬉しかったことも覚えていた。 心底、自分を思うてくれる人がいる。 そのことが、無用な見栄や虚勢を張る必要が無いのだという、教えになった。 それから、未だに無茶はするものの、無謀と思えることは控えるようになった。 あの後、しばらくは顔を洗う事すら恐怖に感じた。水に翻弄されて踊る自分を思い出し、湯を浴びることもしたくなかった。けれど、それを克服できたのは、佐助の存在があったからであった。 何かあれば、佐助が気付いてくれる。 そう思うだけで、幼心に植わった恐怖心を打ち倒すことが出来た。 それ以来、この主従は武家と忍という身分を越えた、兄弟よりも深い絆で結ばれるようになった。 幸村は全幅の信頼を佐助に向け、佐助はそれを全身で受け止める。 そんな二人の姿を、主君である武田信玄は大きな腕で包み込み、自分の子どもであるかのように見守っていた。 武田の忍は、血の通ったもの。 それが、甲斐で働く者たちの認識であった。 情の無い関係は、脆い。この時代、自らの信念を尊び仕えることが美徳とされた。金銭で雇えるものもいるが、そういう男は信用がおけぬと、取り立てられることは、まず無かった。 かといって、忍の分別を大幅に越えるようなことは、信玄も忍の者たちも行わない。佐助が信玄や幸村に、気安い言葉遣いをするのは許容の範囲であり、他者の目があればそれなりの礼を取る。分不相応な報酬を要求したり、立身を望んだりすることは、無かった。 佐助は、他所の事情を知るにつけ、自分が身を置いているものは忍の世界としては珍しいことを強く認識した。 結構楽しいと、同郷の、今は上杉謙信に仕えている忍かすがを、武田に来ないかと冗談めかして誘ったこともあり、時折給与面がどうのとぼやいて見せたりはするが、十二分に満足をしていた。 満足をしつつも、幸村の自分に対する信頼が度を越しているようにも思われて、気がかりでもあった。 忍は、しょせん忍。 配下の者を捨て駒と呼ぶ、中国の覇者毛利元就ほどにとは言わないが、そこの線引きが出来ていないことを、有りがたくも危ういと感じている。 信玄は、人として扱いつつも、佐助が忍であることを忘れたことは無い。何かあれば、存分に目をかけている佐助であっても、眉一つ動かさずに切り捨ててのけるだろう。けれど、幸村は自分の身を削ったとしても、佐助を見捨てることなどしないように思われた。 ぽこ、と遠くに浮かんだ頭が手を振ってくる。それに手を振りかえしながら、彼が自分を遊びに誘うのは、少しでも剣呑な気配から遠ざけようとする、暗い場所に身を置く自分を労う気持ちからだと――それのみであるからと、思いたがっていた。 忍としての自分を、認識していないように扱う幸村。 向けられる信頼も気安さも、分不相応なものだ。 けれど、それが佐助の自負にもなっている。 誰よりも彼を理解し、誰よりも彼を支えられるのは自分であると、思いきわめている。 幸村も、同じように思っていた。 帰ってきた幸村が「佐助も、少し泳げ。暑いだろう」 誘ってくるのに「だから、濡れたくないんだって」「犬や猫のようだな」「忍は、獣みたいなものだからね」「佐助は、人だ」「いや、そうなんだけどさ」 幸村が水から上がり、草に寝転ぶ。「気持ちが良いな、佐助。共に、昼寝でもするか」「あのね、旦那。何度も言っているけど、俺様は忍なの。主と一緒に水遊びをしたり、昼寝をしたりする忍なんて、聞いたことも無いよ」 それは、佐助自身への戒めの言葉でもあった。 もしこれが、武家の者同士であったのなら、多少の身分の差はあれど、そのようなことをしても、構わなかっただろう。「気にする必要など、無いではないか」「気にしなきゃ、いけないことなんだよ」 何度言っても聞かぬ幸村の言葉を、嬉しく思う自分がいることをごまかし、封じ込める。そう言われることを望んでいる自分を、佐助は識っていた。「忍は、使い捨てる物なんだから」 人では無い。 人であっては、いけない。 情があろうと、血が通っていようと、最後の最後は生きている道具なのだ。その生きている、考える道具を手放さぬ方法は、金銭よりも情で縛る方が良い。そういうものなのだと、他の忍たちもわきまえている。わきまえていながらも、それを望み受け入れ、立ち働いていた。「そのようなことを、言うな!」 けれど、幸村は佐助の言葉に本気で怒る。本気で、佐助を人として――自分と同じ立場であるように扱う。 幼いころより、兄弟同前に遠慮も無く接してきた弊害かと悩む佐助に、信玄はそれでよいと笑う。 信玄の心根も、そのことに関しては計りかねた。「でも、それが本来の姿なんだよ」 呆れるほどに繰り返したやりとり。それを、今日もまた繰り返す。 幸村は、佐助を人だと認識させようとして。 佐助は、自分を忍だと認識させようとして。 平行線のままの会話であるはずの言葉は、それに絡む感情が複雑な文様を描いていた。「戦場で、何かあったら俺様の事は放っておいて、まず自分の身のことを、考えなよ」 心の底から滲むような声に、幸村はふてくされたように顔をそむけた。 年よりも幼く見せるその顔が、佐助の胸に温もりを産む。 風が吹いた。 木の葉がさわさわと音を立てる。 昼日中の森に、葉が描く影が落ち、揺れていた。 太陽が輝けば輝くほど、その影は色も輪郭も、はっきりと表れる。 夏の日に、空に浮かぶ太陽のような――まっすぐに人々を照らす彼が、知らぬうちに作る濃い影は自分だと、佐助は思いきわめている――――。2012/08/08