真っ青な空を隠すように、薄絹のような雲がかかっている。それと山の間に、もっさりとした雲の塊が、聳え立つように積みあがっていた。「あら。お山の向こうに積雪が」 侍女が、たわむれるように呟いた。 なるほど、それは雪がつみあがったようにも見える。「山の向こうは、寒いのか」 弁丸が、侍女に問うた。「さあ。お空のそばに、行ったことはございませんので」 にこりと笑った侍女が、一礼をして弁丸の部屋から辞した。弁丸は目を丸くして、山の向こうにある雲を見つめる。それは、見れば見るほど積雪のように思えてきて「よし」 すっくと立ち上がった弁丸は、庭に下りた。「まっていろ、佐助」 決意を込めた目を雲に向けながら、楽しげに口にした名前は、彼の守役の忍のものであった。 弁丸は、庭を横切り下男の姿を探す。目に留まった男に「儀助!」 駆け寄り「背負いかごを、貸してくれ」 頼んだ。「背負いかごを、いかがなさるおつもりですか」「佐助に、雪を取ってきてやるのだ」 胸を張って言う弁丸に首をかしげながらも「わかりました」 儀助は、弁丸の背にも収まるほどの背負いかごを用意し「雪を運んでくるのであれば、おてんとさまに溶かされないように、せねばなりませんなぁ」 藁の束で蓋を作った。「ありがたい」 それに満足そうに頷いて、背負った弁丸はまっすぐに屋敷の門へ向かった。 その途中「あら、弁丸様。大きなかごを背負いなさって、どちらへ参られます」 年かさの侍女が、声をかけてきた。「佐助に、雪を取ってきてやるのだ」 胸をそらして言う姿に「あらあらまあまあ。それでは、お腰に腹ごしらえのできるものを、つけていかれませ」 侍女が言う。山の向こうまで行くつもりである弁丸は、なるほど途中で喉が渇き、腹が減ることもあるだろうと「では、そのようにしよう」 侍女に仕度を頼んだ。 かごを背負い、腰に水筒とおむすびをつけた弁丸は、意気揚々と屋敷の門をくぐった。「おや、弁丸様。どちらへ」「佐助に、雪を取ってきてやるのだ」 胸を張って言うのに、門番が「うんと遠くまで行かれるのでしたら、この陽気でめまいがするかもしれません。編み笠なりと、かぶっていかれませ」 そう言って、自分の編み笠を弁丸に差し出した。「しかし」「私のことは、かまいません。すぐに、交替の時刻になりまする。雪を取りに行かれるのでしたら、うんと遠くへお出かけでしょう。取りに戻る時間も、惜しいのではございますまいか」 言われ「佐助が帰ってくる前に戻り、驚かせてやりたいしな」 ありがたく、受けることにした。 そうして、弁丸は門番に礼を言い、道をずんずんと進んでいく。「おやま。弁丸様。そったら格好して、どこへ行きなさる」 里の入り口で、農夫に声をかけられた。「佐助に、雪を取ってきてやるのだ」 鼻を鳴らして言うと「それはそれは。難儀なことですなぁ」 感心するように農夫が頷き、弁丸は胸をそらした。「佐助は、暑いことが苦手ゆえな」「おやさしいことで。佐助様も、お喜びになられますでしょうなぁ」 目を皺のように細くして、農夫が頷く。「では、先を急ぐゆえ」「ああ、弁丸様」 農夫が呼び止めるのへ、首をかしげると「雪を取りに行かれるのでしたら、うんと遠くへ行きなさるのでしょう。汗が目に入れば、痛くてかないますまい。粗末な手ぬぐいですが、お使いなされ」 農夫が、手ぬぐいを差し出した。「しかし、そうすれば野良仕事のときに、汗をぬぐえぬのではないか」「なぁに。袖でキュッとぬぐえば、おわりになります。おっつかなきゃあ、すぐに家へ取りにいけます。雪を取りに行かれるのでしたら、うんと遠くへ行きなさるのでしょう。戻っている時間が、もったいねぇでしょう」「そうか。では、ありがたく借り受けるとしよう」 農夫は、弁丸の編み笠を取り、額の汗が目に入らぬように、手ぬぐいを丁寧に頭にまきつけてくれ、編み笠もかぶせなおしてくれた。「では、お気をつけて」「うむ。かたじけない」 そうして弁丸は、田畑を左右にはさむ道をどんどんと進み、川沿いへとたどりついた。「おや、弁丸様。そんな格好で、どちらへ」 川で釣りをしている男に、声をかけられ「佐助に、雪を取ってきてやるのだ」 川の音に負けぬように、大きな声で応えると「そりゃあ、えらいことで。お屋敷からここまで、ずいぶんと歩いたことでしょう。川の傍でひとやすみして、涼んでいかれてはいかがです」 提案に、弁丸の腹がグゥと鳴り「では、そのようにいたすとしよう」 男が居る、木陰になっている川原へ降りて、腰を下ろした。「ふう」 編み笠を横に置き、腰の水筒とおむすびで腹ごしらえをする。おむすびは大きなものが二つあり「ひとつ、どうだ」 男に差し出すと「それでは、ありがたく」 うやうやしく受け取った男と並んで、それを食べた。 涼やかな川音が心地よく、満腹になった弁丸の瞼が重くなる。 うとうとと頭を揺らす弁丸に「少し休んでいかれるが、よろしいでしょう。雪を取りに行かれるのでしたら、うんと遠くに行かねばなりませんから、今のうちにしっかりと休んでおくことがよいかと」「ん――それも、そう、だ、な」 応える弁丸の意識は、半分が眠りのふちについており、木の葉が日差しをさえぎり、ひんやりと心地よい岩に体を横たえた。 そうして、せせらぎを子守唄に眠った弁丸が目を覚ますと、空のふちが少しだけ茜色に染まっていた。「しまった」 眠りすぎてしまったと、勢いよく起き上がった弁丸は、かごを背負い編み笠をかぶって、いざと顔を上げると「――無い」 ずっと見えていた、こんもりと積みあがっていた山向こうの、空の雪が跡形も無くなっていた。「そんな」 へたり、と座り込む。「眠っている間に、太陽が雪を溶かしてしまったのか」 呆然と呟けば、鼻の奥がツンとした。「雪は、もう無いのか」 暑いのは苦手だという、弁丸の大切な忍。 さまざまなことを自分にしてくれる佐助に、自分が出来ることを見つけたというのに「なんということだ」 休みすぎて、目的のものを失ってしまうとは。 胸に、後悔と落胆が沸き起こり、あまりの情けなさに涙が滲む。「おれは――おれは…………」 くやしさに唇を噛み閉めて震えていると「あ! こんなところに」 耳なじみのある声がして、目の前に緑の衣が見えた。「もう。一人で出かけていったって聞いたのに、こんな時間になっても帰ってこないから、心配したでしょう」 叱る気色の声に――佐助の声に、弁丸は堪えきれずに「う、く……ふぇ」「え。ちょっと――何なに、どうしたの」 泣き出してしまった。「す、すまぬぅう」「俺様、そんなに強く怒ったつもり、無いんだけど」 ぼやきながら弁丸を抱き上げ、背中を叩いてあやすと「さっ、佐助に……ッ、ひっ、ぅえ、佐助に雪を取りに行こうとッ、だが、ね――眠っている間に、雪が溶けてしもうたぁあ」 言えば、胸にあった情けなさが大きく膨らみ、顔中が涙と鼻水でグシャグシャになった。「溶けたって、真夏に雪があるわけが、無いでしょ」 佐助は、探しに行く前に弁丸が雪を取りに行くと人々に言っていたことを、聞いていた。「っ、や、山の向こうにあったのだ――ッ」「山の、向こう?」「山の上は、里よりも涼しいゆえ……ッ、山の向こうは、ひっく、ぅえ、もっと、涼しく……ッ、う、ぅえ、雪ッ、が、あるとっ、あるっ、う、うぇええ」br>「ああ、もう――はいはい」 大きな口をあけて泣く弁丸を、彼が泣き疲れて眠るまで、佐助は背中をさすり続けた。そうして彼が眠り、屋敷に連れ帰り、借りたものを全て返し終え、屋敷の中で弁丸が「雪をとりにいく」と言ったもの全てから話を聞いて、入道雲を雪のようだと思い、積雪だとつぶやいた侍女の話に、それを鵜呑みにしたのだと呆れつつ、自分のために途方も無い距離を行こうとしてくれた彼の心根に、佐助はむずがゆくなった。それが顔に滲んでしまう前に「まったく。おばかさんなんだから」 つぶやき、侍女の前から姿を消して、弁丸の寝所に顔を出す。 すやすやと眠る弁丸の姿に、わきおこる温かなくすぐったさに頬を緩め「ありがとね」 そっとつぶやき、髪を撫でた。 夢の中。 弁丸は鹿の背に乗り山の頂上へたどりついていた。けれど、山の向こうの雪は空の前にあり、届かない。どうすればよいかと悩む彼の前に、大きな烏を連れた佐助が現れ、二人で烏の背に乗って、空の雪の上へと降り立った。「みろ! 佐助」 見渡す限りの空の雪に、両手を広げて笑いかける。「すっごく、涼しいね」 うれしそうに佐助が笑うのに、弁丸の顔がおてんとさまのように輝いた。「ん?」 にへら、と絞まりなく笑う弁丸の寝顔に「どんな夢を、見ているんだか」 佐助が、幸せそうに嘆息をした。2012/08/12