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土筆

 キンと空気が冷えているのに、降り注ぐ日差しは柔らかく親しげで、温かい。
 冬でも春でも無い季節に、真田幸村は肌身から湯気をくゆらせ、体を拭っていた。
 日の昇る前に起き出した彼は、だいぶん緩んできたとはいえ、まだまだ刺すように冷たい空気の中、上体を裸身にし、手ぬぐいで磨き温め体をほぐし、ゆっくりと体を芯より起こすように動いてから、槍を手にして思い描く相手の動きに合わせ、一人で舞う。そうして空が白み始めた頃に、汗を滴らせる肌をぬぐうのが、彼の日課であった。
 ほこほこと温まった肌から、冬の気配を寄せ付けぬほどの熱が発せられている。
「元気だねェ」
 ふいに、声がかかった。振り向けば、音も無く現れた彼の忍が、寒そうに綿入れを羽織った背を丸めている。
「おお、佐助。お早う。佐助も、体を動かせば温かくなるぞ」
「いいよ、俺様は。面倒くさい。それよりも、旦那。体が冷えないうちに、早く上がっておいで。長火鉢を用意してあるからさ。ぬくい部屋で、朝餉を食べよう」
「うむ」
 任務となれば、薄着で雪の積もる木々の上を飛ぶ忍が、屋敷の中ではこうして身を小さくして冷気に震えているのが、幸村には不思議でならなかったが、意識や気合いが違うのだろうと、判じていた。
「大将は、もう朝飯食べちまって、執務を始めてるぜ」
「なんと!」
「旦那も、鍛えるのもいいけどさ。もっといろいろと勉強をしないとねぇ。出来が悪いわけじゃあないんだから……ああ、旦那の場合は、経験かなぁ。でもまぁ、こればっかりは、大将にはかなわねぇよなぁ」
 言いながら進む佐助は、無防備にしか見えぬのに足音は欠片もさせない。まれに、幸村は彼には重さなど無いのではないかと思う事があった。けれど、人よりは多少軽いが、きっちりと成人男性としての重さはある。それを、彼との手合せの時の、刃を重ねた時に感じる重さで知っていた。
「佐助」
「はぁい」
 すらりと障子を開けて、幸村を部屋に通した佐助は寒気を締め出すように、急いで障子を閉めて長火鉢の傍へ寄る。
「朝餉の後、手合せをせぬか」
「ええ。やだよ寒いもん」
「動けば、熱くなろう」
「面倒くさいし、備蓄の薬の点検と、芽吹き始めた山に入って、いろいろと採取してこなきゃいけないものの確認をしなきゃ、いけないからさぁ。俺様、旦那の暑苦しいのに付き合ってられるほど、暇じゃないの」
 忍が主にするような態度ではないが、幼少のころより世話役として、兄弟のように接し育ち、また周囲もそれを容認してきているので、どちらも気にすることは無い。
「ぬぅ」
「昼餉の後には、大将も手が空くだろうから、旦那と手合せしたがるんじゃない? 雪解けがはじまったら、軍神との楽しみが待っているだろうからさ」
「そうか」
 ふっと言葉を受け止めた幸村の目が、長火鉢の中の赤く燻る炭を見る。その目の奥に映る人物を、うすく笑みの形にゆがんだ彼の唇から、佐助は察して呆れた息を吐いた。
「竜の旦那も、そんな顔をしてるのかもねぇ」
 独り言のように言う佐助の脳裏には、燻る主の横で苦笑をしているであろう男――幸村の好敵手である伊達政宗の忠臣、片倉小十郎があった。
 佐助の言葉に弾かれたように顔を上げた幸村が、ゆっくりと何かを噛みしめるように頷く。
「政宗殿も、同じ思いでおられるだろうか」
「同じかどうかは、わかんないけどさ。燻ってんじゃないのぉ」
 大将も旦那も、相手の二人も物好きだよなぁと呟く佐助に、幸村が目じりを緩ませる。そこに、侍女が朝餉の粥と菜を運んできて、二人は共に食事をした。
 食べ終えた佐助は、もう少しゆっくりしたいけど、と言いながら立ち上がり、寒い寒いとぼやきながら部屋を後にする。
 残った幸村は、さてどうしようかと障子越しに差しこむ光に目を細め、佐助が芽吹き始めた山に入ってと言っていたことを、思い出した。
 すっくと立ち上がった幸村は、藁沓に足を入れて腰に皮袋を下げ、少し出てくると屋敷の者に言い置いて門を出た。
 まぶしいほどの日差しに目を細めながら、明るさを増したような土の上を歩いて行く。
 土が日増しに色味を薄くしている気がするのは、日の光が柔らかくなったからだろうか。それとも、眠っていた命が目覚め始めたからだろうか。
 街道を進んでいた幸村は、ふっと道端の、雪の中から顔を出す土筆に目を止めた。
 近寄り、しゃがみ、見つめる。
 土筆の命の熱に溶かされたように、まるく雪が解けて姿を見せている。
 そっと手を伸ばし手折って、鼻に近づけると命の香りがした。
 手の中に納まるほどの、ちいさく細い土筆から、圧倒されるほどの息吹を感じる。
 吸いこんだ香りを体にめぐらせ、ふうっと吐き出した幸村は、それを腰の袋に収めた。
 綺麗に洗い、灰汁を抜いて味噌と和えれば良い酒の肴となる。寒さが緩んできたとはいえ、日が落ちればまだまだ寒い。夕餉の後、佐助に燗をつけてもらい、土筆を肴に敬愛する武田信玄も交えて、三人でゆるゆると呑むのも良いなと、幸村は思った。過ごすほどでは無く、臓物を温める程度の酒であれば、翌日に響くことも無いし、寒がりの佐助も眠りにつきやすいだろう。
 顔を上げ立ち上がった幸村は、誰の足跡も付いていない雪の上に、藁沓を踏み下した。
 溶け始めた雪は、ふんわりとした冬のさなかのそれよりも硬質で、氷交じりの音がする。木々の間に入れば、厚い雪に覆われた地面のそこかしこで、丸く溶けている部分があるのが目についた。その中心に、目覚め始めた新緑の命がある。
 ゆっくりと、それらを確かめるように首をめぐらせながら、幸村は歩を進める。
 丸く雪が解けている所を見つければ、近寄り、覗き込み、土筆やふきのとうであれば、手を伸ばして袋に収める。
 低い場所に伸びている枝に目を止めれば、今か今かと東風を待ち焦がれている新芽があった。
 ふっと幸村の目が、春日のように輝く。
 今か今かと、山に住む命が――山自体が、冬の間に眠らせていた命を、春に向けて凝らせていた命を起こす刻を待ちわびている。
 爆発するように命の輝きをまき散らす山の姿を思い出し、その先駆けの息吹を肌身に感じ、幸村は深く深く、指先や足の先、髪の一本にいたるまで、その息吹をゆきわたらせるように息を吸い、自身の命と交じらせてから、ゆっくりと吐き出す。
 春の気配を感じるのに邪魔な視界をふさぐため、閉じていた目をゆっくりと開ければ、雪に反射した陽光が目に刺さった。
 思わず強く目を閉じて、そろりそろりと瞼を上げる。
 この雪が溶ければ、土に滲み込み川に流れ、命を支えるものとなる。
 幸村は今夜の肴になる程度の量を採り終えると、傍に在った大木の太く力強い幹に手を当て、耳を当て、大木の内側にある命の音に耳を澄ませた。
 水を吸い上げる音が聞こえる。
 意識をそれに集中させていると、自分の血潮の音を聞いているような心地になった。
 閉じている薄い瞼から差し込んでくる光が、紅い。
 瞼の薄い血管を浮かび上がらせる日の光が、幸村の視界を赤に染めている。
「……ふう」
 息を吐き出し、大木から離れた幸村は太い幹を二度、手のひらで叩いて山を下りた。
 道に出れば、里の者たちが畑で何やら作業をしている。子どもたちが、走り回っている。
 まだ雪が残る間に、凍った土を掘り返すのは骨が折れるだろうと思いながら、そうすることで良いものを育てられると聞いたことのある幸村は、彼らもまた芽吹く春を待ち遠しく思っているのだろうと、人の命を繋ぐための作物を育んでいく彼らのことを、仁愛を込めた眼差しで見つめた。
 ばさ、と大きな羽音が聞こえ、顔を向ければ佐助の大烏が舞っていた。その足には佐助の姿も文らしきものの影も無い。
「旦那」
 ぽんっと背中を叩かれ振り向けば、新緑色の化粧を頬と鼻に施している佐助が、小さく首を傾けて微笑んでいた。
「おお、佐助」
「散歩?」
「うむ」
「懐かしいな」
「うん?」
「山に入った俺様を、旦那がまだこぉんな小さなころに、追いかけてきて雪の春山で、迷子になっちゃったことがあったなぁって」
 そうして佐助が示して見せた大きさは、人差し指と親指を鉤状に曲げた幅で「それでは、ネズミほどの大きさではないか」と幸村が笑った。
「そんくらい、小さいなって思ってたんだよ」
「ぬぅ」
 意地の悪い顔をする佐助に、幸村が唇を尖らせる。
「ふふ。ま、今はうんと大きくなったよね。――俺様のが、まだ背は高いけどさ」
 そう言って、ひょいと横に並んで背を伸ばした佐助に、幸村も背筋を伸ばした。目線が上にある佐助を、幸村が不機嫌そうに見つめる。佐助は、得意そうに幸村を見下した。
「すぐに、追い抜く。俺はいずれ、お館様よりも大きくなってみせるぞ」
「そりゃあ、楽しみだ」
「出来ぬと言うのか」
「えぇ。そんなこと、一言も言ってないけど? そう思うってことは、旦那が心の中では無理だって思ってるからなんじゃない」
「そのようなことは無いっ」
「ホントかなぁ?」
「まことだ!」
「ムキになるトコが、あやしいよねぇ」
「まことのことを、まことと言うておるのに、佐助が信じぬからであろうが」
「んっふっふ」
 じゃれあうように言葉を交わし、子どもが戯れるような足取りで、二人は言葉をかける必要も無く、当たり前のように屋敷への道を進む。
 春の訪れを待ち遠しく焦がれる谷の鶯のように、佐助の大烏が口をつぐみ二人の進むのを眺めていた。

2013/02/05



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