さらりと長い後ろ髪のひと房をひるがえし、真田源次郎幸村ははじけるような笑みを木々の間に向けて叫んだ「佐助!」「はいはいっと」 木漏れ日の間から調子の軽い声が返ってきて、幸村のすぐ横に突然の風が舞い起こった。それはすぐに森の木の葉の重なりを染め抜いた忍装束に身を包んだ、猿飛佐助という男の姿になった。「どうだった」 うれしげな幸村に、彼の忍は軽く肩をすくめて見せる。「そうか」 つぶやく声は、それほど落胆をしていなかった。「ま、もうちょい後になれば、すぐに遠掛けも出来るようになるだろうねぇ」「うむ」 佐助の返答は、幸村の想像するうちだったらしい。裾を端折り藁沓を履き、道を駆け山に入り里を一望できる場所を目指していた幸村は、先に山頂の高い杉の木の上で領地の様子を確認してきた忍と共に、ゆっくりと雪山を上って行った。 そうして山頂に来た幸村は、手近な太い枝に腕を伸ばし、体を縮めたり伸ばしたりして木に登り、太い幹の上に立つ。ひょいひょいと慣れた様子で木に登ってきた佐助が横に立ち、共に春の空に照らされた冬の化粧を全身に纏う地上を見つめた。「春は、まだ遠いようだな」「気が付けば、あっという間に春になってるよ」「そうか」「そう」「そうだな」「うん」 冬が嫌いなわけでは無い。冬には冬の良さがある。けれど、冬でも春でも無い、この春を待つ時節になると、幸村は身の内になんともいえないむずがゆさのようなものを湧き上がらせ、じっとしてはいられなくなるのだった。 幼いころより彼の傍にいる忍は、そんな様子を毎年恒例の風物詩のように感じており、主がうずうずとしはじめると、共に雪山に上り春の空と冬の地上を眺めることは永久に続く当たり前の行為のように――そうではないとわかっていながら、受け止めていた。 春の光が幸村を包み、ふわりと触れる風は冬の匂いを運んでくる。 春でも冬でも無い、季節の混ざり合う大気に目を細め、まぶしそうにする幸村は谷の鶯よりも春を心待ちにしているように、佐助には見える。いつまでも幼さの消えない彼が、野山を駆け回るように槍を振るい、人を屠る猛る獣と化す戦場が、雪解けの向こうで待っている。血なまぐさい風と、悲鳴と欲と憎悪と希望を織り込んだ大気が、真っ白な風の向こうで――うららかな日差しの向こうで、待っている。 当たり前であってはならないはずの、戦国の世では当たり前の戦場が待っている。 ぞわ、と佐助は二の腕のあたりに虫が這ったような不快を感じて、思わず両手で自分を抱き締めるようにして、腕をさすった。「寒いのか」「え。ああ、うん。ちょっと、寒いかも」「佐助は、体温が低いからな」「旦那が高いだけでしょ。弁丸様んときのまんま」「なっ……。それではまるで、俺が未だに子どものままであるようではないか」「俺様にとっちゃ、幼名の時のまんま、旦那はなんにも変わって無いよ」「ぬうっ」 唇を尖らせる主の姿に、佐助は目を柔らかく細める。誰が、何が、こんなふうに素直に感情を表す青年を、子どものような目をして景色を眺める青年を、戦場で紅蓮の鬼と称されるほどに人を屠る獣と変えてしまったのだろうか。「佐助」「なあに、旦那」 考えても仕方のないことだと――武門に生まれ天性の俊敏さと剛力を併せ持った幸村が、武勇の誉れ高い武将となることは当然の結果だと、この戦国の世では喜ばしいことであるとわかっていながら、ふっと意識をかすめる思考から離れ、佐助はのんびりと幸村の呼び声に応えた。「あれは、何だ」「ん?」 幸村の指差した方向へ、目を向ける。新芽を凝らせている葉を落とした木々の隙間から見える街道に、幾人かが蠢いていた。小脇に子どもを抱え、背に女を背負った男が、五人。「ありゃま。人さらいか何かかね」 佐助が呟いた瞬間、横に居た幸村が飛んだ。「ちょ、旦那――っ」「おぉおおおぉおおお!」 叫び声をあげて飛び降りた幸村は、恐るべき跳躍力を持って木々の幹を蹴り飛ぶように進んでいく。「あ〜あ、もう。ほんっと、猪なんだから」 甲斐の虎と呼ばれる武田信玄の薫陶を受けているため、若虎と称される幸村の気質は、虎というよりも猪の方がぴったりとくるのではないかと、幾度も思い浮かべていることをつぶやきながら、佐助は風となり彼を追った。 街道で、気を失っている女と子どもを運ぶ男たちは、遠くから響いてくる雄たけびを、はじめオオカミか何かの声だと思った。けれどそれが近づいてくるにつれ、人の声だとわかり追手が来たのかと走り出す。 そんな男たちの前に、幸村が頭上から降り立った。「某は、真田源次郎幸村! かどわかしを行うとは、不届き千万。成敗いたす」 名乗りを上げた幸村が一人であること、幼さの残る顔であること、武器らしきものを手にしていないことを見て、男たちは唐突な登場に驚いていた体を緊張から解いた。「なんだぁ。真田だかなんだか知らねぇが、素手で俺ら全員とやりあおうってのか」「つうか、かどわかしって何でわかったんだよ。気を失ってる女と子どもを、介抱するために運んでいるのかもしんねぇだろが」「なんと。貴殿らは、かどわかしでは無いと申されるのか」 目を丸くして瞬く幸村に、彼らの頭領らしき男が口の端をニヤリと持ち上げた。「見た目で判断をするなって、教わらなかったのか? 早いとこ、この二人を介抱してやらなきゃなんねぇんだから、そこをどきな」「介抱をしなきゃいけないってんなら、俺様がここで具合を見てあげようか。その方が、早いでしょ」 男たちの退路を塞ぐように、佐助が現れる。「おお、それがいい。佐助は様々な薬草を常備しておる上に、医学の心得もありもうす。佐助に診せてみては、いかがでござろう」 にこにこと提案をしてくる幸村に、男たちが舌打ちをした。「かどわかしじゃないんなら、かまわないよねぇ?」 佐助の言葉に、短気らしい男が腰に下げていた得物を抜いた。「野郎! からかうんじゃねぇよ」「からかうっていうか、先に嘘をついて旦那を騙そうとしたのはソッチなんだから、怒られるいわれは無いと思うんだけど?」「なんと! 某を騙そうとしたのか」「旦那、あんま人の言う事を、鵜呑みにしちゃいけないって何度も言ってるだろ。どう見たって悪党でしょ、コイツら」「見た目で判断をしてはいかんと、常々言うておるではないか」「それはそれ、これはこれ。臨機応変」「何、俺らを無視して平和そうな会話をしてやがる!」 自分たちの頭上ごしに、緊迫感のかけらもない会話をする幸村と佐助を、男たちが睨み付ける。子どもと女を道端におろし、男たちはそれぞれの得物を抜いて幸村と佐助に向かい、腰を落とした。「たった二人で、武器も持たずに止めに入るとは恐れ入るぜ」「相手をするのは、旦那だよ。俺様は手を出さないから」 ひらっと手を振った佐助が、幸村を指す。驚きを示した男たちが幸村に顔を向ければ、幸村は剣呑な笑みを浮かべて足を広げ、腰を落とし、臨戦態勢を取った。「お相手いたす」「ぶっ、はっははははは! 威勢がいいなぁ。敬意を表して、苦しまねぇように殺してやるよ」 道のわきに寄った佐助が木に背を預け、完全に傍観を決め込むと男たちは全員が幸村に向かった。じりじりと間合いを計りつつ幸村の様子を伺う男たちを、目だけを動かし確認する幸村の神経がひんやりと鋭く研ぎ澄まされていく。一呼吸ごとにやわらかさを消していく幸村に気付いたのか、男たちの表情から余裕が消えた。「っらぁあああ!」 間合いを詰めた男の一人が、短刀を握りしめ幸村に突っ込む。それに呼応するように、他の男たちも襲い掛かった。「ふっ」 軽く息を吐き出して右に飛んだ幸村は、最初の男の攻撃をかわしざま、次に迫った男の手首に手刀をおろし得物を奪う。それを佐助に向けて投げれば、佐助は自然な動作でそれを受けとめた。驚く男の首を打ち昏倒させ、続く男の顎を蹴り上げ、すぐさましゃがみこむ。幸村の額を狙った切っ先は、残った幸村の後ろ髪をむなしく突いて、それに驚きを示す間もなく攻撃をかわされた男はみぞおちに拳を受け、呻き倒れる。気を失い自分に向かって倒れ込んできた男を担ぎ、たじろぐ男に投げつけて、最後の男の顎に回し蹴りをくらわせれば、幸村は息を乱すほどのことも無く事を終えた。「ひっ、ひぃい」 唯一、気を失わなかった――仲間を投げつけられ、倒れただけの男が小さく情けない悲鳴を上げる。それにゆっくりと近づいた佐助が、腰に手を当て男の顔を覗き込んで微笑んだ。「相手が悪かったねぇ。甲斐の若虎は、素手でもアンタらの敵う相手じゃないんだよ」「ひっ、た……助けてくれ」「なんか、それって俺らがソッチを襲った悪党みたいな言い草だなぁ。悪いことをしたんなら、懲らしめられるって教わらなかったのかよ」 やれたやれと肩を竦めながら顔を上げた佐助が、幸村に目を向ける。「旦那。こいつら、どうしよっか」「きちんと罪を償わせなければなるまい」「そいじゃ、誰か人を呼んで連行するとしますか」 唇に指を当て、佐助が甲高く細い音を響かせる。すると、三人ばかしの忍装束を纏ったものが現れた。「かどわかしの犯人だから、丁重に運んであげて」 現れた忍らは無言で頷き男たちに縄をかけ、担ぎ上げて去って行った。「さて、と」 脇に寝かされている女と子どもの傍に寄り、佐助がしゃがみこんで口の上に手のひらをかざし、瞼を持ち上げ脈を確認する。「どうだ、佐助」 歩み寄ってきた幸村を、にっこりと佐助が見上げた。「気を失ってるだけだよ。大丈夫。すぐに、意識を戻すさ」 言いながら女を起し、背後に回って背中に気合を吹き込めば、女は鋭く息を吐き出し、幾度か瞼を震わせてゆっくりと目を開けた。「……あ」「大事ないか」 ぼんやりとしている女の顔を覗き込み幸村が問えば、状況が分からぬ女は周囲を見回し、ゆっくりと立ち上がった。佐助は子どもの傍に移動して、こちらは気付けをせずに抱き上げる。「かどわかしに、あっちゃったみたいだね」 佐助の言葉に振り向いた女は、その腕の中に眠る子どもに手を伸ばし、おそるおそる額を撫でる。「気を失っているだけだよ。大丈夫」 佐助の言葉に、やっと女は表情を和らげた。けれど、それは欠片も喜びを示しておらず、寂しげで悲しげな安堵だった。「いかがした」 眉根を下げた幸村の問いに、女は力なく首を振り、ありがとうございましたと頭を下げる。わずかも嬉しそうではない女の様子に、幸村は佐助に答えを求めるように目を向けた。「なんか、事情があるみたいだけど……よかったら、聞かせてくんない? どうにも出来ないだろうけど、話をするだけでも気楽になるって事が、あると思うぜ」 佐助が慣れた手つきで子どもを抱きなおす姿に、ふっと目じりを下げた女が本当に申し訳ないことで、と頭を下げた。「助けていただいたことは、大変に有り難いと思うておりますが――何分、このような時勢。村に帰っても食べるのがやっとの有様で、いつ畑が戦のために荒らされるのかと怯えつづけねばならないのならば、いっそのこと売られてしまったほうが、食いっぱぐれることは無いのではないかと思ってしまったのが、油断となりました」 そうして、申し訳なさそうに子どもの頬を撫でる。「私だけならともかく、子どもも巻き込むことになってしまったのは、私の弱さです」 そう言って、女は悔しそうに拳を握りしめうつむいた。 かける言葉が浮かばぬ幸村は、痛ましそうに女の細い肩が震えているのを見つめる。「冬の間に、飢えて死ななかっただけでも、アンタは恵まれていると思うけどね」 佐助の言葉に、女がハッと顔を上げた。「もうすぐ春だ。アンタもこの子も、凍えることなく春を迎えることが出来るんだ。冬の間に凍えて屍になっちまうよりもずっと、幸せだと思うけどね」 女が、きゅっと眉根を寄せる。その後ろで幸村が苦しげに奥歯を噛みしめ拳を握るのを見ながら、佐助は続けた。「ま、上を見ても下を見ても、きりがないけどさ。――なるべく、田畑が荒らされないように、村が戦場にならないように気を付けるよ。だからさ、自棄になったりしないで、もう少しがんばってくんないかな。戦の無い世の中を……アンタらも安心して暮らせる世の中を目指して、俺様たちも命を懸けてんだし。信じて堪えててくれると、嬉しいんだけど」 佐助の目は、語りかけている女にではなく、幸村を映していた。彼の気持ちを代弁すべく、佐助は柔らかな声を出す。「戦の無い世の中を――天下泰平を、俺様たちも望んでいるんだよ」 それは、半ば空虚で半ば本気であった。「……はい」 佐助の声が風に溶けて消え去ってしまうまでの間を開けてから、女が小さく頷いた。それに頷き返した佐助が、ことさら明るい声を出した。「こんなとこで立ち話してても、体が冷えるばっかりだし、帰ろうか。村まで送るよ。ね、旦那」「ああ、うむ」「子どもが、風邪ひいちゃったら困るしね」 そこで初めて、女がくすりと笑った。「それじゃ、行こうか」 佐助がまず歩き出し、女が続き、幸村が足を動かす。 のんびりと歩む彼らを包む冬の大気を、春の日差しが照らしている。 地上の冬を、命萌える春の日差しがあたためようと、輝いていた。2013/02/25