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東風願

 うららかな陽気に照らされて、任務を終えた猿飛佐助はのんびりと街道を歩いていた。
 春の気配に包まれた空気は、真綿の上にゆったりと身を横たえているように――あるいは、熱くも冷たくも無い水に浸かっているように心地よく、体だけでなく心までをも緩めてしまいそうになる。
「のんびりできるときに、のんびりしておかないとねぇ」
 先の任務は、佐助にとっては目を閉じても出来るほどに、楽なものであった。それを追えたあと、特に今は緊迫したものが無く急いで帰る必要もなかったので、佐助は春を楽しみながら、帰路についていた。
「今頃、旦那と大将は道場かなぁ」
 ちらりと手にある包みに目を向ければ、口元が自然とほころぶ。ついつい、帰り道に茶屋を見つけてしまい、ふらりと条件反射のように顔を覗かせて、土産にと求めた団子は佐助と旦那――真田幸村と、大将――武田信玄の三人で食すには、少々多すぎるような気がしたが、あの二人の胃腸の強さと食欲を考えれば、佐助の食べる分を無くしても足りぬのではないかと、ふと思った。
「ま、いっか」
 足りなければ、作ればいい。
「て、いうか、ちょっと足りないほうが良いかも」
 あの二人ならば、食べ過ぎて夕食が入らないということは無いだろうが、腹ごなしをしようと言い出されては、かなわない。
 体力が無尽蔵なのではないかと思えるほどの、あの二人だ。
「物を壊されちゃあ、たまんないしね」
 鍛錬のうちであれば、小さな子どもでは無いので、そのあたりのことをわきまえてくれる。だが、気分が高揚をしすぎると、あの二人はまるで子どものように加減を忘れ、力の限りに全力で、物騒すぎるじゃれあいを始めてしまうのだ。
 武田軍の面々は、彼らが剛勇を世に轟かせるほどの力量であることと、実直に過ぎて幼い面も持ち合わせていることを認識しているので、師弟関係でもある信玄と幸村の、雄たけびのような手合せの声と、大気を震わせるほどの激しい仕合いには慣れている。
 慣れてはいるが、加減を忘れた二人の余波を受けて、庭の燈籠が壊れたり、縁側が崩れたり、酷い時には屋敷が吹っ飛んでしまうこともあるので、その始末を担わなければならないことを考えて、眉根を下げて吐息をもらした佐助の横を、小さな黄色の蝶が通り過ぎた。
 あるかなしかの風が、足元の草を揺らしている。春と冬が入り交じり、存在を主張しているような激しい春の嵐を忘れたかのように、すっかりと甲斐の里を包み込んだ春は、おだやかだ。
 そよぐ風が佐助の髪を撫で、どこか遊びに誘うような気配を残していく心地よさに目を細め、佐助は春の日差しに目を向けた。
「あれ?」
 ふと、土手の草の間に艶やかな枯葉色の――あるいは、栗色の髪がゆれているのに気づき、佐助は足先をそちらに向けた。
 そっと近寄り覗き込むと、それは佐助の予想した通りのものであった。
「なんで、こんなところで昼寝をしているのさ」
 ささやく佐助の唇が、やさしげに持ち上がる。
 無防備な幼い寝顔で、彼の主である真田幸村が、草の上に転がっていた。
 そっと横に腰を掛けた佐助が、幸村の額にかかる髪を掻き上げる。すやすやと寝息を立てる幸村は、深い眠りに抱きすくめられているようで、佐助の指に気付かない。
 ふふっとくすぐったそうに肩をすくめた佐助は、懐かしく目を細めた。
 幸村が幼いころ――弁丸と名乗っていた頃、佐助はよく共に野山を駆け回った。
 子どもというものは、とかく加減を知らぬもので、全力で駆けずり回り、全力で何事にも挑む。そうして加減を知らぬものだから、唐突に体力を使い果たし、ぱたりと眠りに落ちてしまうのだ。
 そうして眠ってしまった弁丸を、幾度この背に負うて歩いたか。
 小さく頼りないくせに、恐ろしいほどの生命力を発するぬくもりを、幾度この背に感じて来ただろうか。
 その頃と寸分の違いも無い寝顔を眺め、佐助は膝を抱えて頬を乗せる。
 この穏やかでまっさらな顔が、戦場では鬼神と化すことの不思議に、佐助の胸が冷ややかにざわついた。
 駆け回る人馬が巻き上げる砂塵が、まるで霧のように立ち上り視界を濁らせる。多しい叫びと悲鳴が絡まり合い、金属の打ち合う音が絶叫と恨みと猛りを生みだし、勝ち得たものが悦びを浮かべた瞬間に敗者となる、生臭い鉄の香りが充満している、混沌とした全力のたわむれ。
 その中で、この幼さを残す丸みのある頬に朱を差して、何に煩わされることも無く夢に揺られる幸村が、一振りで五人もの首を跳ねることなど容易いほどの、雄々しき獣であることが、佐助には不思議であった。
 そんな男は――力量云々を考慮しなければ、この戦国の世にはごまんといる。そんなことは百も承知だが、幼き頃より傍近くにいることで、深く真田幸村という男のことを知っていることで、その不思議は佐助の中で大きくなり続けていた。
「旦那」
 そっと呼んでみても、何の反応も示さない。
「真田、幸村」
 やはり、動かない。
「弁丸様」
 もにゅり、と幸村の唇が動き、佐助は目を丸くして、くすりと鼻を鳴らした。
「もう。成長していないなぁ」
 うれしげにささやいた佐助は、ふっくらとした頬に指を這わせて撫でた。
 遠くから、激しい命の鼓動が聞こえてくる。
 戦乱という名の猛獣が、幸村を呑みこもうと牙をむいて挑んでくる。
「旦那は、絶対に俺様が守るからね」
 幼き頃に、いつか信玄と共に戦場に立ち、役立つことを目標入していると言われたことがあった。その折に佐助が言ったのが、今の言葉であった。
 あの時、幸村は佐助に何と答えたのだったか。
 幼くあたたかな命のかたまりを、この手で必ず守り続けると自分にも誓った言葉を胸に抱き、佐助は技を磨き戦場を駆け、時には忍にはあるまじき態度で幸村を止めた。
 穏やかな顔をした春の中に、むせ返るような凶暴な命をまき散らす夏に、あるいはゆっくりと次の命を育むための準備を始める秋に、戦の獣は潜んでいる。雪に閉ざされ身動きのできぬ冬でさえも、獣は爪を研いで目を光らせている。
 それが今の世の習いであると知ってはいても、それらを終わらせるために、さらなる戦禍を広げていると知ってはいても、佐助は今のように穏やかな時間だけが、彼の目に映る親しい人々の上に流れることを望んでいた。
 幸村だけでは無い。佐助の心に住まう近しい人々の上に、このようにうららかな風だけが吹けばいいと、願っている。
「ん――ぅ」
 睫毛を震わせ、ぼんやりとした様子で幸村が目を開ける。幾度かまたたき、目の前にある顔に反射的にとろけるような笑みを――子が母を見つけた時のような笑みを浮かべた幸村に、佐助も慈愛を込めて目じりを下げた。
「おはよ、旦那」
「んむ」
 寝ぼけた声で返事をしながら、幸村が身を起す。その髪についている草をつまみ取りながら、佐助が問うた。
「なんで、こんなとこで昼寝してたのさ。この時間は、大将と修行中だろ?」
 眠い目を擦りながら、まだ眠りから抜け出ていない呼気を吐き出し、幸村が答える。
「お館様は、治政のために書斎におられる。俺は、佐助がそろそろ戻ってくる頃かと思って、迎えに出たのだ」
「迎えに出て眠っちゃってたら、意味が無いでしょ。俺様が気付かずに、通り過ぎたらどうするつもりだったのさ」
「佐助が、俺を見落とすはずが無いだろう」
 さらりと、当たり前の事のように言った幸村に絶句する。たしかに佐助は忍であり――特に優秀な忍であり、幸村の言うように見落とすことは無かっただろう。けれど、幸村の言葉にはそのようなことは全く含まない、ゆるぎない信頼のみがあった。なんとなく面映ゆくなった佐助は、その気持ちを誤魔化すように立ち上がる。
「ほら、旦那。帰ろう」
「うむ――ぶっ、くし」
「ああもう。こんなところで寝ちゃうからだろ。春って言っても、まだ少し肌寒さが残ってるんだからさ。風邪をひいちゃったら、困るだろ」
「ん、うむ」
 立ち上がった幸村が、草を払いながら佐助の手にある風呂敷包に目を止めた。
「あ、これ、お土産ね。たまたま茶屋を見つけたからさ。帰ってあったかいお茶を淹れて、大将にも息抜きに団子を差し入れて、一緒に食べよう」
「うむ!」
 力強い返事に呆れたような笑みを浮かべた佐助が、先に立って歩き出した幸村の背を見つめる。まっすぐに太陽に向かう彼の身の内に凝る命を見つめながら、佐助の意識の中の世界の大半を占める――佐助の記憶にある世の中の大半を占めている輝きに、東風のような吐息をこぼす。
 どうか、この人の――この心の中に浮かぶ人々の上に、穏やかな日々が続きますように。
 願うともなしに浮かび上がった望みを叶えるため、佐助は闇に沈み非道を行い身に血を浴びて、命を奪う。
「佐助、何をぼんやりと立ち尽くしておるのだ」
「ん? いや――旦那じゃなくても、こんだけ気持ちの良い天気なら、昼寝をしたくなるなって思ってさ」
 小走りに進んだ佐助は、この身に受けた穢れを溶かし尽くすような、いくら人を屠り返り血を――恨みを掛けられても、寸分も曇らぬ命の輝きの横に肩を並べた。

2013/03/09



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