雨の森は、いっそう暗さが増す。雨音が木の葉を打ち揺らしているくせに、穏やかな夜よりもずっと静寂に満ちているような気になるのは、何故だろう。 猿飛佐助は雨に打たれながら、肉塊と化した人だったものを見つめる。 これを動かなくしたのは、佐助だ。 動かなくしなければ、戦況が不利になる恐れがあった。だから、殺した。 命じられたわけではない。動きを知れば、きっと武田信玄は――佐助の主である真田幸村が敬愛し、仕えている男は迷うことなく、佐助に殺せと命じただろう。忍同士の戦というものを、忍という道具の使い方を、信玄は心得ている。 武田の忍は、他所の忍よりも人として扱われていると言われている。 それは、本当のことだ。忍である佐助に、信玄は気安い態度を許している。指示を仰がずとも、考え行動をすることを許している。 佐助の主である幸村は、そのあたりを勘違いしていた。彼は忍を人として扱いすぎる。幼い頃から佐助が世話役として傍に居たからか、生来の気性からか。 おそらく、その両方だろうと佐助は思っている。「ああ、汚れちゃったな」 もはや人であったとも言えぬほどの、肉の破片と化したものたち。そのものらが吹き上げた赤黒い命の迸りを、雨が洗い流していく。 赤黒いものが落ち着き凝り、佐助の身に沈んでいく。佐助の内側を、黒く染めていく。 嗚呼。 目を閉じて、佐助は空を仰いだ。木の葉を打ちながら、雨が佐助の上へと降り注ぐ。清浄な空から降り注ぐ雨は、命をはぐくむ木の葉に触れて、佐助を濡らす。 佐助の身にかかった赤黒いものが、洗い流され地面へと吸いこまれていく。それなのに、佐助の内側にある影は、より暗さを増していった。 真っ暗だな。 夜の、雨の森よりもずっと、自分は真っ暗な中にいる。屠った命が佐助にまとわりつき、彼の魂を暗闇へと押し流していく。濁流に飲まれたように、重い泥に抱きすくめられたように、佐助は逃れる術を知らず、逃れようとも思わずに、深く深く押し流されるまま、闇の中でじっとしていた。「おぉおおおぉおおおっ!」 紅蓮の焔が、戦場を駆け抜ける。槍を一閃すれば、面白いように彼を屠ろうと刃を向けた者らの腕が、足が、胴が、首が飛んだ。 血潮が吹き出し、赤い鎧を身に纏った焔に触れて、最後の命の輝きを示す。 紅蓮の鬼、真田幸村。 太陽の下で槍を振るい、次々と敵兵を屠っていく彼は、とても眩しい。 どれほど"人"を"物"に変えても、佐助のように闇に沈むことが無い。闇を、彼の焔が焼き尽くしているからだろうか。 佐助はそっと、自分の手のひらに目を落す。ふ、と意識のそれた佐助に、好機とばかりに刃を向けて迫ってきた影を、虫を追い払う程度の無関心さで屠った。 忍とは、影の存在だ。日の下にあっても、影であり続ける。 自分は、幸村の影だ。彼が眩しく輝けば輝くほどに、自分の闇は濃くなっていく。だからこれは、当然のことだ。 恨めしいと思ったわけではない。哀しいとも思っていない。 ただ、ふと思ってしまったのだ。 彼は、暗闇の中に沈むということを、知っているのだろうか、と。 呼ばれ、小袖姿の佐助が幸村の元を訪れると、縁側に座して夏になる前の、星降る空を眺めていた幸村が、にこりとして手招いた。「どうしたのさ、旦那。なんかあった?」 昼間の戦は、勝利した。こちらも痛手を負うには負ったが、最低限の犠牲で済んだ。佐助が昨夜、こっそりと屠った者らの工作が、相手の予定通りに進んでいれば、もう少し被害は大きかっただろう。それを、佐助は誇示をすることは無い。忍の仕事は、あくまでも表に出すものではない。何より、真っ直ぐすぎるほどに真っ直ぐで、いまだ幼い部分の残る主には、知られぬほうがいい働きだ。戦場でちらりと佐助に目を向け、わずかにねぎらうように頷いて見せた信玄には、それとなく気づかれていたようだが。「うむ。気になることがあってな」「気になること?」「そうだ」 まさか、自分の昨夜の所業に気付かれたのだろうか。いや、そんなはずは無い。けれど、そう思い切れずに、佐助は背筋に冷たい汗を一筋流した。 幸村は、普段はどうにも間が抜けているところがあるが、時折、本人も気付かぬほど自然に、さりげなく確信を突くことがある。佐助が気付かぬようなことにも、気付いてしまう場合がある。「戦のことなら、勝利をしたんだからいいんじゃない? どうしても気になるってんなら、俺様に言うより大将に報告をしたほうがいいだろ」「違うのだ」「なにが」「戦のことではない」 まっすぐな幸村の目が、佐助を捉える。金縛りにあったように、佐助は動けなくなった。真剣に、真っ直ぐに、けれどさりげなく心の奥まで見透かすような目に触れてしまえば、佐助は瞬時に魂を絡めとられ、彼の前から逃れられなくなってしまう。「佐助のことだ」「俺様のこと?」 平素と変わらぬ声音を心がけた。ひどく喉が渇く。体中から血の気が遠のき、心音がやけに大きく感じられた。 何に、気付かれたのだろうか。「何か、気に病んでいることでもあるのか」「えっ」「戦場で、ぼんやりと手のひらを見ていたではないか」 見られていたのか。 ひやりと、吹くはずの無い季節はずれの冬風が、佐助を撫でた。「ああ、あれね。ちょっと、手甲の具合が悪くってさ」「ごまかすな」 ぞくりと鉄の塊を飲まされたように、胸が冷えて重くなった。朝露のように澄んで輝く瞳に、嘘や誤魔化しは効かない。 すうっと細く息を吸い込んで、佐助は言葉をゆっくりと、紡ぎだした。「夢をさ、見たんだよ」「夢」「そう、夢。真っ暗な中でさ、俺様が一人で漂っているんだ。暗いものはどんどん流れ込んできて、増えてきて、俺様を押し流していくんだ。どんどん、光から遠ざかって、光なんて見えなくなって、誰も見えなくて、何も聞こえなくて、自分の体が在るのかさえわからないくらいの、暗闇。そこで俺様は、どうしていいのかがわからなくなるんだ。何をしていいのかが、わからない」「その闇は、逃れられぬものなのか」 おずおずと、幸村が問う。「逃れられない。真っ暗なものに包まれて、俺様は一人、途方にくれているんだ」「ふうむ」 腕を組み、幸村は難しい顔になる。その顔に、言わなければよかったという後悔と、この心地をわずかでも共有できるのではないかという期待が、湧き上がった。 しばらく幸村を見つめていると、真っ暗か、と小さく呟いた幸村が眉間のしわを深くした。「よく、わからぬな」「――そっか」 当然だ、と思うよりも深く冷たく、落胆が佐助の胸を包む。「ま、単なる夢の話だからさ」 気にすることなんて無いからと軽く笑い流して、佐助は逃げるようにその場を去った。 何を、期待していたのだろう。何故、これほどに落胆をしているのだろう。恥ずかしい。忍風情が、何を望んでいたんだ。 せかせかと動かしていた足を、佐助は止めた。 戦が終われば、真っ暗な自分はどうなるのだろう。先ほど語ったように、きっと途方にくれるしかなくなる。新しい泰平の世に、汚れた自分はふさわしくないだろう。忍の仕事は、人目を憚るような仕事は、減っていくはずだ。「はは」 短く乾いた笑みが、漏れる。 戦を終わらせるための、戦。泰平を求めるための、戦。その戦が本当に終わってしまえば、忍は用済みとなる。つまりは、自分の居場所を失うために戦っているということなのではないか。「ばかばかしい」 自分の思考を鼻で笑い、佐助は自室へと戻った。「佐助っ、佐助ぇえっ!」 宵闇に響く呼び声に、佐助は飛び起きた。「旦那っ!」 尋常ではない呼び方に、暗殺者でも出たのかと顔を引きつらせ現れてみれば、幸村は褥の上で仰向けになり、目を閉じて両手を天井に伸ばしていた。ざっと周囲に意識をめぐらせ、妙な気配も痕跡も感じないことをいぶかしみつつ枕元に膝を突く。「旦那」 呼べば、ぱかりと瞼が上がった。「おお、佐助。どうした」「どうしたもこうしたも。大きな声で呼ぶから来たんだろ」 きょとんと瞬きをした幸村が、へらりと笑う。「俺は、声に出してしまっていたのか」「はぁ?」 むくりと起き上がった幸村が、にこにこと佐助に向いて胡坐をかく。「考えてみたのだ」「何を」「身動きが取れぬほど、途方にくれてしまうほどの暗闇をだ」「へっ?」 今度は、佐助がきょとんと瞬きをした。「真っ暗な泥のようなものに包まれて、身動きもとれず何も見えず、途方にくれるほどの闇を、想像したのだ。目を閉じ、意識を集中させ、深く深く沈めと念じながら、想像をしてみた」「なんで、そんなことをするのさ」「佐助が、何ゆえ様子がおかしかったのか、知りたかったからだ」「別に、知らなくっても困らないだろ」「困る困らぬの問題ではない」「ふうん? で、それがなんで、俺様を呼ぶことになったのさ」「ああ、うむ」 少し照れくさそうに、幸村が鼻の横を掻いた。「幼い頃、俺は闇が怖かった。星の明かりすらも無い夜は、特にだ」「ああ、そういえば」 彼がまだ、弁丸という幼名を名乗っていた頃、星明りすらない夜に怯えていたことを思い出す。「それで、俺様を呼んだの? 寂しくなったんだ」 幼い幸村は、佐助の名を呼び眠りに付くまで傍にいてほしいと望んだ。一人ではないことを、確認しなければ眠りにつけなかった。それを思い出し、あたたかみのある揶揄をすれば、違うとにらまれた。「何もできず、途方にくれるほど真っ暗だと言ったであろう」「うん、言った」「だから、佐助と言ったのだ」「はぁ?」 幸村が、少し胸を張る。「俺は、長く佐助と共に過ごしてきた。俺の傍らに、必ず佐助がおると言っても過言ではないほどにな。それは、佐助も同じだろう」「ああ、うん。まあ、そうだけど」「だから、佐助を呼んだのだ」「さっぱり、わからないんだけど」 不思議そうに、幸村が首をかしげた。「長く、俺と共に在った佐助の名を口にしたのだぞ」「うん。それは聞いた」「佐助の名を呟けば、それまでの思い出がよみがえるではないか」 何故わからないのだと、幸村は佐助の顔を覗き込んだ。「身動きもとれず、途方にくれたならば、逃れられないのならば、俺は佐助の名を呟く。さすれば、さまざまなことが蘇る。お館様のことや、政宗殿のこと。共に過ごした日々に出会った者や、出来事がだ。むろん、いやな思いでも蘇るだろう。だが、途方にくれることは無くなる。思い出に触れることができる。一人ではないと、確信ができる」 得意げな幸村の笑みが眩しくて、佐助は目をそらし首を振り、足元から湧き上がる悦びに震えた。「あ、あはは――はは。なんだよ、それ」「笑うな。俺なりに、懸命に考えたのだぞ」「ははっ。忍の夢のことを真剣に考えるなんて、ほんと、旦那ってば」 むう、と幸村が唇を尖らせる。「佐助が、途方にくれると言うから、何かないかと思ったのだ」「うんうん、ありがとね。ありがと、旦那」 けらけらと笑い続ける佐助に、幸村は完全にへそを曲げ、そっぽを向いた。「とにかく。同じような夢を見たならば、佐助も誰かの名を呼んでみればいい。少なくとも、途方にくれることはなくなると思うぞ」 ごろりと横になり掛け布をかけ、夜中に呼び出してすまなかったなと言う主に、佐助は笑いをおさめた。「旦那が、自分の傍らに俺様がずっといたって言うんなら、俺様だってそうだろ。だから、そうなったときには、俺様は旦那って呟いてみるよ」 おやすみと呟き、佐助は目じりから光るものが零れ落ちる前に姿を消す。 自室に戻った佐助は、目を閉じ深く心を落ち着けて、唇を動かした。「旦那」 体内に凝る暗く重い闇の中に、ふわりと淡く、けれどゆるぎない光が腹の底から浮かび上がった。2013/05/29