脇息にかかっている腕が、ずるりと流れて床に落ちる。それを追いかけるように、腕の先の肉塊もくず折れた。 どす黒い染みが、床に広がる。それを見下ろす者を、灯明が淡く浮かび上がらせていた。 そこにある肉塊は、先ほどの一つではなかった。上座の肉塊の向かいに、数人の男女だったものがより集まって重なっている。いずれも、申し訳程度の布をまとっているか裸体であった。 それに、嫌悪するように目を細めた彼の側に、人影が現れる。「隊長、終わりました」「ん、あぁ、ご苦労さん」 報告に来たものが、ふいと隊長―猿飛佐助の視線の先に目を向けて、うえぇと舌を出す。「悪趣味っすねぇ」 素直な反応を示す彼は、佐助よりも年嵩に見える。こういうものを、幾度となく見てきたはずの相手が、今でも素直に嫌悪を示す姿に緊張がゆるんだ。 察したらしい相手が、肩をすくめてみせる。「この程度のモンなら、いくらでも見たことありますけどね、嫌なモンは嫌ですよ」「ま、そうだけどさ」 ため息混じりに答えた佐助の横顔に、にやついた笑みが向けられる。首をかしげると、隊長も慣れることはないんじゃないですか、という言葉を置いて、他を見てきますと姿を消された。 言われた理由は、わかっている。このような情景などとは無縁と思える人――真田幸村の存在が、あるからだ。 どれほど汚いものを見せられても、汚れることなど無いかのように思える――むしろそれを、浄化してしまうのではないかと感じる相手。このような世界があるなどと、想像すらしないであろう人は、佐助の所業を知れば、どのような顔をするのだろうか。――詰られるかな。 標的以外の、標的の被害者とも言える者も殺めた。それを、綺麗過ぎる彼は何故だと問うてくるだろうか。彼がこの任務につけば――武将である彼が、忍の任務を指示されるとは思えないが――この肉塊たちを救おうとするだろう。 残忍なまでの、優しさで。 命があれば、なんとかなるなんてことは、ありえない。命がなくなってしまっていたほうが、幸せな場合もある。生きながらえるほうが、地獄である場合がある。 それを知らず、彼はきっと、この肉塊たちを不殺して送り出すだろう。表面上は感謝しながら、絶望しか抱えない――あるいは憎しみに駆られる魂を内包していることに気付かずに。――けれど……。 彼は、それでいいのだと思う。こういう仕事はすべて、自分が引き受ければいい。詰られれば、教えればいい。釈然とされなくても、受け止めさせていけばいい。これから、彼が行き続ければ、心の生死も目の当たりにしていくだろう――見せていかなければいけないだろう。 人を、統べる者なのだから。 ふ、と彼の好敵手の顔を思い出す。幸村の敬愛する信玄が臥したとき、幸村に羨ましいと口にした男――伊達政宗。 真田幸村とは、立場も生きてきた環境も違う。人を統べることを念頭に置き続け、この程度の情景など、幾度も見るだけでなく体験をしてきたであろう者の言葉に、目を伏せる。「だから、アンタはキライなんだ」 口内でつぶやき、吐息として夜気に流す。割り切っては居ないだろうが、受け止めてはいるであろう政宗の人を食ったような笑みが脳裏に浮かぶ。――佐助。 ふいに、真っ直ぐに見つめてくる幸村の声が耳に届いた。 顔を上げても、この場所に居るはずは無い。――佐助。 あぁ、そうかと得心する。この声に、自分は思っているよりも囚われ、支えられているのだ。水あめのようにどろりとし、からみつく暗く黒いものが爪と肉の間から染み込んでくる。それが取り去られる感覚を思い出し、肉塊に向けて小銭を放り投げた。 三途の川の渡し賃。 払えず、向こう岸に渡れず、かといってこの世に留まることも出来ない、居場所の無い存在に、せめて進むことの出来る慈悲を。「極楽にふられるか、地獄にふられるかは、知らないけどさ」 居てもいい場所が無いよりは、マシだろう。「アンタは、自分の舟賃以上を持ってんだろ」 一番近い場所に居る肉塊を見下ろしてから背を向ける。 一刻も早く、帰ろう。 染み込んで来る黒いものが凝る前に。「任務、完了っと」 庭に出て、この任務についた者たちの顔を見、首尾に頷いて空を見上げる。 もうすぐ、この世でもっとも暗い時間になり、茜色の筋がそれを切り裂く。そのころには帰還できるだろうと踏んで、目を細めた。 いつか自分が支払う六文銭を、戦場を駆け抜ける炎に預けて、佐助は今を――生きている。2011/03/07