薄い空に、刷毛で刷いたような雲がかかっている。それが茜色に染まり、妙な模様を描いていた。「佐助の装束のようだな」「色違いってこと?」「うむ」 見上げる主の横に立ち、一緒に空を見上げる。「あの色で溶け込めるような森は、思いつかないねぇ」「紅葉の敷き詰められた川ならば、どうだ」 つぶやく佐助に、主が歳よりも幼い笑みを浮かべた。「俺様、ずぶぬれになんの?」「水面に浮いていればいいだろう?」「アメンボじゃないんだけど」「出来ぬのか」「いや、出来ないことも無いけどさ。どういう状況よ、ソレ」 問うと、わずかに首をかしげた主――真田幸村が真剣な顔になる。 ――あ、また下らないこと、真剣に考え始めてる。 クソがつくほどに真面目な彼は、時折、詮無きことに集中することがある。 ――軽く流しちゃえば、いいだけなのに。 くすりと、笑う。 こうして、下らないことに真剣になれる時間があることに、ほっとしながら。 見上げなおした空は、薄青から群青に変わっていた。雲も、あれほど鮮やかに存在を主張していたのに、夜に従っている。「ほら、旦那。もう模様なくなっちゃったし、暗くなったから中に入ろう」 日中はまだ残暑の気温だが、日が落ちると途端に秋がやってくる。「風邪ひいちゃったら、困るしね」「俺は、それほどヤワでは無いぞ」「知ってるけどさ、万が一ってことも、あるでしょ。有事の時に役に立たなきゃ、問題でしょうが」「ぬう」「それとも、なんか庭に用事があるの?」「――――いや」 なんでもない、と続くはずの言葉が消える。佐助から視線を外した幸村の横顔に、くすぶりを見つけて心中でため息を付いた。 ――物足りないって、書いてあるよ、旦那。 それは、時折、武田信玄の顔にも浮かぶことを、佐助は知っている。 ――アンタも、そんな顔を片倉の旦那に見せたりしてんの。 この場に居ない男に――幸村が今、思いを馳せているであろう相手に、心中で語りかける。 くすぶり、もどかしそうなその顔が歓喜に変わる瞬間も、佐助は熟知していた。 ――かすがじゃないけど、ちょぉっと、妬ける、かもな。 誰も、望んで手に入るわけではない場所。そこに、自分の嫌いな男が居る。 ――ほんと、どこまで大将と同じ顔すんだろうねぇ。俺様、誰かさんみたいに珍しい戦法編み出しちゃったりしなきゃいけなくなるのかねぇ。 軽く肩をすくめ、戦法の失態をなんとかしようと逸り、命を落とした男を思う。 ――ま、俺様がそんなヘマをすることなんて、ないだろうけど。 それに、信玄とは違い、軍を率いてではなく、一対一を互いに望むだろうから、自分が策を弄することは無いだろう。そう思うと、針の先で突かれたような痛みを感じた。 ――忍なんて、居ないほうがいいに決まっているのにさ。 人を殺し、貶めるための道具など、必要の無い世の中のほうがいい。それなのに、この、小さいながらも、ふとした瞬間に気になる痛みは、何なのだろう。「佐助」「はぁい」 宵闇に溶け込む主の唇が、ほんのりと持ち上がっている。「良い、月だな」「へ? あぁ、ほんとだ、キレイだね」 中秋の名月は終わっている。けれど、澄んだ空気に浮かぶ月のくっきりとした妖しくも凛々しい姿は夏のそれよりもずっと、瞳に入り込んでくる。 ――月明りが行渡る夜は、仕事がしにくいってのに。 妙に、心がざわめくのは、何故なのだろうか。「政宗殿も、同じ月を見ているのだろうか」 チリ、と焦げたような痛みが走る。 ――まさか、羨ましいってんじゃ無いよな。 軽く笑い飛ばそうとして、喉が異様に渇いていることに気付く。 羨んでいるのだろうか、という疑問は、鈴虫の音をさえぎるようにして鳴った、盛大な腹の虫の音に打ち砕かれた。「ぶっ」「ぬ、ぅう」 両手で腹を押さえ、決まり悪そうな顔をしている幸村に肩をすくめる。「まったく、風流な気分が台無しだぜ」「し、仕方無いではないか。食欲の秋とも、申すし」「はいはい。すぐに夕餉だから、部屋に戻ろう、旦那」「うむ」 今度は素直に頷き、縁側に上がる主の背中を見つめる。「佐助も、今宵は共に食さぬか。月見酒でも、どうだ」「忍相手に、そんなこと言うのは旦那くらいのもんだよ」「友相手にならば、誰でもそうでは無いのか」 ふわりと、くすぐったさが浮かぶ。その瞬間に、ああそうか、と納得した。 なんて子どもじみた、ばかげた感情なのだろう。 ――これじゃ、かすがのこと、笑ってらんないな。 向ける感情は違っていても、これもいわゆる「嫉妬」なのだろう。あるいは「恐怖」なのかもしれない。 自分の居場所が無くなるかもしれない「恐怖」。必要ないと無言で知らされる「恐怖」。――何時、使い捨てられるか解らない忍の身でありながら、何をと自分を甘く嘲りつつも、そう思わせている相手を見やる。「どうした」「ん。俺様、すっごい大変な人の忍になったもんだなぁって、ね」「なんだ、それは」「なんでもない」 答えた声音と同じくらいの軽さで、主の横に並び、ふと思う。この嫉妬は、幸村に対して、なのかもしれない、と。唯一無二の好敵手と出会えたことに対する高ぶりを得たことへの。 ――俺様にも、そんな相手が……って、忍がそんな相手と出会っちゃったら、大変なことになりそうだけど。 まぶしいほどの笑顔を見せる信玄と、同じような笑みを覚えた幸村の側で、自分はどんな顔をしているのだろう。 そんなことがふと、頭をよぎる。「どうした。なにやら、楽しそうだな」「ん。そお? まぁ、そうだねぇ。ちょっと呑みたい気分だから、誘われて嬉しかった、ってことにしといて」「何だそれは」「さあねぇ」 妙に足取りの軽い佐助が、自分の夕餉も一緒に運んでくるからと言い置いて廓に向かう背中を、月光が柔らかく見つめていた。2011/09/20