人の気配が消えるまで、幸村は押入れの中で身をひそめていた。 外では――いや、部屋の中では彼の拾い主である佐助と誰かが談笑している。 佐助が誰かを連れてくることは、まず無いといっていいのだが、時折誰かがやってくると、その人が居なくなるまで幸村は押入れに身をひそめ、様子を伺うのが常であった。「それじゃ、ね」「はいは〜い」 軽い挨拶が聞こえ、玄関が閉まる音がする。戻ってくる足音。そして「旦那ぁ」 呼ばれ、ぴるっと耳が震えた。そっと押入れから顔をのぞかせると、座椅子に座って膝を叩く佐助が見えた。 襖から身を滑らせ、その上に乗る。柔らかく目じりを下げる顔を見上げると、耳の後ろを指先で掻くように撫でられた。 目を細める。「ごめんね、旦那」 なぜ謝るのかはわからないが、幸村は佐助の手首に鼻先をこすりつけ、かまわないと示した。 佐助は幸村を「旦那」と呼ぶ。 にゃあと鳴いても佐助に言葉は通じない。けれど、察してくれたらしい彼は理由を語ってくれた。 佐助は、うんとうんと昔から――幸村が想像もつかないような昔から、生き続けているということ。 死んでも死んでも、死ねないということ。 最初に「旦那」と呼んだ大切な人の生まれ変わりを見つけては、そばに居続けている事。 そして、幸村はその「旦那」の何百回目かの生まれ変わりだということ。 佐助の足と足の間にできる溝に体を沿わせ、うたた寝を始める。 背中を軽くたたいてくる手が心地いい。 今までの「旦那」にも、していたのだろうか。 最初の「旦那」は人間だったという。 赤い鎧を身にまとい、戦場を駆け抜けていた「旦那」は、とても強く危うい存在だったらしい。 彼の話をするときに、佐助はいつも、ひどく遠くを見つめながら寂しそうに笑う。 それが、幸村にはいつも不満だった。 話を聞きたいけれども、そんな佐助は見たくなかった。――いつも、目の奥に痛みが見えるから。 佐助はいつも、死んでも死ねない理由は自分が咎人だからだと言う。 それはきっと「旦那」と深くかかわっているんだろうと、幸村はすぐに思い至った。 けれど、佐助はいつもその先を語ろうとはしない。時折、奥歯をかみしめて痛そうに、苦しそうに顔を背けているのは、佐助が「咎人」だと自分を思う理由からだろう。 佐助は、多くの人の命を奪う仕事をしていたらしい。一度、冗談めかして言っていたことがある。「殺した分だけの命を、生きなきゃいけないのかもね」 それは、どれほどの数なのだろう。死ねないということは、どういう意味をもっているのだろう。 そんなことを思いながら、佐助の優しい指が眠りへと誘ってくるにまかせ、うとうとと意識を手放していく。 この指が、多くの者を傷つけ、殺めたのだとは思えなかった。 眠りの中、幸村はヒトであった。 赤い鎧を身にまとい、二つの槍を手にしている。 背後には、見たことのない装束の佐助が控えていた。 ヒトである幸村は、背中の佐助をひどく逞しく思い、大切に感じている。当たり前にそこに在るものだと、認識している。 二人の立っている場所は、命が渦巻いていた。 そこに、ヒトである幸村が雄たけびをあげながら突進していく。「おらぁおらぁああ」 槍を振るい、人を屠る。向かってくる命と意思の奔流を薙ぎ払い、進んでいく。炎のようなヒトである幸村の火を、佐助という風があおり、導き、先へと促す。 骨の芯から湧き上がるものに、幸村は身をゆだねた。 景色が変わり、幸村の身はとても凍えていた。体の端々から命が漏れ出ているのだと、悟る。 傍らに、能面のような顔の佐助がいた。 声をかけたいのに、体を動かすのに必要な命の量が無かった。目がかすみ、佐助の姿が闇に溶ける。「―――――」 何かが、聞こえた。佐助の声で。 けれど、それが何かを理解する前に、幸村の命はすべて、体から流れ出してしまった。 ふ、と目を開ける。 佐助の膝から、クッションの上へ移動させられていた。 良い香りが漂ってくる。 幸村は伸びをして、台所に立つ佐助の足元へ体を擦り付けに行く。「あ、起きた? ちょっとまって。すぐごはん、用意するから」 あの夢は、佐助の記憶だろうか。それとも、遠い自分であったらしい「旦那」の記憶なのだろうか。 あの、夢の中の表情の無い佐助に何か伝えたくて、幸村は前足を伸ばす。「まってまって。すぐに用意するから」 ごはんの催促だと思われたらしい。 違うと伝える術を持たない幸村は、そっと息を吐いた。 食卓の横に移動し、目を伏せ、佐助と会った時を思い描く。 母猫とはぐれ、飢え、渇き、動けなくなっている所に、佐助は現れた。「おまたせ、旦那」 そっと抱き上げてくる温かな手は懐かしく、傍にあって当たり前のものだと、幸村は認識した。 それからずっと、幸村は佐助の庇護のもと、温かな寝床と食事を与えられ続けている。 失っていたものが戻っただけ、という認識が、彼にはあった。 それは「幸村」の思いなのだろうか。 「旦那」の想いなのだろうか。 佐助は「幸村」ではなく「旦那」の代わりに、自分を助けたのだろうか。 よく、わからない。 佐助は「幸村」は「旦那」の何百回目かの生まれ変わりだという。ならば、これは「幸村」の思いでも「旦那」の想いでもあるのだろう。 けれどそこに何か、違和感のようなものを感じている。 佐助は、今「誰」を見ているのだろう―――― 佐助はいつ「咎」から「救われ」るのだろう。 自分が死んで、生まれ変わったら、死ねない佐助はまた、見つけては傍にいるのだろうか。 自分が死んで生まれ変わるまで、佐助は一人ぼっちになってしまうのだろうか。「旦那、お待たせ」 なんだかすごく悲しくなって、幸村はエサ皿を持つ佐助の手に額を摺り寄せる。「どうしたの、旦那」 にゃあ、と鳴くと頭を撫でられた。「ほら、食べよう」 佐助はいつも、自分が食事を始めると嬉しそうな顔をする。それが見たくて、浮かんだ悲しみを消し去りたくて、幸村はがっついた。「そんなにおなか、すいてたんだ」 くすり、と佐助が笑って自分も食事を始める。 佐助が「旦那」と呼ぶたび、幸村の向こう側の「幸村」が笑う。――それはとても、寂しくて、悲しくて、嬉しくて――時折、鼻の奥がツンとする。「どうしたのさ、旦那」 見上げる幸村に気づき、手を伸ばす佐助が軽くあごの下を撫でると、幸村は喉を鳴らし、首をめぐらせ、掌に頭を擦り付ける。 佐助が「咎人」であるのなら、自分もそうなのだろうと漠然と感じながら、幸村は佐助の膝に乗った。背中をなぞるように撫でられ、目を閉じる。 死ぬことのできない佐助――何度生まれ変わっても彼に見つけられる自分は、罪人を留めておく枷ではないのだろうか。「旦那」 柔らかく、耳をくすぐる声を聞きながら、幸村は眠りに落ちていく。 いつか、佐助の咎がぬぐわれる日を願いながら――――2011/12/14