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いつかの陽炎  岩場で海を眺める毛利元就の耳に、潮騒に交じり、遠く近く子どもたちの歓声が聞こえる。眼下の、奥まった場所に在る所で、遊んでいるのだろう。子どもたちが乗ってきたと思しき、たゆたう舟の影が、元就の居る場所からも見えた。
 切り立った岩場は、海面と接している部分よりもせりだしており、子どもたちがいるであろう箇所は、元就の立っている場所の真下にあたる。ゆえに、声だけが元就に届いていた。
 潮風に袖と髪を好きにさせ、元就は静かに輝く海面と、耳に届く音に浸っていた。
 こうして、誰にも煩わされることなく、ただ「在る」だけの時間が、彼にとっての憩いであった。
 何処に居ても、人の目がある。
 毛利元就という、自らがつくりだし、人々が噂し彼に纏わせたものを何もかも脱ぎ捨てられる刻。それは、彼にとっては極上であり希少であり、「毛利元就」に振り回されぬために必要なものであった。
 子どもたちの歓声が、ひときわ高くなった。それを追いかけるように、海に何かが沈む音がした。飛び込みをはじめたのだろう。
「やるじゃねぇかぁ!」
 聞き覚えのある――時折、耳に蘇る声に、ぎょっとした。
「おっ。なんでぇ。怖いのか? 何かありゃあ、俺が助けてやっからよ。まずは、やってみな」
 聞き間違いでも、幻聴でも無い。この声は
「長曾我部元親」
 つぶやき、目を細めた。
 徳川家康の手により、表向きの戦乱は治まった。自領の安堵さえ成れば、元就にとってはどうでも良いことで――元親との確執も、気にするほどの事ではなくなったはずだった。
 けれど、心のどこかが煩わされる。それは、同じように自領を治める立場でありながら、正反対と言えるほどの違いを持って、人々の上に立っているからだろう。――いや、それだけではない。それだけならば、他の者――たとえば、絆を謳う徳川家康や、人は城とうそぶく武田信玄も、そうであろう。
(煩わしい)
 それは、元親に対してなのか、彼を気にかけてしまう自分に対してなのか。
「ほらな。やりゃあ出来るだろう」
 その声音だけで、どんな顔をしているのかが浮かぶほど、自分は彼の男のことを気にかけていたのかと、嘆息した。
 毛利領でも長曾我部領でもないここは、元就にとっては気の張ることを何一つ必要としない時間を持てる場所で
(あの男も、そのような事を感じる事が、あるのだろうか)
 ふと浮かんだ考えに、苦い――皮肉めいた笑みを唇に乗せる。
 あけすけな、まっすぐに領民と向き合う姿を、知っている。煩わしいほどに、元就のことを気にかけ、ほんのわずかな事にも反応を示す彼の、よく変わる表情を思い出した。
(少し、遊んでみるか)
 珍しく、いたずら心が元就の中に沸いた。
 ゆっくりと崖の先に移動する。潮風が、強くなった気がした。
 深く深く、体内に潮風を染み込ませ、目を閉じる。
 ここからまっすぐに落ちれば、深く澄んだ海の中に至る。水に落ちる前にも落ちた後にも、何かにぶつかることは無い。この高さから下手な落ち方をすれば、海面に打ち付けられて痛い思いをするだろうが、自分がそのようなヘマをすることなど、あり得なかった。
 ふわ、と元就は中空に身を委ねた。風が彼を包んだと感じた直後に、頭から順に、水に抱かれる。
 耳に入る音が、変わった。
 空気がくぐもった音を発し、元就の着物の間から抜け出ていく。ゆっくりと瞼を開ければ、日の光がまっすぐに海中を照らしていた。
(嗚呼――)
 きれいだ、と思う。
 くるりと魚が向きを変えるのが見える。岩場の影に、何かがいるのも見えた。あの岩を登れば、子どもたちが遊んでいる場所へと上がるだろう。
 岩の前に、上から大量の気泡が落ち込み、その中から元親の姿が現れた。
(――甘い男よ)
 真剣な顔でこちらに来るのが、なんとはなしに面白く感じられ
(このまま、助けられてやろう)
 そんな気になり、目を閉じた。
 ぐん、と何かに掴まれ引き上げられる感覚があり
「ぶはっ」
 顔が海面に出る。こういう時は、下手に力を入れるより相手に任せた方が良い。くたりとしたままの元就を、どう思ったのか
「しっかりしろよぉ、毛利ぃ」
 心底の声音に胸がくすぐられ、笑いだしたくなった。
 岩場に上げられ
「毛利、毛利!」
 必死に呼ばわるのを
「聞こえておるわ」
 目を開けて忌々しそうにすると、安堵した顔が目の前に現れた。
 それに、たじろぐ。
「はぁ。良かった。何事かと思ったぜ。どっか、痛ぇとこや苦しいとこは、無ぇか?」
 ゆるく、かぶりをふってみせると
「そうか」
 まぶしいほどの笑みを、向けられた。
「しかし、胆が冷えたぜ。上から人が降ってきたかと思ったら、毛利だったからよぉ」
「何者かにたばかられ、突き落とされたとでも思うたか」
 身を起しながら言うと、痛ましそうな目をして顔を逸らされた。
(甘い――)
 けれどそれが、以前ほど不快に思わなくなったのは、何ゆえだろうか。
「貴様は、このような所で何をしていた」
 下帯姿の元親は、色は白いが漁師と言われれば納得できる、およそ人を統べる立場にある男とは見えなかった。
「ん? ああ、ちょっくら宴会の準備をするのに出かけたらよ、ガキどもが楽しそうにしていたから、声をかけたんだ。そうしたら、一緒に遊ばねぇかと誘われてよぉ」
 なあ、と元親が子どもたちに顔を向けると、元就に怯えたような遠慮の目を向けながら、彼らがぎこちなく頷いた。
 これが、元就と元親の差だと、子どもたちの姿が見せつけてくる。子どもたちは、元就の素性を知らないだろう。元親の事も、知らぬままに遊びに誘ったのかもしれない。けれど、身にまとう雰囲気を敏感に感じ取り、それをそのまま表す彼らの様子は、それぞれが民からどう思われているのかを示す、見本のような態度であった。
「おいおい、どうした。さっきまでの元気はよぉ」
 手近にいた子どもを、ひょいと抱き上げた元親が
「この兄ちゃんも、一緒に遊んでも、いいか?」
 元就を見せる。小さく喉を鳴らした子どもの強張る顔に、元就の頬に皮肉が浮かんだ。
「ほら、毛利。そんな顔で笑うから、ガキが怯えるんだろ。もう少し、こう、楽しそうにとか、なんか、出来ねぇのか」
「貴様のように、終始へらへらとしてなど、おれんのでな」
「なんだそりゃ。誰が、へらへらしてんだよ」
「長曾我部よ――貴様、会話すらもまともに出来ぬほど、頭が鈍ったか」
「ってめ――かわいく無ぇなぁ」
「貴様に、かわいがられようなどとは、みじんも思わぬわ」
「ぷっ、ふふ」
 ぽかんと二人のやり取りをみていた子どもが笑いだし、他の子どもたちも、つられたようにケラケラと笑いながら元親の傍へやってくる。
「ちょっとひねくれた奴だけどよ、悪い奴じゃ無ぇんだ」
「誰が、ひねくれ者ぞ」
「毛利以外に、居ねぇだろうがよ」
 子どもたちの手が、おそるおそる元就の着物に伸びた。つん、と引かれて目を向けると
「あそぼ」
 はにかむ姿に、元就の目じりがゆるむ。それを合図に
「おれ、すっげぇ潜ってられんだぜ。こんなでっけぇの、捕まえて見せてやるよ」
「俺だって、泳ぎは得意なんだからな!」
 次々に子どもたちが海に入り
「泳ぐの、教えてやろうか」
 そんなことを言い出す子どもも、居た。
「ほらほら、今夜の祭りの準備、するんだろ! でっけぇ獲物を捕って、驚かせてやんな」
 元親が、その子を促し海に入れ、岩場に二人だけになってから
「毛利ぃ」
「なんだ」
「もう少し、気楽にいてみちゃあ、どうだ」
「貴様のように、終始へらへらとしていられると、思うか」
「誰がへらへらしてんだよ――ったく。そういう憎まれ口とかばっかじゃなくってよぉ、さっき、子どもに見せたような顔とか、ちぃとばかし出していっても、いいんじゃねぇか」
「下らぬ」
 本当に、下らないことだと思えた。
「そのようなことをすれば、我の気が触れたとでも噂をされような」
 潮風を吸い込み、それを吐き出すように言うと
「――そうか」
 静かに、返された。
 波の音が、二人を包む。
「なぁ、毛利よぉ」
「ぶはっ! みてみてーほら! タコ!」
 海面から腕を突き出した子どもが、自慢げに言いながら泳ぎ来る。
「お、すげぇじゃねぇか」
 子どもの頭を乱暴に元親が撫でると
「へへっ」
 うれしげに、褒めてくれと言わんばかりの顔を元就に向けた。
「――ッ」
 わずかにたじろぎ
「素手で、捕らえたのか」
「うんっ」
「そうか――見事だな」
 ねぎらうと、子どもの笑みが深くなった。それに、元就の気配が柔らかくなる。そうすると、それを感じた子どもたちは最初の警戒など忘れたかのように、元就に話しかけ、彼を囲み、遠慮のない言葉を向ける。
「おまえ、しっかり食ってねぇから、そんなひょろっこいんじゃ無ぇのか」
「瀬戸内に住んでんなら、泳げるようになんないと」
 元就配下の者たちが聞けば、泡を食ってしかりつける――酷ければ手打ちにするようなことを言う彼らに、新鮮な感慨を受けていると
「今夜の祭り、来るんだよね」
 決定事項のように言われ
「祭り?」
「そう、祭り!」
「おまえ、そんなナリしてんだから、字がかける身分なんだろ。短冊に、泳げるようになりたいって書いて、吊るせばいいんだ」
 そうだそうだ、と子どもたちが口々に言う。
「そいつぁいい。なぁ、毛利――アンタ、今夜空いてるんなら、一緒にしねぇか? 七夕祭り」
「七夕祭り――?」
「おうよ。皆で旨いモンを食って、楽しくしゃべって、秋の豊作やら豊漁やら今後のことやらを願って、星を見る! 牽牛と織女の年に一度の逢瀬があるだろう。その幸せを、盛大に祝ってやるのさ」
 楽しげな元親に、子どもたちが頷き元就にまとわりつく。そのようにされるのは初めてで
「――参加をするのは、やぶさかではない」
 言い回しが分からないらしい子どもが、きょとんとし
「参加するってよ」
 元親が教えると、歓声が上がった。
「よし、そうと決まれば、準備に戻るぜ! 毛利も、ずっと濡れた着物じゃ、気持ち悪いだろ。身をすすいで着替えろよ。アンタの好みじゃないかもしんねぇが、着替えくらいは用意できるぜ」
「そこまで言うのなら、申し出を受けてやっても良い」
「素直じゃねぇなぁ、ったく」
 ほら、と立ち上がった元親が差し出した手を、元就が掴む。
 こうして手を合わせ、それぞれの特色を生かして民が飢えることの無いようにしてゆくのも、悪くは無いと思えた。

2012/07/04


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