ひやりと夜気が心地よい。 淡く光る月を、薄雲が隠そうと忍び寄るが、月光に自らの姿を浮かばせるばかりで月を阻むことが出来ずにいる。 さわ、と風が吹き毛利元就の髪を揺らした。 月明かりが庭に注ぎ、ぼんやりとした輪郭を映し出す。それを、見るともなしに眺めていた彼の目の端で、じわりと闇がにじみ出た。 それにつまらなさそうに目を向けて、袖から紙を取り出した元就は、指先に息を吹きかける。その指を紙に添えて、何かをしたためた。 にじみでた闇が、人の形を成していく。それに、紙を投げつけた。「ずいぶんな挨拶じゃねぇか」 凝った闇が剥がれ落ち、白い肌が浮き上がる。元就の紙が到達する前に、闇をはがしながら現れた者が腕を伸ばして握りつぶした。 じゅ、と焔の消える音がする。「――何の用で来た」 足に残った闇を払った男は、すばらしい体躯を誇示するように、上体はほぼ裸身であった。手に、穂先が碇の形をした槍を持っている。「土産だ」 槍を持つ反対の手を男が上げて「ウグイか……」 つぶやいた元就が静かに手を持ち上げれば、何処からともなく下女が沸き立ち土産の魚を受け取った。 そのようなことがあっても、男は当然の顔をしている。 自分も同じように、闇から沸き立ったからだ。 男は――下女は、人ではなかった。 式、と呼ばれるものであった。 それは精霊であり、妖物であり、鬼であり、神でもあった。 陰陽師や法師らと何らかの盟約を交わし、または呪で縛られて従う存在であった。 ゆったりと歩み寄ってきた人ではない男は、長曾我部元親と言う。彼はいわゆる、鬼であった。 親しげな笑みを浮かべ、元就の傍へ寄り、どかりと濡縁に腰を下ろす。「良い、月夜だなぁ」 白く輝く望月が、元親の白銀の髪を照り輝かせている。「何用で来た。長曾我部よ」 鬼と比べれば、娘のように華奢に見えてしまう元就の瞳が、切っ先のように鋭い。「用も無く、ふらっと来たってかまわねぇだろう? ダチなんだからよう」 険のある元就の目は、普段からのもので機嫌が悪いわけでは無いと、元親は知っていた。「――ふん」 小ばかにするように一瞥し、月に目を向ける。「月に叢雲……良い月見日よりだぜ」「貴様のようなものでも、風流を解するか」「長ぇこと生きていたら、そういうことも覚えてたしなむ事も、出てくるんでな」 歯を見せて笑う鬼の年を、元就は知らなかった。人好きのする顔で、ひょいと顔を出す元親は、元就よりもずっと、彼にさまざまのことを依頼しにくる相手に受けがいい。時には、元就の代わりに親身になり、話を聞いてやることもあるほどだ。そんな鬼であるから、昔から人と関わりまじりあって、さまざまのことを覚えたり、こなしたりすることもあるのだろう。 ふわりと、良い香りが漂ってきた。 さきほどのウグイが焼けたらしい。 目の細く、鼻の尖った女が二人、膳を捧げ持ってきた。 これも、人では無い。もとはネズミであった。 元就の屋敷に仕えている者は皆、式であった。なればこそ、鬼である元親も気楽に遊びにこれるのである。 なればこそ、居心地が良いのだろう。 もっとも、それだけでは無いようだが――。 女が置いた膳には、焼き魚と塩、菜があった。二人が下がった後に現れた女が、銚子と杯を置いていく。こちらは、もとはイタチらしい。丸い顔はいかにも宮中好みそうであった。 元親が先に銚子を掴む。元就が杯を手にし、当然のように鬼に向けて差し出した。そこに、酒を注ぐ。 杯に満ちてゆく酒が、月を映しこんだ。 元就が口に当てて、月を飲み込む。目を細めた元親は、手酌で口を湿らせた。 ウグイをつまみ、口に入れ、ほうと感心したように元就の眉が開く。その顔に満足げにうなずいた元親が、ウグイにかじりつき「うめぇな」 身は、ほくほくと肉厚であった。 同意を求める笑みに「悪く無い」 気のない声を出す元就の箸が魚の身をほぐし、口に運ぶ。この男が気にくわぬものを受け付けぬことは、よく知っていた。箸の運びから、気に入ったことを読み取った元親の顔に、いつも以上の笑みが浮かび元就がいぶかった。「あんた、山を歩いていたらしいな」 うれしげな声に、元就の眉が不快そうになる。「山くらい、我とて歩む」「そうじゃねぇよ。ほら、歌会かなんかで山に入ってったんだろ」 鬼の言葉は、少し足りない。「好きで行ったわけでは、無い」「あんた、人間なのに人間嫌いだもんなぁ」「愚鈍な者を好かぬだけよ」 は、と呆れたように笑った元親が肩をすくめた。「そんでよぉ、そんとき獣を助けたろ」 にやつく元親に、不快を露わにしながら「憐れに鳴く声が、うるさかったまでのこと……」 元親の顔に、本当にそうなのかと、からかいの言葉が浮かんでいる。「歌会の折に、ああも鳴かれてはかなわぬからな」 そのために同道をせよと言われて、仕方なくと呟けば「そうかい、そうかい」 元就の心根など、全てわかっているというふうに、元親が頷いた。「魚、旨ぇだろう」「悪くは無い」「形だって、立派なもんだ」「それは、認めてやろう」「月を見ながら酒を飲むなら、やっぱ旨いもんが欲しいよな」「――貴様、何が言いたい」 じろりと見れば。心底嬉しいと全身で発しながら「あんたが助けた獣の親が、礼をしてぇって言って来たんだよ」 この鬼は、人だけでなく妖物にも親しげに接するらしく、また存分な力量も持っているために近隣の妖怪たちに兄貴分として一目置かれているらしい。その名だけなら、この国の力ある妖には広まっているらしく、以前に奥州の竜神の元へ赴いた際も、名をかたれば通じたことがあった。 そんな元親が、元就を気に入り契約もしていないのに式の真似事をしているということは、この界隈では有名な事で、元就が助けた獣の親が礼をしたいと言いだして、元親につなぎを頼むのは自然な事であった。「あの獣は、そうか。妖の気配があったが、親が妖であったか」 ちいさな、手のひらに乗るほどの兎であった。あれ自体は何の力も無いように思われたが、とつぶやけば「山の狐の世話をする、ただの兎だよ。それが、子どもを救ってくれたことを喜んで、主の狐に伝え、その狐が俺に魚を差し出したってぇワケだ」 狐が兎に世話をされると言うのも、人からすれば妙な話だが獣の世界ではそうでもないらしい。山の狐といえば、人と妖の秩序が乱れぬように働いている、神の眷属だろう。その狐は、よほどに兎を気に入っていたに相違ない。 元親が妙に機嫌が良い理由が、わかった。 この鬼は、元就が何者も寄せ付けぬことを、気にしているらしい。 元就が依頼も無く獣を助けたのが、よほどにうれしいのだろう。狐からその話を聞いた時の顔を想像し、元就は憮然とした。「我への礼ならば、何故、貴様も食している」「いいだろ。別に。旨いもんは、一人で食うより二人で食ったほうが、よけい旨いだろうが」 さぁ飲めとばかりに、元親が銚子を傾ける。それを受けながら、元就は兎の子のふわふわとやわらかく温かな、命そのものな塊と言えた感触を思い出し、知らずに口元をほころばせた。 それに、元親が目元を和らげる。 ほろほろと、酒を飲んでいる。 秋の虫が、ひそやかに奏でる音に耳を傾けながら。 月の灯りが、はっきりと――けれどあいまいに、景色を浮かび上がらせていた。 人と鬼の境界も、あいまいにさせる月の夜。 人でありながら人と交わることを厭う陰陽師と、鬼でありながら人と交わろうとする鬼神とが、並び月を愛でながら酒を飲んでいる。 あるかなしかの風が、つまらぬ種族の隔たりを、そっとはがして衣桁に掛けた。 今宵は、仲秋の名月。 観月の静かな宴に、二人の胸にある月が満ち、口元をほころばせた。 2012/09/25