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甘雨

 雨音に包まれた静寂の中で、むわりとした熱気と雨に叩かれ立ち上った磯の香りを感じる。
 間近に触れるこの香りは、否応なしにある男の姿を毛利元就の脳裏に浮かべさせる。
 長曾我部元親。
 海の男であるのに白い肌をした男は、白銀の髪と肌に映える紫色の眼帯で左目を覆い、隆々とした胸筋を誇らしげに晒している。歯をむき出しにして笑う姿は陽光を反射しているようで、元就はいつも目を眇めてしまう。
 細く長く息を吐き、したためていた文へ目を落とす。書き途中ではあるが、一度このあたりで乾かしておかなければ。文机の幅に収まりきらぬので、乾いてから端を丸め、続きを書くとしよう。
 筆をおいた元就は、雨音に耳を傾ける。途切れることなく続く雨音は、川のせせらぎのようだ。いや、雨は天より流れ落ちる川なのかもしれない。
 天と地を繋ぐ川。それが、雨なのかもしれない。
 腰を浮かせた元就は、障子を開けて雨にけぶる庭を見た。薄暗い雲に光が遮られ、夕闇のような庭に昼のかけらを必死に集めた雨が、わずかな明かりを注いでいる。
 運ばれてくる磯の香りに、眉根を寄せた。互いの領土を奪い合う間柄であると言うのに、何の含みも無く気安げな笑みを浮かべる元親の声が、雨音を縫って耳に届く。
 よぉ、毛利ぃ。
 歯を見せて、軽く片手を上げて挨拶を寄越す彼は今頃、磯の香りが膨らんだ彼らのアジトで得意のカラクリの設計でもしているのだろうか。
 元就の耳に、小さなざわめきが届いた。細かな雨のかけらが舞う縁側を進めば、ざわめきが大きくなる。
「すぐに、医者を!」
「勘三郎殿っ、しっかりなさいませ」
 あわただしい足音と、悲鳴に似た声が交錯している。足を止めた元就は、踵を返した。
 またか、と心中で呟く。毒味役が元就に届けられるはずの饅頭か何かを食して、倒れたのだ。元就の容赦のない治政は、多くの敵を生み出す。けれどそうしなければ、この安芸を守り続けることなど出来ないと、元就は思いきわめている。
 非情であれ。常に、意識を冴え凍らせ、広い目で世を見つめておれ。
 それが、自分に課した言葉だった。
 戦国の世に在って、女性と見間違いそうなほど華奢で美麗な元就の容姿は、軽んじられる。武将としての力量も備えている元就だが、なめてかかってくる相手を打ち伏せるなど、面倒だ。なれば、どうすれば有無を言わせず押さえつけ、自らの望むままの治政を行えるか。
 圧倒的な知略と、どのようなことにも動じない、どのようなことでも敢行する鉄の石。
 温情など、必要ない。定めた規則のままに、冷害など認めぬ徹底した政治。
 しかしそれは、暴君とならぬものでなければならない。暗君とならぬものでなければならない。
 決めた道をまっすぐに見つめ、太陽にまっすぐに顔を向け身体を開いて進めるほど、それのみを胸に抱き進む元就の周囲には、気心の知れた知己というものは必要なかった。無用なじゃれ合いなど、必要ない。誰にも犯されぬ、絶対的な存在に。あの日輪のような、揺るぎない存在に。
 元就の周囲には、彼を慕い敬う、彼の私的な領域には踏み込まぬ者らのみとなった。
 誰にも煩わされず、どのような情にも流されず。
 これが、最良の君主だ。
 元就は、そう自負している。
 この安芸の安寧を見よ。この安芸の発展を見よ。瀬戸内の穏やかさを用いて交易を行い、豊かな海産物を特産とし、揺らぐことの無い基礎を築き、民の安寧を計る。これこそ、明君の所業。日輪のように安芸を照らす我が方策は、盤石を生む。日輪の光が強ければ強いほど、濃い影を作るは必定。毒殺を試みられることなど、些末な事よ。
 そう、思っていた。いや。今でも、そう思っている。――はずだ。
 私室に戻り、裾をわずかに端折って藁のすね当てを着ける。懐に手ぬぐいを忍ばせ、ぬかるみに滑らぬよう、草履の紐をしっかりと結わえ笠をかぶり、元就はふらりと屋敷から離れた。
 この湿度なら、墨が渇くのに時間がかかる。
 出かけてくると言い置いて、一人で元就が進もうとすれば、駕篭を用意すると言われた。断れば、誰か供回りの者をと仕度を整えようとされた。どちらもいらぬ。熟考をするには一人の方が良い。そう言えば、しぶしぶと言った顔で引き下がられた。
 門を抜け、目的も無く雨にぬかるむ道を進む。雨が笠をまんべんなく叩き濡らし、傘の端に集まった水が雨よりも大きな水滴となって地に落ちる。藁のすね当ては、すぐに泥に汚れた。
 気が付けば、海辺に経っていた。磯の香りがむせるほど立ち上っている。暗い海面を雨が叩き、波に丸い模様を描いていた。海面には、一艘の船も見当たらない。
 遠く闇に沈む先に、長曾我部元親の治める四国がある。
 突然に現れ、海賊たちを次々に制圧し仲間に引き入れ部下として、急速に力をつけ四国を治めた男。西海の鬼との異名を誇らしげに語り、力づくで手に入れたはずの部下らに慕われ、上も下も無く声をかけ、助けを求める声には全力で腕を差し伸べる。
 甘い男よ。
 いずれは裏切られ、破たんするだろう。そう思い、歯牙にもかけないでいた。それなのに、彼の勢力は衰えを見せない。
 民の目線で治政を。
 とんだ茶番だと、元就は鼻で笑った。三河の徳川と親しくなり、太平の世を作ろうと言いあっていると聞く。いずれは、どちらが天下人となるかと、刃を交えるのだろう。安穏とした親しみの裏側に、やがて訪れる決別の折に有利な工作があるのだろう。そんなふうに思っていた。
 奥州の竜、伊達政宗。あれとも気が合い、交流を深めていると聞いた。奥州の兵は荒くれ者ぞろいと聞く。海賊上がりの長曾我部軍と似通った部分があったのだろう。
 下らぬ。
 洗練されていない、暴走の恐れを含む感情的な兵士など、捨て駒にすらならない。無駄石だ。
 加賀は前田の風来坊とも、親しくしていると聞いた。あれはきっと、諸国をめぐる男であるから、情勢を知るに良いと利用をするためであろう。
 何もかも、策略の上にある交流だ。それぞれがそれぞれに利害があるからこそ、あけすけな笑みを浮かべ、警戒も無く酒を酌み交わしているのだ。
「っ――」
 突風が、海から噴き上がり元就の笠を持ち上げ吹き飛ばした。元就の髪に、肩に雨が降り注ぐ。蒸し暑い磯の香りに包まれ、冷たい雨に打たれて、元親は奥歯を噛みしめた。
 この胸に湧き起る、不可解な感情は何だ。
 苦く温かな痛みは、何だ。
 どうしようもないほどの寂しさを感じるのは、何故だ。
 自らを一人だと思ったことなど、今まで一度としてなかった。それなのに、何故いまさら孤独を感じる。
 歯が軋むほどに食いしばった元就は、雨に打たれながら目の奥から胸に浮かぶ想いが溢れ出していることに気付いた。
 泣いている。
 何故だ。
 わからない。
 冷静な部分が、感情的な部分を理解できずに戸惑っている。自分の意識が二つに分離し、一方は涙を流させ、一方はそれをあざける。
 この感情は、何だ。
 この涙は、何だ。
 身の奥から湧き上がる震えは、何だ。
「長曾我部よ。貴様、何ゆえ我を惑わす」
 呟けば、膝が地面に落ちた。
 彼は、毒を盛られることが茶飯事であることなど、想像も付かないだろう。温情など不必要だと全身に纏い示すことに、異議を唱え親しき者を作れと、下らぬ提案をしてくるのだから。刃を交える時に、むやみに楽しそうにする元親を、頭が緩いのだと思っていた。それをそのまま、皮肉に口にしてみれば、元親は笑ったのだ。嬉しげに、心地よさそうに。
「アンタが、そうやって感情をむき出しにすんのは、俺相手ぐれぇのモンなんだろう?」
 言い放たれた言葉に、虚を突かれた。とっさに言葉が出てこなかった。瞠目した元就に、元親は持ち重りのする碇の形をした槍を、軽々と肩に担いで右手を差し出してきた。
「せっかく、隣同士なんだしよ。仲良くしようぜ、毛利」
 本気で言っているとしか、思われなかった。今まで築き上げてきた、誰にも踏み込ませることの無かった領域に、突然現れたまばゆい笑みを浮かべた鬼は、すんなりと踏み込んだ。拒む暇も無かった。あまりの衝撃に、そのような意識の余裕など、無かった。
「よぉ、毛利ぃ」
 意識の残る声が、親しげな、まるで古くからの友を見るような元親の口から発せられる。
 徳川とも、奥州の竜とも、前田の風来坊とも、そのような笑みを交わしあっているのか。何の含みも無く、酒を酌み交わしているというのか。
 突き付けられたそれに、元就の中で何かが砕けた。けれどそれを認めるわけにはいかず、認めようにもそれが何かが分からず、元就は差し出された彼の右手を一瞥し、鼻で笑った。
 下らぬ。
 言い捨てて、背を向けた。
 それでも彼は、顔を合わせれば船上であろうとも、歯をむき出しにして親しげに言うのだ。
「よぉ、毛利ぃ」
 喉の奥から何かがせり上がってきた。それが嗚咽だと認識する前に、元就の口からあふれ出る。自分を抱きしめ体を下り、膝を着いた元就は得体のしれぬ情動に促されるままに、意味を成さぬ音を吐き出しながら、泣き続けた。潮騒と雨音が、その声をかき消す。誰にも届かぬ元就の孤独を、包み隠した。
「よぉ、毛利ぃ」
 元就の胸を打つ、温かみのある親しみを浮かべた鬼は、彼に孤独を教えたことに、まだ、気付かない――。

2013/05/29



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