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哀答

 畳の上に胡坐をかき、豊臣秀吉は襖を眺めていた。
 いや、ただ目に映しているだけで、見ているわけでは無かった。
 大広間。
 誰も居ない場所で、目を置く場所が襖の模様だった、というだけのことだ。
 秀吉は、自分の前にあるものすべてを、見てはいなかった。彼が見ているのは、先刻の会見の記憶――前田慶次の姿だった。
 彼の訴えから耳をそむけるために辞したはずの場所に戻り、秀吉は彼の声に耳を傾けていた。
 目の前を映していない秀吉の視界には、膝をただし、前田家という大名の出自である立場を使い、謁見を申し入れた友であった男の姿がある。
 耳に、彼の声があった。
 ――秀吉。
 くったくなく、笑いかけてきた声と、作法にのっとった硬い声の双方が――辞する自分を呼びとめようとした叫びが、からまりあい、木霊している。
 ――秀吉。
 子どものような顔をして、自分の出自など関係なく、民に混ざっていた男。人々に慕われ、声をかけられ、少し危険な悪戯を好み、喧嘩を好み、戦を嫌った彼に、秀吉もまた魅かれていた。
 体躯の良い秀吉は、常人以上の体躯を持ちながらも、軽業師のような動きを難なくしてのける慶次のいたずらに付き合える唯一の男で、慶次は秀吉をいたずらに誘い、秀吉もまた彼を誘った。とはいっても、いたずらに誘うのは常に慶次の役割で、秀吉はただ、その話に乗っていただけであったが――。
 ともかく、秀吉は慶次と共にあり、慶次もまた、秀吉とともにあった。――あの日までは。
 慶次のいたずらは、体躯が大きくても子どものするものの延長線上で、誰かが損をしたり怪我をしたりというようなことは、無かった。悪ガキが大人をからかう程度のもので、いたずらをしかけられた者は、その時は怒っていたとしても、周囲の温かな目と慶次の人柄が柔らかく許しへと促していた。いたずらをしかけられることを楽しみに、迎え撃つ腹積もりまでしている者さえ、あった。
 けれど、あの日の相手は違っていた。
 彼らを賊として扱い、完膚なきまでに叩きのめした。力に覚えのあった秀吉でさえ、赤子の手をひねるように地に叩きつけられ、自分をかばうように覆いかぶさる慶次と共に命を奪われてしまうのだと、半ば確信めいた諦めを抱いた。
 けれど、彼らは見逃された。
 自分も相当な傷を負っていたというのに、慶次は秀吉を案じ続けた。案じられながら、晴れた瞼で視界のわるくなった秀吉の目は、苦しげに歪んだ慶次の顔を映し、彼にそのような顔をさせている自分を苛み、もっと――あのときに全てを叩きのめすほどの力があればと望んだ。
 ――秀吉。
 必死に、自分を案じて呼ぶ声は、あの頃も先ほども変わっていない親友に、秀吉の唇がさみしく歪む。
 ――秀吉。
 呼び声に、胸を掴まれる。けれど彼は、微動だにせず前に目を向けていた。
 ――秀吉。
 心を揺さぶられる。
 優しい彼は、自分の意志を理解できないだろう。強い彼は、秀吉の弱さが力を求めさせていることなど、理解も及ばないだろう。――ねねは、悲しげな優しい顔で、秀吉に首を差し出した。秀吉の迷いを断ち切る役を、自ら望むように。
 ――愛してたんだろう。
 慶次の悲痛な叫びは、ねねを失った空間に響いた。からっぽな場所で反響する声は、何も無い場所でむなしく彷徨うだけであった。――ねねの体が冷たくなっていくのを感じながら、秀吉は心が麻痺していくことを知った。それに、全ての感情を添わせた。目的のために進む自分を躊躇わせる心の機能を、停止させた――はずだった。
 ――筆頭!
 伊達軍を襲撃した折に、伊達政宗をかばおうと、大勢の兵士たちが彼の上に折り重なった。それはまるで、あの時の慶次と自分のようであった。
 ――秀吉は、殺さないでくれ。
 必死の訴えに、慶次の助命は含まれていなかった。だからこそ、それだからこそ秀吉は、自分を苛んだ。自分だけを助けようとする、友の声が苦しかった。
 ――秀吉。
 親しげに呼んでくる声は、後悔を含んだものになった。
 ――秀吉。
 自分を苛む傷だらけの友の、苦しむ顔など見たくないと思った。
 ――秀吉。
 だからこそ、力を求めた。自分にあるものは、それしか無いのだから。
 そうして、秀吉は強さを求め続けた。求める間に、この国の現状と、大陸の状況を知った。船で日ノ本へやってくる者たちの言葉に、技術力に、海の向こうの脅威は想像以上であることを知った。
 国を平定し、虎視眈々と領土を狙う海の向こうの国々を撃退できるほどの力を、身に着けなければならない。でなければ、あの時のような光景が――慶次の苦しげに歪んだ顔が、繰り返されることになる。
 そう、思った。
「秀吉」
 よく通る声に、顔を向ける。
「半兵衛」
 顔を覗かせ、薄く笑んだ竹中半兵衛が、傍に寄った。
「考え事かい? 秀吉」
「うむ」
 あいまいに応えると、半兵衛はふと寂しげに目を伏せて
「慶次君の、ことかい」
 ぽつりと、言った。
「――」
 答えぬ秀吉に
「――三成君を、向かわせたよ」
 慶次が来る前に行っていた軍議の話を、出した。
 ふ、と秀吉の目が半兵衛を見て
「まかせる」
 また元の位置に戻った。
「秀吉」
「――ねねを」
「え」
「ねねを、殺すと決めた時――慶次は知っているのかと、問うたな」
「ああ、うん。聞いたね」
 二人の意識が、同じ時刻へと飛ぶ。
 弱さを拭いきれぬ、冷徹になりきれぬ秀吉は、愛しいものを手にかけると決めた。彼女の存在は、今後、彼が目指そうとしている場所へ行きつくためには邪魔としか、思えなかった。半兵衛は止めることも賛同することもせず、ただ
「慶次君は、知っているのかい」
 それだけを、問うた。
 ねねを殺せば、慶次をも失うことになる。半兵衛は、秀吉の心に慶次という存在が大きく住みついていることを、知っていた。力を求めて進む秀吉を、慶次が戸惑いを持って見ていることも、気付いていた。
 喧嘩と戦の違いを明確に理解している慶次が、戦を始めた心優しい親友の変化に、追いつけていないことを理解していた。
 どれほど言い募っても、秀吉の弱さからくる確固たる決心を、慶次が納得できないであろうことは、明白だった。
 だからこそ、半兵衛は問うた。
「慶次君は、知っているのかい」
 と――――。秀吉は、慶次に知らせぬままに、彼女を殺した。
 後に、ねねが慶次に秀吉を恨まないでほしいと伝えていたことを、知った。それを秀吉の耳に入れれば、動揺をするのではないかと半兵衛は危惧した。けれど、それを聞いた秀吉が揺るがなければ、彼の進む覇道を邪魔するものは、何一つとして無くなると言うことになる。そう判じて、半兵衛は秀吉にそのことを告げ、秀吉はいささかの動揺も見せずに――関心の欠片すら見せずに
「そうか」
 とだけ、言った。
 その瞬間、慶次の事は過去の遺物となった。そう、思っていた。過去の亡霊のようなものが、いまさら謁見したとして何になるというのか。
 前田家の者として正式に申し入れられ、無下に断るわけにもいかず、また現在の秀吉と慶次の立場の差を見せつければ、つまらぬ邪魔をしてくることも無くなるだろうと、思った。
 だから、慶次をこの座に通した。秀吉と会わせた。
 謁見の間、秀吉は見知らぬ男を相手にしているようであった。けれど、こうして一人、ぼんやりと坐している。その心が慶次を思っていることは、他の誰が気付かぬとも、半兵衛だけは気付いていた。
 秀吉は、そのようなことを、おくびにも出さない。
 それが、半兵衛を安堵させつつも寂しく思わせている。
 未だに、覇王を目指す秀吉の心には、前田慶次という男が大きく立ちふさがっている。
 元来、秀吉が優しい男だと言うことは、半兵衛もわきまえていた。それだからこそ、彼の周囲に目を配り、彼の望む世に向かうために策を練り、支えてきた。
 彼の心が、揺らがぬように。
 秀吉を恐ろしいと言う者は多いが、彼の優しさを知る者とている。
 二人に心酔をしている石田三成などは、それに気づいているからこそ、盲目的に彼を慕っているのだと、半兵衛は思っていた。
「秀吉」
 呼びかければ、彼はゆっくりと立ち上がった。
 甘さは、弱さを生む。弱さは、悲劇を生む。
「行こう、秀吉」
 誘うように手を差し伸べた半兵衛の目は、我知らず不安に揺れていた。
 それをじっと見つめた秀吉が
「行こう。――戦国の、覇となるために」
 甘さを抱えたまま、強くいられる友の面影を振り切るために、足を踏み出す。
 優しすぎるがゆえに、恵まれた体躯に生まれてしまったがゆえに、自分に剣を突き立て、血を流しながら覇道へ向かう男の背中を、わずかでも早く進めるように支え、傷を癒せる場所まで連れて行くために、半兵衛は命をかけることを、改めて誓う。
 ――秀吉。
 前田慶次の呼び声が、秀吉の上に降り注ぐ。
 心の中で、殺せぬままに住み着く親友は、大人びた目で子どものように、笑っていた――――。

2012/08/14



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