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悪くない
その日は、なんとなく――本当になんとなく、元就は供も連れずに海辺に居た。岩ばかりの波打ち際に立ち、海を眺めている。比較的穏やかな波の間に生き物の姿が見えた。透明度の高い海は、日の光を存分に浴びて命の豊かさを元就に知らせる。わずかな風が彼の髪を揺らし、元就は目を細めて息を吐いた。
静穏な空気に包まれながら、ただ歩く。大気に身を委ねていくと警戒心が薄れていった。――――心地好い。何も考えず、ただ耳に入る海や風に応えるような歩調で歩く。こんな時間は、どれくらいぶりだろうか。
「ちょっとアンタ、何してんのさ」
元就を現実に戻す、鋭い声が聞こえた。首をめぐらせると、若い娘が腰に手を当てて睨んでいる。元就が彼女の姿を捉えたと同時に娘は大股で近づいて、彼の手首を掴んだ。
「何をする」
「いいから、こっち来な!」
有無を言わせない口調に、なんとなく振りほどけるはずの手をそうせずに、娘について歩く。娘は振り向きもせず、ずんずんと進み小屋の中に元就を入れて扉を閉めた。
ふう、と息を吐いてから真っすぐに元就を見る。
「アンタみたいなのが一人であんな所に居たら、危ないだろ! かどわかされちまうんだからね」
唇を尖らせながら娘が言った言葉に、元就は目を丸くした。かどわかされる――――我が?
「クッ」
思わず漏れた元就の笑みに、今度は娘が目を丸くする。
「な、何が可笑しいのさ」
すねたような顔の娘は、まだ盛りになる前の幼さを感じた。そんな彼女に心配をされたのかと思うと、さらに笑みがこみあげてくる。
「クックックッ――――娘、我がかどわかされると思って、連れてきたのか」
そこで初めて、娘はしっかりと元就の姿を見つめる。高慢な笑みを乗せた元就の顔から爪先までを幾度か繰り返し眺め、彼女は自分の間違いに気付いたらしく、顔を染めて視線を落とした。
「だって、そんな――柔らかそうな着物着てるから」
口内で呟くように言い訳をする娘に、大きなため息を与えながら元就が言う。
「まぁ、いい――娘、なぜあそこに居ればかどわかされると思った」
自分の間違いを咎める言葉ではなかった事に、娘はわずかな安堵を見せて答える。
「最近は戦だなんだのどさくさに紛れて、悪いことをするやつが増えてんのよ」
顔をしかめた元就に、娘は顔を上げて言う。
「勝手に漁場は荒らすし、文句を言やァ女の癖になんて言って力に物を言わせやがる。武士だのなんだと言いながら、やってることは賊と一緒さ」
言い終わり、娘ははっとして笑顔に変える。
「ごめんごめん。アンタに言っても仕方ないね。やな話聞かせちまったお詫びに、うまいもん食わせてやるよ」
「いや、我は――――」
「遠慮は無し。育ちのよさそうなアンタの口にも、合うと思うよ。昼飯時だしさ、お腹空いてない? それとも、私ら下々の者と一緒に物を食べるなんてって思ってんの」
頬を膨らませる彼女の顔を見つめる。普段なら、下らぬと去るはずが出来ないでいる。知らぬ自分に内心で戸惑う元就に、無言を了承と取った娘が顔中に笑みを浮かべた。
「あっちで皆が用意してるからさ、行くよ」
彼女の笑顔が、元就には日輪のように眩しく見えた。
娘に連れられて行った先は海女たちの憩いの場所で、良い香りと共に女たちは元就を迎え入れた。
「見回りに行ったら、漁場に居たから連れてきた」
「お公家さんみたいのが、供も連れずにかい。へえぇ、また珍しいこった。なんか嫌な事でもあったんかい」
「そんなことより、さっさと食べてしまおうよ。冷めちまう」
女たちはどれも元就の知る女性とは対極に居るような雰囲気で、どちらかといえば気の荒い男衆のほうが近いように思える。
「ほら、食いな」
差し出された汁椀は、ごちゃごちゃと海の物が入っている。一瞬顔をしかめた元就に、娘が言う。
「毒なんて入ってないし、いつもアタイらが食べてるもんだから安心しなよ。アンタが食べてるような綺麗なモンとは違うんだろうけどさ、試してみてもいいと思うよ」
ほら、と改めて差し出され受け取る。成る程香りは悪くない。続けて出された箸を手にし、座りなよと促され流木に腰掛けてから、恐る恐る口をつける。
「――――これは」
「悪くないだろ」
自慢気な娘にうなずくと、胸をはって彼女が言った。
「アタイらが海に潜って取ってきた、海の恵みだからね。毛利様に献上だって、してんだから」
「献上?」
「そうさ。毛利様はご存知無いだろうけどね、アタイらが取ってきたものを買い付けに来た人が、そう言ってたのさ」
益々得意気な顔をしながら、娘は自分の汁椀に口をつける。元就は娘を見、女たちを見、手の中の汁椀を見た。
「なんだい、冷めちまうよ」
首を傾げて言う娘に頷き、元就は不思議な気持ちで汁椀を空にした。
食後、女たちは仕事にかかる。朝に取れたものたちを日乾しにしたり、道具の手入れを始めた彼女たちは楽しそうに見えて、元就は彼女たちを眺めながら自分の周りに居るもの達の姿を思い浮かべる。こんなに晴れやかな顔をしている者が、居ただろうか――――。
「珍しい?」
娘が話しかけてくる。親しげな様子に戸惑いこそすれ、不快さは無い。その事に更に戸惑いながら、元就は作業をする女たちに目を戻した。
「アタイらがどうやって生きてるか、お武家さんもお公家さんも、ほとんど知らないだろ。――――まぁ、アタイらもソッチの事は知らないんだけどさ」
言いながら歩き、女の一人に何事かを言って娘が戻って来る。
「その辺、歩こうか。綺麗なとこあるんだ」
手を差し出され、迷う。
「行こう」
また手を引かれ、元就は自分らしからぬ自分に困惑しながら娘に引かれるままに歩いた。――――我は、一体どうしたというのだ。
楽しそうに娘が歩く。自然と離れた手を少し惜しいと思いながら、元就は跳ねるように歩く背中を見つめる。ゆるい坂道を登る姿は、空へ向かっているように見えた。
「ほら、ここ」
そばの木に手をあてて、娘は元就に笑いかける。その横に立った彼は、目の前の光景に息を飲んだ。
点在する岩肌にある動かぬ命が、海面に反射する光に輝く。どこまでも広がる海は、遥かな位置で空と融合している。元就自身、こういう景色は初めてでは無い。初めてでは無いのに、今まで見たどのような景色よりも神々しく感じた。
「すごいだろ」
言葉も無く景色を見つめる元就に、ため息混じりの声で娘が言う。
「どんなに嫌なことがあっても、怖いことや汚いことがあっても、ここだけはいつも綺麗なんだ」
少し寂しそうな彼女の横顔を、元就は美しいと、そう感じた。
「さ、そろそろアンタ戻らなきゃ心配されんじゃない」
すぐに笑顔になった彼女には、先ほどの表情の欠片すら見当たらない。
「アタイもやることあるし。――――どの辺のお屋敷なんだい?」
「ああ、いや――――我は一人で問題無い」
「でもさ――――」
「大丈夫だ」
自然と、穏やかに笑んでいる自分を感じながら娘を見つめる。少し迷ってから、それじゃあと彼女は手を振った。
「また、遊びにおいで」
そう言って、小さくなっていく姿を元就は静かに見送った。
戻ると、能面のような顔で屋敷の女たちが元就の世話をする。うやうやしく頭を下げる顔に、くるくると変わる娘の顔が脳裏に浮かぶ。
自室に入り、外を眺める。彼女の寂し気な表情と言葉が、ひっかかっていた。
「お呼びでしょうか」
声がかかり、元就は振り向く。頭を下げている男をカエルのようだと思いながら、元就は声をかけた。
「領内で、不逞を働く者どもがいると聞いたが?」
「は、些末な事ゆえ、元就様のお耳に入れる程では無いかと――――」
すうっと元就の目が細められ、男は体を強ばらせる。
「我を、領内すら掌握出来ぬ愚鈍と、そう呼ばせるつもりか」
「す、すぐに、すぐに致します」
元就の鋭さに、一気に汗を噴き出しながら、男は飛び起き走り去る。目を閉じ、軽く髪を揺らして細く長く息を吐き出す元就の瞼に、娘の笑顔が浮かんだ。
「――――悪くない」
呟く彼の唇に、淡い笑みが浮かぶ――――。
2009/08/26
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