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花酔い

 若々しい、あらたな芽吹きの季節を迎えた山の中に、わたくしはひっそりと、けれど大地にしっかりと根を張り巡らせて、やわらかな日差しと空の下に、薄紅色の花弁をたわわに広げておりました。
 わたくしの同胞の、人の足の踏み入れやすい場所にいる方々は、その花弁の下に陽気にさわぐ人の訪れを迎えていると知り、わたくしも人を花弁の下へと招いてみたくなりました。
 けれど、わたくしの傍に人の姿が現れた事は、一度もありません。見下ろせる場所に人の道があり、時折、その道からわたくしを人が仰ぎ見るということはありましたが、足がわたくしの元へと向けられることは、ありませんでした。
 あるとき、わたくしは今までに見た事のある人とは、少し違った人の姿を目にしました。
 高々と結い上げた髪を揺らして歩くその姿は、春の訪れを全身で喜んでいるかのようです。みっしりとたくましく育った、太い幹のような体の上にある顔は、まるで童子のようでした。その肩に、小さな猿がうらうらとした風を楽しむようにして、乗っています。
 わたくしは、その人の足ならば、わたくしの傍に来られるのではないかと思いました。そして同時に、その人の楽しげな様子の根に、深く大きく抉られた傷があることに気が付きました。
 人里のそばにある同胞は、この季節、わずかな間に開く花弁によって、人の心を慰めているそうです。わたくしは、大きな傷を根に持ちながら、大きくたくましく育ち、無邪気な笑みを浮かべている人を、わたくしの花弁でどうしても慰めたいと願いました。
 わたくしの願いが届いたのでしょう。春の風が、ふうわりと花弁を一枚、小猿の額へと運んでくれました。小猿は花弁を人に見せ、人がわたくしに目を向けます。
 ああ、どうか。他の人々のように、眺めるだけで去る事はせず、わたくしの元へと来てください。
 わたくしの招きに、その人は応じてくれました。木々の間を擦りぬけ、斜面をたくましい足取りですすみ、にっこりと立ち止まってわたくしを眺めました。
 もう少し、この花弁の下へいらっしゃいな。
 わたくしの声が聞こえたのか、人はゆったりと傍に寄り、わたくしの幹に手をあてて小猿に話しかけました。
「キレイだなぁ。夢吉」
「キッキィ」
 小猿の名前は『夢吉』というのか。人の声をたしかめたわたくしは、人の手のひらから、人の名前が『前田慶次』であるということを感じました。
 慶次はしばらく夢吉とともに、わたくしを見上げていました。そうしてそっと腰を下ろし、草の上に寝転がり、根を枕にして花弁の隙間から空を見上げてつぶやきました。
「なつかしいなぁ」
 触れている箇所から、慶次が何をなつかしんでいるのかが、わたくしに流れてきます。慶次は『秀吉』という友人と共に、わたくしの同胞を眺めて遊んだときの事を、思い出しています。それは今の季節そのままの、しなやかで鮮烈で穏やかなものでした。その思い出のしなやかな芯が、慶次の根の傷に繋がっている事を、わたくしは知りました。
 根は大地を掴み、しっかりと生きるために必要な物を、この身に受け止める大切なものです。わたくしは、しなやかな思い出を通して、慶次の根の傷をふさぐことはできないかと考えました。
 日差しが、風が、草木の香りが、わたくしの手助けをしてくれます。
 慶次は夢吉と共に、うとうととしはじめました。ゆらゆらとゆれた意識が沈んでいくのを、わたくしは少しもこぼさないように、しっかりと受け止めて包みました。
 慶次は『秀吉』とふたたび、しなやかな記憶の遊びをしたいと願っています。けれどそれが二度と叶わないことを、わたくしは知りました。それならば夢の中だけでも叶えようと、わたくしは花弁の全てから慶次へと、やわらかなものを注ぐことにしました。
 慶次の大切な『秀吉』は、慶次の手の届かないところへ、行ってしまっていました。慶次はそうならないように、何度も『秀吉』に呼びかけたのに、その声が届かなかったことを、ひどく気にしていました。彼がそうなった原因は、自分にあるのだと思い悩んでいました。それが、根の傷の最初のヒビとなったようです。
 わたくしはまず、それを包むことにしました。
 慶次と秀吉は、いたずらをしてはいけない相手に、いたずらをしてしまったようです。そのために、大変な目に遭ってしまったのです。ですから、わたくしは彼らが上手く逃げおおせたという夢を、慶次に注ぎました。
 その夢を見たときの、慶次の笑みの愛らしい事!
 これが、わたくしの同胞たちが人の心を慰めていると、誇りのように語る基盤なのだと知りました。わたくしは、春の日差しにくすぐられるよりも、もっと心地の良いものを見つけました。
 次に、わたくしは慶次の意識の中に、秀吉のほかに、別の誰かがいる事を見つけました。それは『半兵衛』という人でした。秀吉は、慶次よりもまだ強くたくましい様相でしたが、こちらは柳のような雰囲気です。慶次は彼とも和解のできなかった事が、悔やまれてならないようです。半兵衛は病で、盲目的に慶次と別れた秀吉を信じ、支え、それを止めようとしていた慶次を遮断しようとしたのだとか。
 それならばと、わたくしは彼ら三人と夢吉が、おだやかに花弁の下で微笑みあう姿を、慶次の意識の中に生み出しました。
 すると慶次は、わたくしの思うとおりに、すばらしい笑みを浮かべたのです!
 わたくしは、これで慶次の根が癒えるのではと期待をしました。なので、そっと慶次の根を探ってみました。これほどの笑みを浮かべるのですから、少しは治癒がされているだろうと期待して。
 それなのに、慶次の根は変わらず、ぱっくりと大きく抉られたままで、むしろその傷跡は今しがた出来たように、じくじくと樹液を滲ませはじめたのです。
 これは、いったいどうしたことでしょう。わたくしは間違ってしまったのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。慶次は、ほんとうにすばらしい笑みを浮かべているのですから。
 きっと、これだけでは足りないのでしょう。もっともっと、まだ探り終えていない部分があるに違いありません。わたくしはさらに、慶次の根の傷をさぐりました。
 半兵衛は病で枯れ果ててしまったようです。秀吉は『家康』という者に大地から根を抜かれ、その生涯を終えたという事が知れました。わたくしは、その『家康』という者も共に笑いあう形にすることにしました。他にもまだ、とりこぼしている者があるかもしれないと、わたくしは実行に移す前に、慶次の意識の隅々までをも探りました。すると他にも『とし』や『まつねぇちゃん』。家康と仲の良かった『三成』と『吉継』。三成を敬愛している、慶次と共に遊びに出る事もある『左近』や、他にもさまざまな人の影が浮かんで来ました。
 ああ、そういうことなのか。
 わたくしは、慶次が何を望んでいるのかを知りました。慶次は、自分の目に映った人がすべて、笑いあえることを願っていたのです。
 なんと愚かで、浅はかで、穢れの無い幻想なのでしょう。
 人は獣です。獣は自己の縄張りを持っています。その縄張りを侵されまいと、同胞であっても屠ります。そして、人は群れを作る獣です。群れを作る獣であれば、縄張りの中であっても、自分が縄張りの長となるために、同胞を屠ります。人の場合、それは少々、山の獣とは違っているように感じられますが、それでも獣の理の範疇であるといえるでしょう。膨らみすぎているのかもしれませんが、乖離しているようには、わたくしには思えません。
 彼らが慶次と離れたのは、縄張りを広く求めたからだということが知れました。獣はどれほど幼くとも、この理を知っています。慶次はどうして、その理を受け入れられなかったのでしょう。親離れをさせるために、突然に親が子を疎んじる獣の行動。それと同じ事を秀吉にされてもなお、引きとめようとしたのは何故なのでしょう。
 植物であっても、縄張りはあります。獣だけではありません。それが摂理であるというのに、わたくしは疑問をもったこともないその事に、慶次の意識に触れて初めて、その仕組みの出所はどこなのだろうと考えてしまいました。
 大いなる何かに包まれ揺られ、何かに作用し、何かに作用されて、わたくしたちは存在しています。その摂理に慶次ひとりが抗ったところで、どうしようもないことは明白です。
 それなのに、わたくしは慶次の望みが、この上も無く素晴らしいもののように感じました。これは、慶次の意識と深く繋がってしまったせいでしょうか。
 慶次は失ったものたちを噛みしめすぎたゆえに、根を深く抉られてしまったようです。それだけ深く根を抉られているというのに、どっしりと立っていられる理由は、枯れずにいられる理由は、慶次が諦めていないからだと知れました。
 慶次は愚かにも、人という獣が縄張りを譲り合い、助け合い、長となることを争わずにいることを、喪失の中をくぐってきたにもかかわらず、できると信じているのです。
 そのようなことは実現できるものでは無いと、わたくしは慶次に教える事ができるかもしれません。しかし、それをしたくはありませんでした。わたくしは慶次が哀れでならず、せめて花に酔う間のみ夢幻に叶えてみせることを選びました。
 花弁を震わせ、春の日差しをたっぷりと吸い込み、わたくしは慶次の意識に働きかけました。意識のある頭が、わたくしの根に触れている事で、あますところなく作用させることが出来ました。
 大振りの枝にみっしりと花弁を広げたわたくしの下で、慶次の意識の中にある人々が笑いあい、酒を酌み交わし、食物を頬張り、ふざけあい、歌い、踊っている。
 わたくしの意識は慶次の意識と絡み合い、その光景に酔いしれました。それはまさしく、わたくしが人里の傍にある同胞たちを羨み、望んだものだったからです。
「キキィ」
 うっとりとしていたわたくしと、慶次の意識の間を、夢吉が遮りました。夢吉は思案げな様子で、慶次の頬をぐいぐいと押しています。どうしてこの小猿は、無粋なまねをするのでしょう。わたくしと意識を深く繋いでいれば、慶次の望みは彼の体が土に還るまで、途切れることなく叶い続けられるというのに。いいえ。このままわたくしの意識と溶けあってしまえば、わたくしの枯れるそのときまで、慶次は幸せな時を過ごせるというのに。
「ん……んぅ」
 慶次の意識が、わたくしの意識から離れます。絡めとろうとしても、慶次はしっかりと自分の意識をわたくしの意識と離してしまいました。
「ふぁ、あ。……ああ、寝ちゃってたのか」
「キィイ」
 伸びをした慶次を、夢吉が心配そうに見上げます。それに小首を傾げた慶次は、夢吉を軽く撫でて呟きました。
「幸せな夢を見たよ、夢吉。すごく、幸せな――」
 ふいに言葉を詰まらせた慶次は、体を大きく震わせて天を仰ぎ、体中で叫ぶような慟哭をはじめました。生まれたての赤子が何かを求めるような、山に取り残された子どもが親を求めるような。頼りなくもしっかりとした意識を持った慶次の声が、周囲に広がり満ちていきます。
 そんな慶次の肩に乗り、夢吉は彼の涙に寄り添っています。とめどなく溢れる慶次の涙が、彼の根に沁み込んでいくのを、わたくしは見ました。潤った根の傷が癒されていくであろうことが、伝わってきました。
 慶次は全身で泣き叫びながら、傷の元を受け入れようとしています。彼の根が、彼の涙で潤い癒されることに、わたくしは気付きました。
 止まっていた傷の原因となった時間が、慶次の中で動き始めた事を、わたくしは知りました。
 慶次の傷が、時間をかけてふさがっていくであろう事を、わたくしは感じました。
 癒えた傷は瘤となり、その痕を消し去る事はないでしょう。けれどその瘤こそが、慶次のこれからの命を彩る春を迎えるに必要なものであることを、わたくしは確信いたしました。
 空に向かって堪えていたものを吹き出す慶次が落ち着くまで、わたくしは花弁を少しずつ少しずつ散らし、彼が安心して凝ったものを吐露しおえられるように、包んでいようと思います。

2014/04/04



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