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まぬきのたぬけ

「やあ、すっかり遅くなってしまった」
 里の民の暮らしをフラリと見て回った徳川家康は、彼らの仕事を体験してみようと手伝った。その後、誘われるままに食事を共にし、楽しい酒の時間も過ごしているうちに、夜がすっかり更けてしまった。
 泊まって行けばいいと引き止めるのを断り、月明りが煌々としているので大丈夫だと、家康は屋敷への道を急いだ。
 ほどよい酔いと、景色を藍色に染めている月光の明るさが、妙に心を浮き立たせる。屋敷の者は心配をしているだろうが、もう子どもでは無いのだし、月夜のそぞろ歩きというのも乙なものだろうと、家康は足を緩めた。
 ぽっかりと浮かんでいる丸い月が、家康には人の笑顔に思えた。あるいは笑顔の心根が寄り集まり、あの月になっているような心地がした。
 家康の頬に笑みが浮かぶ。ほっこりと、心が満月のようになる。
「良い時間を過ごしたな」
 たわいのない日常。当たり前の一日。これからも続く事を疑う余地もないほど、平凡な――。
 家康は眉をきりりと引きしめて、月を見上げた。
 彼らの笑顔を丸い月に投影する。精悍で誠実な顔つきの家康に、月光が降り注ぐ。彼の決意の再確認を手助けするように。
 日常は、当たり前では無い。それを、戦国の世に生き、人を動かしている家康は知っている。兵役に取られた者は、日常が変わる。取られた者の家族や友人、もっと言えば、村落の日常が変わってしまう。
「そんな事は、させてはいけない。――そんな世の中では、ダメなんだ」
 たくましく大きな拳を握り、家康は強い意思を夜気にぶつける。つぶやきほどの大きさの声は、月光に乗って夜空に拡散された。
 家康の胸に、今日一日で出会った笑顔の数々が浮かぶ。誰もが“当たり前”を当然の事と受け止め、一生懸命に生きていた。必死、という事では無い。ただただ、流れていく時を、一瞬を、大切に扱い生きていた。
 彼らは、そんなふうに思ってはいないのかも知れない。けれど家康の目には、そう見えた。
 戦場の懸命さとは違う、穏やかな懸命。
 当たり前の日々をいつくしむ懸命さ。
 彼らは意識などしていないだろう。だが、それがいいと家康は思う。
 彼らは自分の周囲に在るものに感謝し、育み、助けられ、あるいは助けて生きていた。自然と折り合いをつけ、どうしようもない事には諦めをつけて、立ち止まるのではなく違う道を探る。それはとても建設的で、前向きで、懸命に生きているように家康には思える。
 戦場に出たがらぬものを、臆病者と罵る者がいる。けれど家康には、罵る彼こそが臆病者なのではないかと、里の民に交じっていた折に感じた。どうしてそう感じたのか、はっきりとした理由はわからない。ただ、一つでも多くの首を取って恩賞にありつき、稼ごうとしている者と、田畑を耕し、山や川に入って糧を得ている者は、懸命に生きているという点で、何もかわりが無いのではと思う。
「生きるという事は、すごいな――」
 どれほど用心していたとしても、思わぬ事態になる場合は山ほどある。どう対処をするかというのは、日々を懸命に生きているからこそ、思い浮かぶのでは無いだろうか。身動きが取れなくなったときに、懸命に生きているからこそ、誰かの手が引き上げようと伸ばされるのでは無いだろうか。
「ワシも、彼らも、何もかわらない」
 ゆるゆると、家康は止めていた足を動かした。
 立場が違っているだけで、規模の大小があるだけで、自分も彼らも“時代”を“次代”に繋ぐために、懸命に生きている。
「だからこそ、ワシは」
 家康は自分の手を見た。かつては武器を、当たり前のように握っていた手。その手を開いた時に、多くのものが手の中から零れ落ちていった。失いたくないものも、沢山。
「大丈夫だ。――大丈夫」
 全てを失ったわけじゃない。この身を支えてくれるもの、この心を強くしてくれるもの、信じてくれているもの。
 多くのものが、まだ自分には残っている。
 家康はまっすぐに前を向いて、大地を深く踏みしめた。
 決意を新たにした四肢を、月光にさらして進む家康の前に、突如、大きな幕が現れた。
「――え?」
 何時の間に、こんなものが現れたのだろう。そして何故、こんなところに幕が?
 目を丸くして、家康は周囲を見回した。だが、幕以外にはこれといった物は何もない。人の気配も感じられない。
 家康は小首をひねった。
「まあ、いいか」
 幕を避けて帰ろうと、家康は道の脇を通る事にした。すると、幕も家康についてくる。
「……?」
 どういう事だろうかと思いつつ、今度は道に戻ってみると、やはり幕もついてきた。そのまま進めば、幕も進む。
 家康は立ち止まり、腕を組んで幕に目を凝らした。これは一体、どういう現象なのだろうか。
 家康はじいっと幕をにらみつけた。幕は少しも動かない。
「ん?」
 家康は幕が通常の織物とは違うことに気付いた。何やら毛羽立っている。古い布なのだろうか。
 月光の中に浮かぶ白い幕は、ところどころが薄汚れているようにも見えた。そして何やら獣臭い。
 ははあんと、家康は幕の正体に見当をつけた。この現象に似た話を、盟友の長曾我部元親から聞いた事がある。元親の治めている四国は、化け狸が多く住んでいるという。夜道を行く者を通せんぼしたり、驚かせたりするのだそうだ。
 これはきっと、狸の仕業だな。
 家康は深く息を吸い込み、大きな声を出した。
「やあやあ、これは困ったな。家に帰ろうにも、得体の知れ無い幕が、道を塞いでいるぞ」
 元親の言うには、狸はおだてたり、一緒になって騒いだりすると、調子に乗り過ぎて正体をさらしてしまうらしい。家康は困ったフリをする事にした。
「さあて、これからどうしよう。来た道を戻り、先ほどの村で一泊させて欲しいと頼もうか」
 幕はそよりとも動かない。
「いやいや、それでは誘いを断った手前、申し訳無い。村を出てから時間も経っている。皆、もう眠りについてしまっている事だろう」
 家康は脇の木を見上げた。
「この木に登って、幕の上を通り過ぎようか。だがしかし、ワシはそれほど木登りが得意では無いからなぁ」
 言っているうちに、家康はだんだん楽しくなってきた。四国狸のいたずらは可愛いモンよと、元親の笑顔が脳裏に浮かぶ。また彼と気楽な酒を交わしたいなと胸中でつぶやきつつ、家康は幕に獰猛な笑みを向ける。
「この幕を突き破って進むほうがいいな」
 よしっと頷き、家康は腰を落とした。ぐっと力を込めれば、たくましく鍛え抜かれた筋肉が盛り上がる。獣ならば、相手がどれほど危険な力量を有しているか、すぐに理解すると元親は言っていた。イタズラ狸は、無謀な危険は犯さないのだと。ならば自分のこの脅しは、きっと通用するだろう。
 無事に避けてくれと願いつつ、家康は地面を蹴った。
 ぼふんと体が獣くさい毛羽立った幕に包まれ――た、かと思うと、家康の頭がやわらかな毛皮に覆われた。
「んんっ?」
 駆ける速度を落としながら、家康は顔に張り付いたものを掴み、引きはがす。足を止めて見れば、狸がぷらんと下がっていた。
「ああ、やはり」
 家康がにっこりすると、狸が前足を擦り合わせる。かんべんしてくれ、と言っているように見えた。
「安心しろ。食うつもりは無いさ」
 家康は狸を抱きしめ、ぽんぽんと軽く背を叩いた。狸はおとなしく家康の腕におさまっている。じっと伺うように見上げてくる狸に、家康は笑みを深めた。
「剣呑な世の中じゃ、安心してイタズラも出来ないな」
 狸は首を傾げた。
「戦だなんだと、殺伐とした空気じゃ、イタズラを受けて楽しむ余裕も無い。そんな窮屈な世の中じゃ、生き辛いだろう」
 狸は丸い目をくるくるとさせて、家康の目をじっと見る。
「もっと、はつらつとイタズラを楽しみ合える世の中を、作らなければな。おまえたちも、懸命に生きているのだから」
 そっと狸をおろした家康は、じゃあなと狸の頭をなでて帰路を急いだ。なんだか今日は、すごく大切なものを多く受け取った気がする。
 足取り軽く進む家康を、無数の輝く瞳が見送り、そのうちの一つが、足音を忍ばせて彼の後を慕い追った。

2014/12/13



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