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子ぎつね佐助と春の雨

 ぽわぽわと体の隅々まで弛緩させるような、ふかふかの藁の中にいるような心地の気温に包まれて、子ぎつね佐助は退屈そうに自慢の尻尾をフラフラ揺らしながら、縁側に転がっていた。
 大きな彼の耳が、景色を覆う霧よりも少し大きく、雨よりもずっと小さな水の粒が、しずしずと舞っている音を捉えている。
 つまんないな、と佐助はころころ板間を転がっていたが、そうしていても仕方がないので、湿気をふくんだ尻尾の毛づくろいを寝転んだまま始めた。
 つまんない。本当に、つまらない。
 せっかく、百花が咲き誇り若葉がやわらかく萌えさかる春が来たというのに。あちらこちらで虫や獣が蠢く春になったというのに。うっすらとした灰色の、まぶしいほどに白く輝く雲が落としてくる水が、佐助の外出を邪魔している。
 ほんっと、つまんない。
 佐助の大好きな主、真田幸村は道場で鍛錬中だ。それが終わるまで、佐助にすることなど何も無い。晴れていれば、たっぷりと山の香りを身に受けて走り回り、素敵な何かを見つけて鍛錬を終えた幸村に見せる事が出来るのに。
 素敵な日差しの春が来たのに、自慢の尻尾をふかふかな太陽の匂いでいっぱいにして、幸村を楽しませることが出来ない。楽しみを阻む雨を、佐助はにらみつけた。
 ほんっと、つまんないったら!
 ぷんっと心の中で文句を言って顔をしかめた佐助は、伸びをしながら大きなあくびをして、頭とお尻を軽く叩いて耳と尻尾を消し、ほてほてと歩き出した。もう少ししたら、幸村は鍛錬をおえる。体を拭い、さっぱりとした彼は佐助と八つ時を楽しむ。そのための準備を、佐助はしに行ったのだった。

 佐助が化けぎつねであることを知っているのは、屋敷の中でもごく一部の人間に限られる。なので佐助はあまり人前に出なくてもいい、幸村付きの子忍として生活をしていた。人のすべてが妖の存在に理解を示すわけではないことを、見た目の何倍も生きている佐助は知っている。幸村の傍にいられるのなら、人前に出るときに耳や尻尾を隠すことなど造作も無いと思っていた。なので、耳と尻尾を消すのと同時に、ほんのちょっぴり、ここに来た時よりも成長をしているように見せるため、変化の術も用いていた。この技は、人の里に住まうには絶対に必要だと、佐助は特に念入りに練習をしていたので、得意だった。
 乾いた手ぬぐいと水桶を抱えて佐助が道場を覗くと、幸村が敬愛する武田信玄と拳を打ち交わしていた。遠慮なく技を繰り出す二人の姿は、とても楽しそうだ。なんだかちょっぴり寂しくなって、子ぎつね佐助は下唇を突き出した。
「幸村あぁあぁああっ」
「ぅお館様あぁああああっ」
 絶叫しながら繰り出された拳が、互いの頬を捉える。空気が弾け、佐助は烈風に思わず目を閉じた。それがおさまり目を開けると、どたりと大きな音をたてて二人が倒れた。終わったみたいだな、と判断した佐助は道場に足を踏み入れる。立場は信玄の方がえらいので、先に声をかけるべきだとわかってはいたが、信玄がそんな事を気にするような人間ではないとも知っていたので、幸村の傍によって顔を覗きこんだ。
「旦那」
「おお。佐助」
 汗だくの幸村が、荒い息に胸をあえがせながら満面に笑みを浮かべる。いつでもこの笑顔で名を呼ばれれば、佐助の胸は日向ぼっこをしているようにあたたかくなった。
「おつかれさま」
「うむ」
「ワシには、言うてくれんのか」
 佐助が顔を上げれば、胡坐をかいた信玄がニコニコとしていた。
「大将も、おつかれさま」
「うむ」
 頷いた信玄が佐助を手招く。ほてほてと水桶と手ぬぐいを持った佐助が近付けば、大きな手のひらが佐助をなでた。
「ワシと幸村以外は、しばらくは立ち寄らんぞ」
 佐助が化けぎつねであることを、信玄も知っている。信玄の言葉をありがたく受けて、佐助は水桶を置いて変化を解き、耳と尻尾を現した。
「雨天で、ヒマをしていたのだろう」
 包みこむような信玄の言葉に、頷いていいものかと迷った佐助は、起き上がり傍に来た幸村を見上げた。
「待たせたな」
 それに耳をぴんとさせて、佐助は首を振った。
「別に。大丈夫だから」
「そうか」
 佐助はちゃんと手ぬぐいを二本、用意していた。一本を信玄に、もう一本を幸村に渡せば、水桶にそれを浸して絞った二人が、諸肌ぬぎとなり汗を拭う。佐助は二人の体を見比べ、自分の手のひらを見て、ぺたりと自分の腹を触った。
 幸村とはじめてあった時に、彼は佐助と変わらない大きさだった。それが、今は逞しく立派な青年へと姿を変えている。わかりきっていることであるのに、佐助の耳はしゅんとなり、しっぽが垂れた。
 俺様も、変化の術じゃなく本当に、旦那と同じ速度で成長が出来たらいいのに。
 心の底から、そう思う。変化の術など使わずに、幸村の傍にずっといられたならば、どんなにいいか。幸村が年老いた頃に、自分は少しでも成長しているのだろうか。このままなのだろうか。
 つまらない、と佐助は床に座りこんだ。同じ時間を楽しめない事が、過ごせない事が、つまらない。とてもとても、つまらない。傍にいるのに、時間の流れを共有できないことが、つまらない。
 佐助の耳に、かすかな音を立てるやわらかな雨の、優しい音色が忌々しく届いた。ひどく情け無く惨めな気持ちが、じわじわと体を這い登ってくる。
「しかし。今日はいつも以上によう動いたわ」
 野太く力強い信玄の呟きに、佐助の片耳がぴくりと動いた。ふわりと大木の幹のように、たくましい腕に抱き上げられる。きょとんとした佐助に、子どものような笑みを浮かべた信玄が言った。
「三人でしばらく、ここで昼寝をせんか」
「えっ」
「八つ時の団子か餅が蒸しあがるまでは、まだ間があるぞ」
 佐助や幸村の返答を待たず、信玄は佐助を抱きしめたまま、ごろりと横になった。きょとんとする佐助を間にして、懐かしげに微笑んだ幸村も寝転ぶ。鍛錬後の、四肢に熱のみなぎっている二人のぬくもりが、佐助を包んだ。それは春の陽だまりよりも優しく、あたたかくて、佐助はほうっと息を吐く。
「懐かしゅうございますな」
 深く胸に息を吸いこんだ幸村に、信玄が「うむ」と答えた。
「俺がまだ小さい頃に、こうして道場でお館様と昼寝をしたことがあるのだ」
 問う目をした佐助に、幸村が教える。
 小さい頃、と佐助は口内で呟いた。俺様はずっと小さいままだ。自分が大人になる姿を、佐助は想像出来ないでいる。寂しさをよぎらせた佐助に気付いたのか、信玄が胸深くに佐助を抱きしめなおした。
「良い天気だとは思わんか」
「えっ」
「良い天気だろう」
 心底の言葉であると、佐助は信玄の顔で知った。雨が降っているというのに、良い天気とはどういう事なのだろう。佐助が不思議に思っていると、佐助の耳の根を、幸村が指先でくすぐった。
「良い天気でござりますな。お館様」
 信玄から幸村に顔を向けた佐助は、彼もまた本気でそう思っていることを見て取った。
「雨なのに?」
 佐助の問いに、二人は同じ笑みを浮かべて頷いた。佐助には、よくわからない。
「よいか、佐助。この雨は残る雪を溶かし、土を柔らかく潤わせる。土が潤えば草木が目覚め、大気がぬくもりを増す。そうなれば虫や獣が目を覚まし、じっくりと冬の間に蓄えておった命を芽吹かせる」
 噛んで含めるような信玄の言葉を、佐助はじっと見つめた。
「この雨が降らねば、どのような種を抱えておったとしても、それは目覚めず成長も無い」
「だから、良い天気ってこと?」
「そうだ」
 くすくすと幸村が笑いだし、佐助は鼻先にしわを寄せた。
「ああ、違うぞ、佐助。侮って笑ったのではない。俺も、幼い頃に同じ事を、お館様より教えていただいたのだ」
「旦那も、同じ事を?」
 うむ、と幸村が頷いて信玄を見た。
「某、あの折のお館様の言葉、しかと覚えておりまする」
「死しても、忘れるでないぞ。幸村」
「はい」
 信玄が佐助を抱きしめる腕をゆるめた。今度は幸村が佐助を抱き寄せる。
「良いか、佐助。雨は命を育むに必要なものだ。むろん、川を反乱させたり土砂崩れを起こしたり、困る場合もある。だが、雨が無くば成長が出来ぬ。晴れの日ばかりでは、渇いてしまう。干上がってしまう」
 じっと、佐助はまっすぐな幸村の目を見つめた。幸村の言葉に、何かが含まれている。その何かがわからなくて、その何かを見つけたくて、佐助は幸村の瞳の奥を見ようとした。
「ここも、同じだ」
 とん、と幸村は佐助の胸を軽く叩いた。きょとんと佐助が首を傾げる。にっこりとした幸村が、信玄に少し眉を下げて呟いた。
「某もまだまだ、未熟でございまする」
 幸村の瞳に寂しさを見つけ、佐助は驚いた。どうして彼が寂しいと感じているのかがわからず、その理由を思いつけない自分がはがゆい。
「旦那」
 手を伸ばして幸村の頬に触れれば、幸村がいつくしむように佐助をなでた。その手が去年よりも少し大きく感じられて、佐助は泣きたくなった。旦那は成長して、俺様は変わらないまま。いつまで、自分はこのままなのだろう。いつまで、一緒にいられるのだろう。人とは違う時間軸の中にいる自分は、いつまで――。
 そこでふと、佐助は幸村も同じ悩みを抱えているのではないかと、思いついた。さきほど見えた寂しさは、成長をせぬ佐助と、成長をしてしまう自分との差によるものではないのかと。
 まさか、ね。
 そう思うのに、佐助の胸には立場の違う同じ寂しさを、幸村と共有したいという望みが浮かんだ。彼もまた、自分と同じ時間を過ごせぬことを、悲しく思っているのだと。
「同じ人でも、同じ植物でも動物でも、成長の速度はそれぞれに違う。日差しや雨の具合。立場などによって、な。肝要なのは、しっかりと地に足をつけて自分を見失わぬまま、大切なものを見落とさぬよう、周囲を広く見渡すことを忘れぬことよ」
 大地のように大きな心を腕に乗せ、信玄が幸村と佐助を抱きしめた。ふたつのぬくもりに挟まれて、佐助の瞳が穀雨に濡れた。

2014/04/19



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