子ぎつね佐助は、林から抜ける手前で立ち止まり、頭とお尻を軽く叩いて、耳と尻尾を隠した。 よしっとひとつうなずいて、木々の間から飛び出て走る。もう少しで、大好きな主――真田幸村――に頼まれた、おつかい先へ到着する。 背中の風呂敷包みの重さを確認し、佐助はぐんと速度を上げた。 佐助がおつかいへ行った先は、小さな武家屋敷だった。そこに子どもが生まれたので、幸村と佐助が共にウサギを狩って、塩漬けにしたものを祝いにと届けに来たのだ。 佐助が現れると、彼が幸村お気に入りの子忍であることを誰もが知っており、祝いの品を持って来たと言えば、あがって子どもを見て行ってくださいと招かれた。佐助としては早く帰り、よろこばれたよと報告し、主の笑顔を早く見たいところだが、赤子がどんなものなのかを伝えてくれと言われ、幸村への土産になるだろうと承諾した。 目じりが下がって落ちてしまうのではないかと思うほど、屋敷の主はうれしそうに佐助を案内した。姿よりもずっと長く生きている佐助だが、獣や鳥の赤子しか見たことが無い。人の赤子はどんなものかと、廊下を進むうちに胸がドキドキしはじめた。 赤子がいるという部屋に近付くにつれ、なにやら甘くふんわりとした香りがしてくる。すんすんと鼻を鳴らす佐助に、忍殿は鼻が利くのですかなと、やわらかな声をかけられた。「俺くらい優秀な忍になると、人よりもずっと鼻が利くのさ」 佐助が子ぎつねであることは、一部の人間にしか知られていない。佐助が胸をそらすと、そうですかそうですかと、撫で回さんばかりの顔で頷かれた。なんだか妙にくすぐったくて、佐助は軽く肩をすくめた。こんな顔をされるのは始めてではないが、何か少し雰囲気が違う気がする。甘葛を煮たものを、たっぷりと胸に注がれたような心地に、子ぎつね佐助はあやうく尻尾を出しそうになってしまった。(旦那に、会いたいな) 幸村から離れて、まだ半刻と経ってはいないというのに、佐助は急に主が恋しくなった。その理由がわからぬまま、佐助は赤子のいる部屋に通され、どうぞこちらへと赤子を抱く女に笑みを向けられた。 部屋の誰もが、とろけるような笑みを浮かべている。何故か気恥ずかしくなり、佐助はモジモジしながら赤子を見るべく傍に寄った。「先ほど、お乳を含んだばかりなので、少し眠そうにしておりますけれど」 女と赤子から、ぷうんと甘ったるい香りがした。近付くにつれて強くなってきた、ふんわりとした香りは乳の匂いだったのかと、佐助は目をトロリとさせている赤子を覗きこんだ。「あー、あーぅ」「まぁ」「佐助殿に、語りかけておりますぞ」 佐助は目をぱちくりさせて、赤子を見た。「えっと、何言ってんのか、わかんないんだけど」「あー、あうー」 佐助は困った。赤子が何を言っているのかわからない。獣や鳥の声ならばわかるのに、人間の言葉がわからないとは、修行不足だったか。 情け無く眉を下げた佐助に、赤子を抱いている女が言った。「抱いてやってくださいまし」「ええっ」 抱いてやってくれと言われても、どうすればいいのかわからない。見る限り赤子はたよりなく、ふにゃふにゃしているようだ。それをどう抱けばいいのか。「座って、手を前に出して」 言われるまま佐助がすると、手の上に壊れ物のように赤子が置かれた。「わ」「首を、こうして支えてあげるのです」 見た目どおり、赤子はふにゃふにゃだった。頭を支えていないと、グラグラとしてしまう。(人間の赤子は、こんなに頼りないのか) 獣の生まれたての赤子も頼りないが、人の赤子もこれほど頼りないとは思わなかった。おっかなびっくりの佐助と赤子を、いくつもの優しい瞳が包みこむ。「あー、ぅ、あー」「だから、何を言ってんのか、俺様さっぱりわかんないんだって」 助けを求めるように女を見れば、女はそっと赤子を抱き戻した。ぬくもりが失せ、香りが少しだけ遠のく。それがなぜか、さみしく感じた。 佐助はまた、赤子を覗きこんだ。そっと手を伸ばして、頬をつつく。「うー」 赤子は呻くばかりで、何を言っているのか本当にわからない。「この方は、佐助さんと言って、お祝いにウサギを持ってきてくれたんだぞ」 屋敷の主が紹介してくれたが、赤子がわかっているようには見えない。けれどそれはどうでもよくて、佐助は赤子がまっすぐ自分を見ていることが、目に見えるそのままを受け止めようとしている姿が気になった。「祝いの肉、食べられないよな」 赤子が何事か言うたびに開く口に、歯は見えない。乳を吸う間は、獣と同じでそれだけを食すのだろう。「そのまま食べられなくとも、母が食せばそれが乳となり、この子に吸われるのですよ」「そうなの?」「はい」「……そうなんだ」 びっくりと感心とを綯い交ぜにして、佐助は赤子の口をつついた。「うーあ、うー」「今日は、よくおしゃべりしますねぇ」「佐助さんを気に入ったのかもしれんなぁ」 これがおしゃべりと言えるのかと思ったが、赤子にとってはそうなのだろうと考え直す。「いずれ、この子も戦場へと行くことになりましょう。その時は、佐助殿。よろしくお頼みもうす」「戦場に?」「武家の男ゆえ」 こんなに小さく頼りないものに、戦働きができるとは思えない。そんな佐助の心中を察したのか、女が言った。「人は誰も、このように小さく、頼りなく生まれてくるのですよ」「誰も?」「はい」「旦那も?」「もちろんです」「ふうん」 不思議な面持ちで、佐助は赤子をつついた。大好きな主は雄々しく、凛々しく、力強い。そんな幸村も目の前の赤子と同じようだったとは。(俺様は、どうだったんだろう) 佐助に親の記憶はない。気がつけば森の中、ひとりぼっちだった。弁丸と呼ばれていた頃の幸村と出会い、誘われ、人の世のことを勉強して彼のそばに行くまで、ひとりぼっちだった。(俺様も、こんな匂いに包まれて生まれたのかな) ふんわりと甘い香りの乳を、吸っていたのだろうか。「わ」 佐助の胸に、さみしさが差し込んだことに気付いたように、赤子がきゅっと佐助の指を握った。「ぅあー」 ぎこちなく、けれどしっかりと、赤子が笑みを浮かべる。「あら、笑った」「おお、笑ったな」 和やかな空気が、いっそうふわふわとする。がまんならなくなって、佐助はすっくと立ち上がった。「俺様、そろそろ帰んなきゃ」 彼らは誰も、佐助を引き止めなかった。優しい瞳で礼を述べ、また遊びに来てくださいと、佐助を送り出した。 佐助は木々の間に入ると、耳と尻尾を出して、一目散に駆けだした。むしょうに幸村に会いたかった。 駆けに駆けている佐助の目の端に、赤く色づいた紅葉が見えた。ふと止まって、佐助はそっと一枚取った。それを見つめ、ふふっと笑んで、ふたたび走り出す。(早く、早く、旦那のところへ) 胸に抱えたものが消えてしまう前にと、子ぎつね佐助は木々の間を走りぬけた。「旦那ぁっ!」 屋敷の塀を飛び超えた佐助を、庭で修行していた幸村は、腕を広げて抱きとめた。「おかえり、佐助。ご苦労だったな」「うんっ」 ふさふさと尻尾を振る佐助を抱いたまま、幸村は濡れ縁に座した。膝の上に乗る形になった佐助は、勢い込んで報告をした。「ウサギ、すっごい喜んでくれたぜ! それで、赤子を見て来たけど、こぉんな位の小ささで、あまったるい匂いがして、あったかくって、ふわふわしてて、なんか、あーとかうーとか言ってて、やわらかかった」「そうか。皆、元気そうだったか」「元気そうだったし、にこにこしてたよ。赤子がさ、俺様の指を握って、笑ったんだ。それでさ、それで」 佐助は帰り道に取った紅葉を、幸村の鼻先に突き出した。「こんなに手が小さかったんだ」 またたいた幸村は、静かであたたかな笑みを浮かべて、紅葉を受け取った。「これほどに小さいのか」「うん。――あのさ、旦那」 あごを引き、耳を垂らして伺うように、佐助は幸村を見た。「どうした」「人間は、みんな紅葉みたいに小さい手をして、生まれてくるって、本当?」「ああ、そうだ」「旦那も、そんなに小さかったの?」 佐助の背を支えている手のひらは、幸村の主、武田信玄と比べれば小さいが、紅葉よりもずっと大きく、頼りがいのあるものだ。「おそらく、そうなのだろう。覚えてはおらぬが」「ふうん」 ぽふんと、佐助は幸村の胸にもたれかかった。「俺様は、どんなだったのかなぁ」 ぽつりと零した佐助の尻尾が、寂しげに揺れる。 幸村は何も言わず、小さな体を全身でくるむように抱きしめた。 幸村の香りとぬくもりに、もっと包まれたくて、子ぎつね佐助は体を丸めた。目を閉じると、赤子の匂いと握ってきた小さな手の力強さ、抱いたときの頼りなさが思い出される。「旦那ぁ」「うん?」「今度、一緒に遊びに行こう。また、遊びに来てって言われたからさ」「そうか。……そうだな。共に、赤子が育つ姿を見に行くか」「うん」 あの紅葉のような手が、包んでくれる手のように大きくなる頃には、自分も大人の姿になっているのだろうかと、佐助は切ない期待を胸に浮かべた。2014/10/15