大烏の背に乗って、妖狐である子ぎつね佐助は心地よい風を受けつつ、目的地へと向かっていた。 子ぎつね佐助の大好きな主、旦那こと真田幸村は、昨日からしばらく遠征に行っている。自分も一緒にと願った佐助に、幸村は佐助の大好きな、お日様のような笑みを浮かべてこう言ったのだ。「佐助には、皆が疲れ帰宅した折りに、働きに見合う休養を与える準備をしていてほしいのだ。賊の討伐というものは、賊を捕らえるだけではない。被害に遭った里者たちを慰め、助け、村の修復なども手伝うこととなろう。心身ともに疲れ切った俺達を、ぞんぶんに労う用意をしておいて欲しい。共に働くよりも、重要で難しい任務だ。よろしく頼むぞ。佐助!」 くしゃくしゃっと頭を撫でられれば、反論などできなくなる。わかったと答えた佐助に、幸村はたのもしそうにうなずいて、出かけてしまったのだった。 そして佐助は、与えられた任務を全うするため、働きに見合う休養の準備とはどんなものだろうと考えた。休養と言えば体を休めることだ。湯を沸かし、風呂の準備でもしておくか。館より少し離れてはいるが、湯治場がある。そこの準備を整えておこうか。ゆっくりと疲れを洗い流し、しっかりと眠れば休養となるだろう。 でも、と佐助は思いついたことを否定した。 疲れているのに、湯治場までもう少し歩いてくれというのは、良くない気がする。 ううむと考えつつ、佐助は幸村の私室の掃除をしたり、山菜を摘んだりして過ごした。そして台所仕事の手伝いをしているときに、ひらめいたのだ。 遠くから帰ってくる面々は、きっとお腹が空いている。遠征先では十分な食事がとれないかもしれない。どんな生き物でも、食べることは大切だ。湯を必要としない獣はいるが、食事と睡眠を不要とする獣はいない。 これだ、と思い立った佐助は、幸村の敬愛する主、大将こと甲斐のお館様、武田信玄に外出する旨を告げ、幸村が帰参するまでは好きに過ごして良いとの了承を得て、日の出と共に大烏を呼び出し、その背に乗って目的地へと向かっているのだ。 目指すは奥州。そこには、日ノ本にその名を轟かせている、美味と評判の野菜がある。 その野菜を育てている男、片倉小十郎は奥州の領主、伊達政宗の失われた右目とも言われるほどの人物だ。軍師であり武人でもある片倉小十郎は、佐助が妖狐の子どもであると知っている、数少ない人間の一人だった。土の香りのする彼は、野菜を我が子のように慈しみ、育てている。彼の野菜ならば極上の労い飯を作れるだろうと、佐助は彼に野菜を分けてもらうために飛んでいた。 茜色だった空が、透き通った青に輝く時刻になって、佐助は小十郎の畑に到着した。大烏の背から見下ろせば、小十郎は畑の脇に腰掛けて、竹筒に口をつけていた。ひと仕事終えたところなのだろう。他に人影が無いのを確認して、佐助は大烏に小十郎の傍へ下ろしてくれと伝えた。「片倉の旦那」 羽音に気付いて見上げた小十郎に、佐助は大きく手を振った。手庇をして眩しそうに目を細めた小十郎の口元が、やさしげに歪む。佐助が大烏の背から降りようとすると、小十郎が両腕を差し出してきた。飛び降りるのは簡単だが、せっかくの好意を無にするのも悪いので、子ぎつね佐助はしっぽを軽く振って小十郎の手を取り、地面に降りた。「どうした。真田の使いか」「旦那は任務だよ。賊の討伐に行ってて、帰ってくるのは三日後くらいだって」「そうか。なら、一人で遊びに来たのか」 小十郎の言いように、佐助は頬を膨らませた。「俺様は、立派で優秀な忍だぜ? そんな暢気なわけないだろう」 ふんっと鼻息荒く佐助が反論すれば、小十郎は軽く詫びた。「なら、任務か。だが、真田の使いでは無いと言っていたな」「うん。まあ、正確に言えば違うけど、大きなくくりにすれば、旦那の使いと言えなくも無いかなぁ」 小十郎が小首を傾げつつ、大烏に目をむけた。「何時頃、出発したんだ」「明け方だけど」「なら、疲れただろう。今から戻るところだ。急ぎじゃねぇんなら、茶に付き合え」 大烏の背に乗っていただけとはいえ、上空でずっと風にあおられ続けるだけでも体力は減る。腹も減っていたので有り難い申し出なのだが、佐助は顔をしかめた。「何だ。真田は三日後に帰ってくるんだろう。それなら、時間があるんじゃねぇのか」「そうなんだけどさぁ」 言いよどんだ佐助が、わかるだろうと目顔で示すと小十郎が破顔した。「政宗様なら、いらっしゃらねぇ」「それなら、お邪魔しよっかな」 顔から険しさをほぐした佐助が、懐から木の実を取り出し大烏に礼として渡すと、大烏はすぐさま食べて飛び去った。「そんなに、政宗様が苦手か」「苦手じゃなくて、嫌いなの」「人の主を、よくもそう言いきれるもんだな」 苦笑する小十郎に、だって仕方ないだろと佐助は呟く。政宗本人が嫌いというよりも、大好きな幸村が大好きな相手だからという理由が大きいことを、佐助は自覚している。小十郎もそれを察しているようで、佐助が政宗に不敬を働くのを黙認していた。そして政宗自身は、そういう佐助の態度を面白がっている。なので小十郎は佐助の幼い悋気を、包むように受け止めていた。「それじゃあ、行くか」「こっそり裏から入ってもいいだろ」 甲斐の武将である幸村の忍と奥州の軍師が仲良くしていれば、あらぬ詮索をされかねない。それに、耳としっぽを隠すのはわけないが、面倒くさくもある。佐助の思惑を聡い小十郎が気付かぬはずもなく、快く了承した小十郎と別れ、佐助は人目につかないように注意しながら小十郎の屋敷へと向かった。 軽々と塀を越えて庭木の陰にひそみ、小十郎が姿を現すのを待つ。 しばらくするとこざっぱりとした着物に着替えた小十郎が、手桶を提げて現れた。「狐」 呼びかけられて、佐助は大きな耳を動かし、他に人の気配が無いと確認をしてから庭先に出た。「まるで野良猫だな」「猫と一緒にしないでよね」 文句を言いつつ、佐助は縁側に座した小十郎の横に並んだ。ひょいと手桶を覗くと、濡らした手ぬぐいと竹筒が二つ、竹の皮包みがひとつ入っていた。小十郎が手ぬぐいを取り、空いた手を佐助に向ける。「土まみれだろう」 足を掴まれ草履を脱がされた佐助は、おとなしく小十郎に足の汚れを拭われた。「部屋の中のほうが、人目を気にせずゆっくりできるだろう」「そうだけど。自分で出来るよ」 そう言いつつ、佐助は小十郎のするにまかせた。彼の手は繊細に動き、佐助の足を丁寧に拭う。それが心地よくて、佐助は終わったときに少し残念な気持ちになった。「ほら、入れ」「うん」 小十郎の後ろについて彼の私室に入ると、ぴっちりと襖も障子も閉められた。この様子だと人払いもしてあるのだろうと、佐助は気を置くことなく過ごせるようにとの小十郎の配慮に感謝した。「疲れたんなら、甘い物がいいと思ってな」 竹の皮に包まれていたものは、草もちだった。勧められるままに手を伸ばした佐助は、竹筒の茶を飲みながら甘味を堪能し、ほうっと満足の息を吐いた。「で。何の用で来たんだ」「旦那にさ、帰ってきた時に、皆の働きに見合う休養の手配を頼まれたんだよね。それで、どんな生き物でも食べることと睡眠が大事だから、美味しいものを用意しておこうと思って」 なるほどと自分の茶を飲みつつ、小十郎がうなずく。「食事は体の基本だからな。それで、俺の育てた野菜がいいと思い付いたのか」 こっくりと顎を下げた佐助は、そのまま不安げに小十郎を見上げた。野山で過ごしていた時から、作物には収穫の時節があることを知っている。また小十郎が作っている作物は、自分たちが食べるためのもので、売りに出したり分け与えるために育てているわけではない。自分の欲しいだけの野菜を分けて貰えるかどうかが心配だった。「旦那の分だけでも、欲しいんだけど。もちろん、タダで貰おうなんて思って無いよ。ちゃんと礼として薬を持って来たんだ」 佐助は腰に下げていた大きな巾着を外し、小十郎に差し出した。「傷の軟膏と、腹下しの薬だよ」 前に小十郎がよく効くと褒めてくれたので、それを土産に持って来たのだ。「これに見合う分だけ、分けて欲しいんだけど」 巾着に手を伸ばした小十郎が中を確かめ、目を細めた。「これだけあるんなら、荷車一杯は用意しねぇとな」「ほんと!」 ぱっと顔を輝かせた佐助は、思わず腰を浮かせて膝を進めた。「荷車一杯も、もらっていいの」「と、言いたいところだが、すぐには用意が出来ねぇ。ハンパな野菜を送るつもりもねぇんでな」「そう、だよね」 しゅんと耳を垂らして、佐助は座りなおした。「そんなら、どのくらいなら用意できる?」「そんなに落ち込むんじゃねぇよ。すぐには用意が出来ねぇと言ったんだ。真田が帰ってくるのは、三日後なんだろう。なら、今夜は泊まって明日の朝から収穫を手伝ってくれ。一日しっかり働けば、十分な量が採れるだろう。ついでに、魚の干物なんかも持って行くといい。甲斐は山の国だからな。海のモンは手に入り辛いだろう」「いいの?」 思わぬ厚遇に、寝ていた佐助の耳がピンと立つ。「全部を持って帰るのは難しいだろうから、干物なんかは送る手配をしておいてやる。政宗様も、きっと快く了承してくださるだろう」 その一言に、佐助は下唇を突き出した。「そう嫌うな。政宗様が手配なされれば、良いものを手に入れられるってことぐらいは、わかってんだろう」「そうだけどさ。代わりにしっぽを触らせろとか、言ってくるだろ」「しっぽを触られるのは、嫌いか」「嫌いっていうか」 佐助はそっとしっぽに目を向けた。大好きな幸村がいつも大切に撫でてくれるそれは、佐助の自慢だ。いつでも触り心地が良いように毛づくろいをし、太陽の光りをいっぱいに浴びせて毛並みを整えている。それをグチャグチャにされるとなると嫌だと言えるが、困ったことに政宗は柘植の櫛で丁寧に根元からつやつやに整えてくれるのだ。初めてそれをされた時のここちよさと、仕上がりに目を輝かせた幸村の姿を思い出し、佐助は物憂げな息を吐いた。 答えあぐねていると、脇を掴まれ小十郎の膝に乗せられた。きょとんと見上げれば、穏やかな笑みがあった。「そう政宗様を嫌わなくともいいだろう」 佐助はむすっと口を尖らせ、小十郎から目をそらした。 大好きな旦那。真田幸村は伊達政宗と“らいばる”という関係らしい。彼らは嬉々として一合、二合と打ち合ううちに周囲を忘れ、意識の中に相手しか残さなくなる。その時の雄々しく楽しそうな幸村の姿は、毛が逆立つほどに格好良い。見惚れるほどに凛々しい幸村は、大好きだ。けれどそれを引き出しているのが自分では無い、というだけでなく、そうなった幸村の意識の中に、自分が存在していないことが寂しい。「片倉の旦那は、何とも思わないわけ」「うん?」「旦那のこと」 なんとなく小十郎の顔を見られなくて、佐助は自分の膝を眺めた。とんとんと思案の調子を取るように、小十郎の大きな手が佐助の背を軽く叩く。それが心地よくて、佐助は体の奥に潜んでいた疲れが表に浮かんでくるのを感じた。小十郎の広い胸に頭を預ければ、土の香りとぬくもり、鼓動が伝わってくる。(旦那) 今頃、幸村はどうしているのかと思う。いつも傍にいて、幸村のぬくもりと息吹を感じて眠っている。けれど昨夜はいなかった。佐助はひとりで寝床に入った。幸村と共に過ごす前の、ひとりぼっちだった頃のように、体を丸めて――。「自分と他人の役割は別だと思えば、いいんじゃねぇか」 寂しさに囚われかけた佐助の意識に、小十郎の声が染み込む。えっ、と顔を上げた佐助は、木漏れ日のような小十郎の笑みを見た。「誰も同じじゃねぇ。政宗様と真田が刃を交える姿が面白くねぇのかもしれないが、政宗様は狐のように薬を調合することも、真田の心を心底からほぐすことも出来ない。お前に向けられている笑顔は、政宗様には決して向けられることのねぇものだ。政宗様だけじゃねぇ。他の誰にも向けられることのねぇ、お前だけが引き出せる、お前だけのもんだ」「俺様だけの――」「ああ」 小十郎の言葉を噛み締めながら、子ぎつね佐助は自分の手に目を落とした。 小さな手。大好きな旦那が弁丸と呼ばれていた頃は自分のほうが大きかったのに、幸村となった彼の手は倍ほどの大きさになっている。 ――佐助は、佐助のままで良い。 同じ大きさになりたくて、術で大人の姿になったときに言われた幸村の声が、佐助の耳奥に蘇った。それはたぶん、さっき小十郎に言われた言葉と同じ意味を持つものだろう。「旦那」 ぽそりと零した佐助の背を、大きな手のひらがあやすように叩いている。その節に合わせて、佐助のしっぽが床を叩く。 眠りに誘うような、安堵をつたえてくる調子と土の香り、どっしりとしたぬくもりを感じながら、佐助は自分の気が解れ溶けていくにまかせた。 おいしい野菜と魚介類を使って、とびきり元気になれる御飯を用意し、幸村に「おかえり」と言おう。幸村の大好きなしっぽを、最高の手触りにしておくために、仕方が無いから政宗に毛づくろいされてやってもいいかもしれないと考えかけたところで、子ぎつね佐助は心地よい眠りの中へと引きこまれた。2015/05/16