メニュー日記拍手

子ぎつね佐助と夏の雪

 蝉の声があたりを覆っている。
 子ぎつね佐助は木陰にある石の上に寝そべっていた。自慢のしっぽをダラリと垂らし、けれど大きな耳は、ピンと立てている。それは蝉の叫びの幕を通して、大好きな旦那、真田幸村の声を聞くためだった。
 幸村はいま、道場で稽古をしている。こんなに蒸し暑いのによくやるよ、と佐助はしっぽを少し揺らした。
 大好きな旦那の傍にはいたいけど、道場は修練をしている人の熱気で、さらに暑さを増している。とてもじゃないが、いる気にはなれなかった。それに、佐助が狐の妖であることを、この屋敷にいる全員が知っているわけではない。耳としっぽを隠して熱気をガマンし、じっと修練している幸村をながめるよりも、まだ日にあたっていない、いくぶんか冷たい石の上で涼をとっているほうが、魅力的だった。
 これが、幸村がどこかへ出かける、というのなら話は別だが。
 佐助はつまらなさそうに、そっと息を吐いた。
 幸村は修行が好きだ。毎日かかさず槍を振るい、汗みずくになっている。そんな姿を見るのも、佐助は好きだった。が、こう連日、ムシムシとした湿気と熱気に包まれていると、少しくらい修行をサボって、自分と一緒に涼しい場所でのんびりと過ごしてもいいんじゃないかと思ってしまうのは、しかたのない事だろう。
「あ〜あ」
 退屈を音にして、佐助はひとつ、あくびをこぼした。そうしてウトウトとしていた耳が、幸村の雄々しい叫びが消えたのを捉えた。どうやら修行はひと段落ついたらしい。
 すぐに幸村のところに行きたいところだが、道場には男達の汗と熱気がムンムンしていることだろう。佐助は一度、それに包まれた道場に入って、こりている。空気の壁があるように、温度が違っていた。これが冬……とまではいかなくとも、涼しい季節ならば迷うことなく行っていた。いや、傍に控えていた。あのときの不快を思い出して、子ぎつね佐助は細い眉の間にシワをつくった。
 こちらから行かなくとも、幸村は佐助の居場所を知っている。ほてった体を井戸水で流し、体をぬぐう場所は、ここから見える。幸村のことは大好きで、常に傍にはいたいと思っているけども、屋敷の中にいるとわかっているのであれば、暑さから逃げるのを優先したくなる。
 佐助は、幸村の足音がこちらにくるのを待つことにした。
 しばらくして、幸村の気配が近付いてきた。佐助は首をのばして、幸村の姿を見つけた。満足そうな笑みを唇にたたえ、陽光に目を細めた幸村がもろ肌脱ぎとなり、頭から井戸水をかぶる。水の中に落ちたように、ずぶぬれになるまで繰り返した幸村が、しっとりとした茶色の髪を絞り、手ぬぐいで体を拭って着替えを済ませる。渇ききっていない、ひと房だけ長い後ろ髪が、ぴたりと背中に寄り添っている。
 きちんと拭かないと、と佐助は胸中でつぶやき、まあでもすぐに乾くよね、と思いなおして動かずにいた。
「待たせたな。佐助」
 幸村が木陰に隠れている佐助を、ひょいと覗いた。とびきりの笑顔に、佐助は飛び跳ねるように起きあがった。
 とびきりの笑顔、と言っても、幸村は特別な笑みを浮かべているわけではない。満面の、いつもどおりの屈託の無い、信頼を全面に出している笑みだった。
 毎日、幾度となく向けられる笑みに、子ぎつね佐助は慣れることなく、うれしさを受け止める。それは彼が山の中、たったひとりで生きてきた時間が、人間と妖との過ごす時間の長さの違いが、あるからだった。
 意識的にそう思っているわけではないが、子ぎつね佐助はいつも、何の隔てもない幸村の笑みを特別だと感じ、うれしさにしっぽを膨らませる。
 木陰に入った幸村が佐助の横に座った。
「ここはいつも、涼しくていいな」
「うん」
 だから旦那も、修行なんて暑苦しいことをしないで、ここで一緒に昼寝をしようよ、なんてことは思っても、口にはしない。武人という種類の人間は、戦うことが仕事だからだ。鍛錬を一日怠ると、それを取り戻すのに三日もかかるらしい。獣である佐助には、それがどういうことなのか、いまいち理解できないが、一日サボると三日分弱くなる、と解釈している。本当にそんな事がと疑うのだが、どの人間もそろって信じているのだから、獣と人は違うのだろう。
 幸村の強さは並大抵のものではないが、それでも彼と同等の力量を持つ相手がいることを、戦働きをしたことのある佐助は知っている。幸村が敬愛しているお館様こと武田信玄や、幸村が好敵手と呼んでいる、隻眼の伊達政宗という男をはじめ、強い旦那の槍を受け止め、打ち返す力量の人間を見た事がある。ほんのわずかでも遅れをとれば、幸村が大怪我をしかねない相手がいる。そんなことになりそうなら、佐助は迷わず飛び出して助太刀をするが、万が一にもそういう状況にならないほうが望ましい。何より、旦那は強くなることが好きなのだ。
 自分の望みと幸村の好きなことを比べれば、大好きな幸村の邪魔はしたくない。佐助はそっと、誘いの言葉を吐息に変えた。
 そんなこととは気付かぬ幸村が、軽く佐助の髪を叩く。ぽふんとやわらかな音がしそうな動きに、佐助は目を細めた。幸村はそのまま、ぐりぐりと佐助を撫でた。
「へへっ」
 うれしさと照れくささで、佐助は鼻を鳴らした。幸村も笑みを深め、ひょいと佐助を抱き上げて膝に乗せる。生きた年月は佐助のほうが長いのだが、見た目は幸村が青年、佐助は少年だ。そして佐助の心も、姿同様、幼かった。
 佐助は幸村の膝の上におとなしくおさまり、大きな耳やふさふさのしっぽを撫でられて、心地よく目を閉じる。暑いのは苦手だが、幸村のぬくもりは別だ。
 幸村はひとしきり佐助を撫でてから、さてと立ち上がった。
「行くぞ、佐助」
 佐助はきょとんと小首をかしげた。
「とびきりの場所に、案内してやる」
 いたずらっぽく、幸村が歯を見せた。そういう幸村の顔は珍しい。佐助は疑問を浮かべながらも、こっくりとうなずいた。

 幸村と共に、子ぎつね佐助は山の中に入った。屋敷の中よりも、木々が生い茂り光が遮られている場所は、ずっと涼しい。人いきれは暑さを増すのに、草木の息は気温を静かにおちつかせる。土も苔も、ひんやりとした気配を少しずつ、熱される空気に注いで暑さを緩和させていた。
 佐助はずんずんと迷い無く進む幸村を見上げた。とびきりの場所というのは、どういう所なのだろう。この先に、素敵な泉でもあるのだろうか。けれど幸村は、佐助が水浴びをあまり好きではないと知っている。自慢のしっぽや耳が濡れるのを、嫌っているとわかっている。涼しい場所、というだけならば、山の中に入った時点で十分だ。景色がすばらしい所にでも、連れて行ってくれるのか。
 いろいろと考えながら、佐助は問わずに幸村に従った。きっと佐助は驚くぞ、と幸村の顔に書いてある。大好きな旦那の、そんな気持ちに水をさしたくない。
 しばらく山道を登っていくと、ぽっかりと山肌に口をあけた洞窟にたどりついた。
「この奥だ」
 幸村が自慢げに佐助を見下ろす。佐助は洞窟をのぞいた。真っ暗な奥に、ちらりと光るものが見える。あれはきっとヒカリゴケだろう。幸村はそれを見せようとしているのだろうか。
「入れ。暗いから、足元に気をつけるのだぞ、佐助」
「俺様、狐だぜ? 人間の旦那より、ずっと夜目は利くよ」
「ああ、そうか。ならば、俺の足元になにかあれば、知らせてくれ」
「もちろん」
 ここから先は一本道だと知って、佐助は幸村の前に立った。目を文字通り光らせて、幸村の足をつまずかせるものが無いか、気を配りながら歩く。その後ろを、危うげな警戒など少しも見せずに、勝手知ったる足取りで幸村が続いた。どうやら幸村は、ここに幾度も足を運んでいるらしい。ほとんど一緒に過ごしているのに、自分の知らない場所が、この甲斐の国内にあることが、佐助には驚きだった。幸村はいつの間に、こんなところを見つけたのだろう。
 すぐにヒカリゴケの群生地にたどりついた。ぼうっと淡く輝く洞窟内の様子は幻想的だが、見せたいものはまだ奥だと幸村は言う。いったい何があるのだろうと、佐助はさらに奥を目指した。
 山の中よりもひんやりとしている空気が、いっそう冷たくなってきた。秋のはじまりのようだと思いつつ進むと、肌寒さが強くなる。どういうことかといぶかる佐助の前に、冷気の正体が現れた。
「うわ……え? なんで」
「どうだ、佐助。すごいだろう」
 幸村が得意そうに胸をそらして、両手を広げる。佐助の目の前には、夏には存在しないはずの、真っ白くて冷たいもの――雪が、山と積まれていた。
 ぽかんとする佐助に、幸村はしてやったりと腰に手を当てる。
「佐助は暑さがとくに苦手なようだからな。冬の間にここを見つけ、雪を運んでおいたのだ。ここならば、夏でも雪が残るだろうと思うてな」
 目論見は成功したと、幸村が自慢げに鼻を鳴らした。
「寒すぎるのもよくないが、暑くてたまらぬときは、ここに来て休めばよい。俺と佐助しか知らぬ場所だ」
 佐助は驚き過ぎて、何と返事をしていいのかわからなかった。
 幸村が自分のためを思って、雪を夏まで保存してくれていた。身の丈を越すほどに雪が積もる冬に、誰にも知られぬよう山へ入って、佐助のために雪を運び入れてくれた。それはとても危険な行為で、そんな危ないことをしないでと怒ってもいいくらいだ。けれど佐助はそれよりも、冬の幸村が、夏の佐助を考えて行動をしてくれたことが、この上もなくうれしかった。未来を共に過ごすことに、何の疑いも持たずにいてくれたことが、身震いするほどありがたかった。
「旦那ぁ」
 意識せず、甘えた声が出た。
「うれしいか、佐助」
 うれしいと言えば涙がこぼれてしまいそうで、佐助は無言でうなずき、喜びをかみしめた。そうかそうかと幸村が満面をほころばせる。太陽よりも眩しいそれに、佐助は目を細めた。
「冬になればまた、ここに雪を集めておくからな。これからの夏は、幾分か過ごしやすくなるぞ、佐助」
 未来の約束に体中をふくらませ、佐助は喜びをぶつけたくて、幸村の足にしがみついた。
「うん。――うん、旦那。来年も、こうして一緒に夏の雪を見ようね」
「ああ。来年も、再来年も、その先もこうして、佐助を涼ませてやる」
 力強い約束に、佐助の鼻がツンとなった。それにいっこう気づく様子もない幸村の、気負いのない姿は、佐助の喜びの深さを知らぬと言っている。
「旦那」
 呼べば、にっこりと全幅の信頼と、てらいのない優しさが佐助に向けられた。佐助は照れながら笑み返し、ずっとずっと旦那と一緒にいられますようにと、真夏の雪に願いを述べた。

2015/07/21



メニュー日記拍手
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送