子ぎつね佐助は、大カラスの足につかまり、まぶしそうに目を細めながら目的地の方角を見つめていた。(はやく、はやく!) 心の中で唱えてみるが、大カラスの速度は変わらない。気持ちばかりが急いてしまうが、焦りよりも期待のほうが大きかった。(旦那をビックリさせてやるんだ) ふっくらとした幼さを残す頬が持ち上がっている。子ぎつね佐助は夏の始まりを思わせる陽光に包まれて、心を弾ませていた。 今朝、人間の子どものふりをして旦那こと真田幸村の屋敷で働いていると、こんな会話が聞こえてきた。「やぁ、暑い。田植えを終えると、冷たい水をグッと飲みたくなる」「湧き水よりもずっと冷たいものが欲しくなるなぁ」「氷を砕いて口にいれられたら、いい気分になれるだろうに」「こんな時期に、氷があるわけがないだろう」「それが、あるんだよ」「えっ」「天子様に献上をするために、冬の間に雪を蔵に固めて氷にしているんだ。暑い中、天子様やその周囲の方々に振る舞われるらしいぞ」 夏の初めに氷を手に入れられると知って、子ぎつね佐助は会話の中に飛び込んだ。「今の話、もっと詳しく教えてくんない?」 氷室の話をしていた男は、冬の間に上質の雪を蔵に集めて押し固め、氷にして夏まで保管するのだが、どんな雪でもいいわけではない等と教えてくれた。男の親戚に氷室の雪詰めをしたことのあるものがいるそうで、聞いた話と言いながら、当人が参加したような口ぶりで語ってくれた。しかし――「で、その氷室はどこにあるのさ」 氷を砕いて、旦那の好きな白玉にかけ、甘葛の汁をかければきっと喜んでくれるはずと、子ぎつね佐助はわくわくしながら質問をしたのだが、男は急に歯切れが悪くなった。「ん? ううん……どこだったかな。よく覚えていないが……まあ、奥州あたりなら、あるんじゃないか」 奥州と聞いて、子ぎつね佐助は顔をしかめた。あそこには旦那の好敵手である伊達政宗がいる。旦那は彼と対峙をすると、周囲を忘れてしまうほど熱中するので、子ぎつね佐助は政宗が嫌いだった。(けど、旦那が喜んでくれるなら) ちょっと氷をわけてもらいに行ってもいいだろう。伊達政宗に頼まなくとも、彼の右目とも称される腹心の片倉小十郎に言えばいい。(うん。そうしよう) そうと決まればさっそくと、子ぎつね佐助は山の中に身を隠し、ふかふかのしっぽを揺らして大カラスを呼んだのだった。 見たことのある地形が視界に入り、人目につかないように木々の中に降りた子ぎつね佐助は、そっと里の様子をうかがった。片倉小十郎は変わった男で、作物を育てることが大好きな侍だった。城や屋敷に行くと政宗に会う確率は高くなるが、田畑のあたりで小十郎を探せば、彼ひとりに話をすることができる。彼の作る野菜は絶品で、氷だけでなく野菜も分けてもらえたらと考えつつ、目的の人物の姿を探した。 子ぎつね佐助の予測通り、小十郎は田んぼのあぜ道にいた。里の男となにやら楽し気に会話をしている。小走りに駆け寄ると、子ぎつね佐助が声をかけるより先に、小十郎が気づいた。「どうした、猿飛。主の使いか?」 子ぎつね佐助は、幸村に仕えるために、猿飛佐助と名乗っていた。精悍な顔を柔和にほころばせた小十郎に、こくりとうなずく。「ちょっと片倉の旦那に頼みがあってさ」「頼み?」 知将でもあり猛者でもある小十郎は、端正な顔立ちを怪訝にゆがめて、佐助と目の高さを合わせた。「頼みとは、珍しいな」 言いながら、小十郎は横目で里の男を見た。察した男は一礼をして場を離れる。どうやら重要で内密な話だと、小十郎と里の男は思ったらしい。 男が充分に離れてから、佐助は口を開いた。「氷を分けてほしいんだよね」「氷?」「氷室ってのが、あるんだろ?」 佐助は手短に、ここに来た経緯を語った。なるほどとうなずいた小十郎が、ひょいと佐助を抱き上げる。「俺ひとりの判断で、氷を分けるわけにはいかねぇな。政宗様に伺いに行く」「げっ」 結局はそうなるのかと、心底イヤそうにした佐助に小十郎は苦笑した。 小十郎に抱えられたまま屋敷に連れていかれた佐助は、庭に面した部屋に通された。小十郎は水浴びをして田の土を落としてくると去ってしまった。 ひとり待たされる佐助は、空を見て時刻を計った。できるなら八つ刻に間に合うように帰りたい。 ほどなく襖が開き、部屋の奥から着流し姿の政宗が小十郎と共に現れた。秀麗な顔立ちに右目の眼帯が凄みを与えている。佐助はピンと背筋を伸ばし、いらだちを示すようにしっぽでパタパタと床を叩いた。「氷が欲しいそうだな?」 子ぎつね佐助の前にあぐらをかいた政宗が、ニヤリとする。「あるんだろ?」 奥州を統べている政宗に、生意気な物言いをする佐助を、当人も小十郎もとがめない。「Why? あいつが熱でも出したのか?」「旦那はピンピンしてるよ」「じゃあ、なんだ」「氷を砕いて、食べさせたいんだよ」 フンッと生意気に鼻を鳴らして佐助が告げると、政宗はちょっと眉を持ち上げた。「政宗様」 背後に控えていた小十郎が膝を進め、なにやら政宗に耳打ちをする。聞き終えた政宗は「all right」とつぶやき、口の端を片方だけ持ち上げた。「この季節の氷は貴重なものだと、アンタもわかってんだろう?」「タダじゃ渡せないってことだよね」「そういうこった」「何をすればいいのさ?」 旦那の笑顔を思い出し、佐助は腹にグッと力を入れた。「そのしっぽ、しばらく俺に撫でさせな。むろん、小十郎にもだ」 ぶわっとしっぽをふくらませた佐助は、拒絶の言葉を呑み込んで承知した。 菰にくるまれた氷を背負って、子ぎつね佐助は帰路を飛ぶ大カラスの足にぶらさがっていた。耳としっぽの毛並みが、つやつやしている。氷をもらう代わりに、政宗と小十郎に耳やしっぽを撫でられた佐助は、帰り際に上等な柘植の櫛で毛づくろいをされた。小十郎はともかく、政宗に撫でられるのは不本意だったがしかたない。なにより、腹の底がムカムカするのは、政宗のことは嫌いなのに、彼は撫でるのがうまいということだった。(ま、旦那にはおよばないけど) うっかりウトウトしかけた自分に言い訳しつつ、佐助はなじんだ屋敷の庭に降り立った。 大カラスの姿が見えていたのか、幸村がすぐに現れる。「おお、佐助。帰ったか。どこに行っていた?」 にこにこと満面に笑みを広げる幸村は、おてんとうさまみたいだった。あたたかくてあかるくて、佐助はいつも彼の笑顔を見ると心がホッコリとする。「旦那に、いいものを食べさせてやろうと思ってさ」 背中の菰を縁側に置いて、胸を張る。「奥州から持ってきたんだ」 包みを開けると、幸村は目を丸くした。とび色の瞳がキラキラと輝いている。 しかし、ふふんと得意になった佐助は、すぐに気分をしぼませることになった。「政宗殿は、息災になされておいでか」「元気だったよ」 氷よりもそちらを先に気にするのかと、不服を浮かべる佐助に幸村の両手が伸びてくる。「遠くまで、ご苦労だったな。佐助」 抱き上げられ、しっぽをなでられても不満は消えない。「俺も、佐助によいものを見せたくて待っていたのだ」「いいもの?」「うむっ」 片手で佐助を抱いたまま、もう片方の手で氷を持った幸村が向かった先は、厨だった。水に漬けられた団子が昼の日差しを受けて、ふっくらと輝いている。「溶ける前に、佐助が戻ってよかった」 どういうことかと問うより先に、佐助の目にはまな板に載せられた氷が映っていた。ポカンとする佐助に、幸村がうれしげに言う。「氷に興味を示していたと聞いてな。暑いのは苦手であろう? それゆえ、お館様に氷室の氷をすこしばかり、わけていただいたのだ」「ここにも、氷室はあったんだ」 つぶやく佐助に、少し遠い場所にあるがなと幸村は答える。「じゃあ、俺様の苦労って」「これだけあれば、屋敷の皆にも振る舞える。貴重なものゆえ、俺たちだけで楽しむのも忍びないと考えていたところだ。助かったぞ、佐助。ご苦労だったな」 まぶしいほどの笑みを浮かべてねぎらわれ、子ぎつね佐助の口元はムニュムニュ動いた。「まあ、俺様たちだけで貴重なものを食べるっていうのも、気が引けるしね」「うむ。これから暑くなっていくからな。その前に英気を養うのに、最適だ」 にやける顔をごまかしたくて、うつむいた佐助のしっぽは正直に、大きく左右に揺れていた。 2020/06/07