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安堵の策略

 文机に向かっていた毛利元就は、鼻先に潮の香りを感じて顔を上げた。
 そのまま香りに導かれるように立ち上がり、室内を満たす白光の中を滑るような足取りで横切る。障子に手をかけ開いてみると、空は分厚く真っ白な雲に覆われていた。陽光を含んだ雲は日に照らされた雪のように白く輝き、地上を照らしている。
 元就は形の良い眉をひそめた。
 白い雲の先。
 海上にある部分が濁った色をしている。雨の気配に、潮の香りが膨らんだらしい。元就は潮の香りの正体を見つけても文机には戻らず、縁側に足を踏み出した。
 足早に屋敷内を行く元就とすれ違う者は、皆が驚いた顔の後に慌てて顔を伏せて挨拶とし、せわしない様子でたなびく元就の衣の袖や裾に、けげんな顔を向けた。
 元就が急いでいることが不思議であるのに、それを問おうという気にならないほど、元就は険しい顔をしていた。
 元就はそのまま屋敷の外に出た。
 これといって目的があるわけではなく、ただ苛立ちのままに、それを振り払おうと足を動かしている。
 安芸を統べる男が一人、軽装で外出をするなど、少し前までは考えられぬ行動だった。けれど今は、徳川家康という男が天下を統一し、一応の戦乱は終結している。今は長く続いた戦禍の傷痕を癒し、この国を豊かにするために、皆、忙しい。それに、元就は女人と間違うほどの白い肌と華奢な容姿をしているが、武人としての力量は申し分ない。西海の鬼と呼ばれる偉丈夫、長曾我部元親と互角に渡り合えるほどの武将である。万が一、襲われたとしても相手が大怪我をすることになるだろう。
 長曾我部元親。
 海の男らしく、隆々とした筋骨を誇る、白銀の髪をした男の屈託のない笑みを思い出し、元就は鼻の頭にシワを寄せた。
 元就と並べば、大人と子どもほども違う、とまでは言いすぎだが、それに近い立派な体躯の差を持つ元親は、童子のような屈託のない笑みを浮かべる。イタズラ小僧が遊び仲間を見つけた時に似た笑みを浮かべ、歯をむき出して自分の名を呼ぶ元親を、元就は鼻先であしらいつつも気に掛けていた。
 それは彼が、瀬戸内海を隔てた先、四国を統べていたからだ。安芸を守るため、元就は海賊のような元親と幾度も刃を交え、知略を駆使し陥落しようとしてきた。けれど決着は付かぬまま、日ノ本は泰平へと導かれ、二人の争いも終結を迎えた。
 それを不足としている、と言えばそうかもしれないが、元就の目的は彼を倒すことではなく、安芸の安寧。自国が脅かされることの無くなった今は、海賊風情と見下してきた元親を気にする必要など無い。……はずだ。
 それなのに元就は、何かあると元親のことを思い出す。潮の香りもそうだ。あの男はいつも、海の香りをまとって現れる。
 元就の足は、海を見渡せる崖の上へと進んだ。松の巨木が一本、海に突き出すようにして生えている。その脇で立ち止まった元就は、雨が降り出したらしい海の先を見つめた。
 あの雨雲は、風に乗ってこちらにやってくるだろう。
 それがわかっていながら、元就は潮風に髪を遊ばせていた。
 戦の策略を考える時間を、安芸の繁栄のためだけに使える。
 それはとても喜ばしいことのはずなのに、元就の内側でくすぶっているものがあった。決して血なまぐさいものを求めているわけではない。作戦を遂行するために、いくらでも無常な決断をしてきた元就だが、血を好んでいるわけではなかった。それなのに、身の内に不足がある。
 不足に気付きだした頃は、長く戦に身を置いていた影響で、意識が慣れぬのだろうと考えた。大きな戦は終わったが、戦が終わったことで、働き先を失った、あるいは戦の最中に略奪の味を覚え、それに魅了されてしまった者達が各地で面倒事を引き起こしている。それを平定するための知略などは、たかが知れている。大局を動かすほどの采配を振るう機会が無くなったことで、物足りなく感じているのだろう。
 そう結論付けていた元就が、いよいよ強く不足を感じるようになったのは、争う必要の無くなった四国と安芸が交易を始め、それが軌道に乗った後だった。
 命のやり取りをしていた、憎むべき相手であるはずなのに、元親はまるで旧友にでも会うような調子で元就に接した。それを元就はうっとうしいと思っていた。安芸と四国の交易が安定し、元親が安心して四国を空け、海外に進出できると踏んで出航したときは、わずらわしい者がいなくなり、せいせいしたと思っていた。
 それなのに、その後に元就が感じたものは、不足だった。
 あれほど五月蝿い者がいきなり消えたので、調子が狂っているだけだろう。しばらくすれば気にならなくなる。
 そう思っていたが、不足は減るどころか、空虚となって元就の内側に居座った。
 いつもいつも、その不足を抱えているわけではない。ふとした瞬間に、それは元就の内側から湧き上がり、苛立たせる。
 ずっと一人で生きてきた。
 周囲に多くの人間はいるが、魂は常に一人でここまで来た。
 それなのに、元就は寂しさに似たものを感じている。誰にでもすぐ心を開き、親しげに接する人好きな鬼の影響を、知らぬ間に受けていたらしい。
 それが酷くわずらわしく、腹立たしい。
 この国を“絆”の力で統べると言っている家康が、元就の心情の変化を知れば、元親との絆がどうのと下らない持論を、満面の笑みを浮かべて披露するだろう。
 全くもって迷惑で面倒なことだ。
 元就は、自分も人の子であったかと、苦々しく口の端を持ち上げた。
 家康の主張する“絆”というものが、じわりじわりと広まっている。世の中に蔓延する甘く青くさい主張に、知らぬうちに感化されていたらしい。
 本当に、迷惑極まりない。
 あの男がいないことで、張り合いが無いと感じるなど。
 体内にまで梅雨空が広がっているようだ。
 元就は目を細め、近付いてくる雨足を眺めた。
 そろそろ屋敷に戻らなければ、雨がここまで来るだろう。
 元就は踵を返し、来た時とは間逆の、ゆったりとした足取りで屋敷へ向かう。
 あの男が出航したのは、一昨年の春。どこまで行く気かは知らないが、帰ってくるのはまだまだ先だろう。
 あの男の帰る余地の無いほど、四国と安芸の結びつきを強くしておいてやろう。刃を交えることだけが戦では無い。あの男との決着はついていないままだ。じわじわとあの男の居場所を無くし、四国を経済の面において事実上の支配下に組み込むのも悪くない。
 元就は、どうして今まで、そんな簡単なことを思いつかなかったのかと、自分に呆れた。
 安芸にいても、他国を支配し操作することはできる。その為には国力を増加し、どこよりも豊かな国とするのが先決。
 ――長旅から戻ってきた貴様に、居場所なぞ無い。長曾我部よ。我が手で、貴様が守り平穏な生活を与えようとした者どもに安泰を与えてやろう。四国の民は、我を崇め心酔するであろう。貴様のことなど、忘れ去るほどにな。
 呆然と悔しがる元親の姿を思い浮かべ、元就は唇を弓なりにしならせた。
 この日ノ本のうちで、一番住み心地よく豊かな土地は安芸と知らしめ、諸国の民の羨望を一身に集めて支配してくれようぞ。

2015/06/17



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