筆を置いた片倉小十郎が、ふと窓の外に目を向けた。うららかな陽光に目を細め、文机の上にある、墨も黒々とした力強い文字が躍る紙に目を向ける。墨が渇くまでは、まだ間がある。誰に見られて困るものでもなし、このまま渇くに任せて置けば良いだろうと、小十郎は腰を上げた。 今の彼は、簡素な着流し姿である。櫛目がわかるほどに、きっちりと後ろに撫でつけられた髪がほつれていないかを指で確認し、袴を手に取り身に着けた。障子を開けて太陽の位置を確認し、廊下を進む。しばらく行くと、向こうからやってくる人影が見えた。 懐手に、ぶらぶらとした足取りで近付いて来る相手も、小十郎に気がつく。足を止めて、にやりと片頬だけを持ち上げて微笑んだ彼に、小十郎は歩み寄った。「政宗様」「おう」 奥州を統べる竜、伊達政宗が小十郎の頭から足先までを確認する。「野良仕事じゃあ無ぇみてぇだが。どこかに用事か?」「野良仕事ではありませんが、畑へ参るところでした。政宗様、何か私に御用でもおありでしたか」 ふうむ、と懐から出した腕を組んだ政宗が、いたずらっぽく目を眇めた。失った右目のぶんを補うように、彼の左目は小十郎の前ではよくしゃべる。自分が畑へ行く理由を主が察したと知り、小十郎も笑みを浮かべた。「ヒマなんで、付き合えと言いに来たんだが……そういう用事なら、仕方が無ぇな。畑を荒らす大きな獣の様子を、しっかり見て来いよ」「は。申しわけ有りません」「Don't mind me. なら、俺は遠駆けでもしてくるか」「あまり遠くに行かれますな」「わかってるよ」 ひらりと手を振って、来た道を戻る政宗の背に軽く息を吹き掛け、小十郎も目的の場所へと足を向けた。 片倉小十郎の畑には、めったに人が寄りつかない。小十郎が畑の世話が出来ないときにのみ、頼まれた農夫が世話をしに来る以外は、世話から収穫まで全てを、小十郎が行っている。彼の畑は屋敷に近く、ゆえに里の者らの畑からは遠い。あぜ道の横は木々が群がる深い山の森となっており、秋頃になると飢えた獣が現れることもある。 が、近頃現れる飢えた獣は、今までの獣とは勝手が違っていた。まず、足跡がおかしい。ひづめでもなければ、肉球でもない。作物もかじりかけは無く、きれいに付け根からもぎ取られている。どう考えても、人の仕業であった。足跡の大きさからすれば、子どもか体の小さな者か。 小十郎は、畑を荒らされた事を気にしているわけではない。彼の畑に足を踏み入れる相手に、興味があった。小十郎の畑の作物は、もともとが領内の者らの腹をくちくするためではない。むろん、その理由も無いとは言えないが、彼の畑の場合は趣味と実益を兼ねた、どうすればより良い作物が育つかの、実験場のようなものであった。ゆえに、少々盗まれたとしても、痛手は無い。飢饉の折ならば話は違ってくるが、今年は豊作とは行かないまでも、民が飢えるような不作の年ではなかった。 袴の端を持ち上げ、腰帯にねじこんだ小十郎は、畑の中に足を踏み入れ、収穫を待つ作物を見て回る。自分のものではない足跡に目を留めてしゃがみ、その傍の作物がいくつか消えていることに目を細め、周囲を見回す。そして再び歩き出した小十郎を、あぜ道の奥の森から見つめている者があった。 大木の影にやすやすと隠れる事の出来る体躯の彼は、まだ子どもであった。彼の視界に、小十郎が畑を一周し確認し終え、しばらく全体を眺めた後に歩き去る姿が映る。その後姿が消えてから、少年は森の奥へと走った。 しばらく行けば、枯れ枝を低木の上に重ねて作った不恰好な小屋とも呼べぬものが見えてくる。少年はそこに入り、小十郎の畑から手に入れた野菜をかじった。 はちきれんばかりに育ったそれは、みずみずしく噛むたびに甘味がにじみ出てくる。これほどに旨い野菜を、彼は食べた事が無かった。侍は、こんなに旨い野菜を独り占めしているのかと、初めて食べた時に彼は目玉がこぼれそうになるほど、驚いた。自分たちが汗水たらして育てた野菜よりも、うんと旨い。こんなに旨いものを食べているから、侍は強いのだと彼は思った。ならば、自分もこれを食べ続ければ、きっと強くなれるはずだ。村を襲った侍のように、強くなれるはずだ。 山向こうの村に住んでいた彼は、山にキノコを取りに出かけていたので、命が助かった。村の方から妙な音が聞こえてきたなと、戻りかけたところで火をかけられた家や、逃げ惑い斬り殺される村人らの姿を見た。恐ろしくて足が震え、彼の内側にあった生存本能が逃げろと命じるままに、山の中を走った。 無我夢中で走り続け、気がつけばこの畑の近くに出ていた。衣服は逃げるときに枝に引っ掛けボロボロで、草履はとうに脱げていた。彼が正気に戻り落ち着いた頃に残っていたのは、小刀だけだった。 川の音に耳を傾け、とりあえず喉を潤わせた彼は、畑の作物を見る小十郎を見た。侍が畑を見ているのは、年貢の取立ての検分だからだろうと、彼は思った。けれどその侍は、翌日には野良着で現れ農夫と同じ事をした。 侍が、畑仕事をしている。 目の前の事が信じられずに、彼は森の中から畑に来る侍の様子を眺めた。よく似ているだけの別人かと思ったが、野良着で現れるときも、腰に大小を差して現れるときも、その侍は同じ顔で野菜を慈しんでいたので、同一人物だと断定した。 侍の世話している畑。 それは彼の認識の外にある光景だった。空腹に耐えかねた彼は、宵闇にそっと畑に出て、つやつやと月光に輝く作物を手に取り、かじりついた。その瞬間の衝撃は、今も鮮やかに思い出される。いや、こうして盗んできた作物をかじるたびに、その驚きは上塗りされていく。 きっとあの畑は、うんとえらい侍のためのものなんだ。だから、侍が世話をしているんだ。 彼は、そう判断をした。その瞬間、彼の中にむくむくと小さな復讐心が湧きおこった。 盗んでやれ。 どうせ、村人から搾取をして威張り散らしているだけの連中なんだ。おれ一人ぐらいが盗んだところで、痛くも痒くも無いに違いない。けれど、盗まれたという屈辱感は、味わうはずだ。だってアイツらは、平気で何もかもを盗むくせに、ほんのちょっぴりのものでも失うと、激昂をするんだから。 彼はそれから、腹が減るたびに小十郎の畑から作物を盗んだ。唯一残った小刀を使って、雨風をしのげる住まいも作った。近くには川もある。飲み水には困らない。冬が来る前に色々と蓄えられるものを集めて、寒さをしのげる場所を作らなければならない。雪に閉ざされる前に、食料を確保しておかなければならない。だから、山で手に入れたものはすべて、簡易の住まいの中に溜め込んでいる。蔓を集めて編んで作った籠の中に、集めている。日々の食料は、小十郎の畑で手に入れたものだった。時折は川の魚も食べている。 あとは、雪が降る前に暖かく過ごせる場所を見つけること。 小十郎の畑から取ってきたものを食べ終えると、彼はすぐに冬のための食料集めと、住まい探しを始めた。 村がどうなったのかを、戻って確認する勇気は無かった。 小十郎の畑から作物が少しずつ減る日が始まってから、もうすぐ一月半になる。その頃にあった出来事と言えば、山向こうの村に山賊が現れたことしか思い浮かばない。冬になれば、雪深いここは閉ざされた地となる。そうなる前に村を襲い、冬を越すために必要な物を、山賊は手に入れようとしたのだろう。村は焼き払われ、めぼしいものは何も残っていなかったと聞く。生きている者は残っていなかったが、遺体の中に若い娘や子どもがいなかったところを見ると、どこかに売りに行ったと考えられる。そう思って探らせているが、今の所は何も網に引っかかってこない。 ふう、と息を吐き出して、小十郎は畑の土に残る足跡を見つめた。この小さな足跡は、きっとその村から逃げおおせた者なのだろう。山伝いに逃げて、この場所に出てきた。助けを求めに姿を現さないのは、よほど恐ろしい目にあったからか、警戒をしているからか。(俺が畑の世話をしている所を、見たのかもしれねぇな。) もしそうであれば、警戒をして出てこないのも、頷ける。畑に来る時に、大小を差した姿の場合もある。恐ろしい体験をしたのなら、刀を帯びている人間がうろついている場所に、おいそれと姿を現さないだろう。 刀を帯びている人間は、皆同じだと思っている者もいる。山賊であろうとも、侍であろうとも、戦のたびに踏みにじられる民にとっては変わらないのだろう。 物憂く呆けた息が、小十郎の唇から漏れた。どれほど違うと言っても、彼らにとっては略奪をする人間と、自分は同じに見えるのだ。そうではないと目の当たりにしなければ、信用をされない。(しかし――) 小十郎は、遠く薄い空を見上げた。 その村の生き残りは、これから急速に冬へと向かう山の中に、この先も居続けるつもりなのだろうか。 温石を抱えて、小十郎は主の臥所へと向かっていた。日が落ちてからの冷え込みが、冬のそれと変わらなくなってきている。お体に万一の事があってはと用意をしたそれは、抱える小十郎の手と胸を心地よく温めていた。「政宗様」「Ah」 すらりと襖を開ければ、政宗が月を眺めながら手酌で酒を舐めていた。「そのようなお姿では、風邪を召されます」 眉間にしわを寄せた小十郎に、長着に薄い羽織を纏っただけの政宗が手のひらを見せた。「It does not matter. 風邪を引かねぇように、持ってきたんだろう」 早くよこせと指を動かす政宗に苦笑し、小十郎が懐に抱えていた温石を差し出した。それを受け取り抱えた政宗の目じりが、ほわりと穏やかにゆるむ。それに、小十郎の口の端がほころんだ。「で、どうなったんだ」「どう、とは」「決まってんだろ。畑を荒らす獣は、捕まえたのか? 捕まえてたら、俺に報告するはずだよな。どうすんだ」 政宗の左目が、月光にきらめく。何かをたくらんでいるような、楽しむような瞳を真っ直ぐに見つめて、小十郎は嘆息した。「このままじゃ、雪山でのたれ死んじまうだろう」 そう呟いた政宗の声は、わずかに弾んでいた。「何か、お考えがあるようですな」 やれやれという言葉が聞こえそうな小十郎の吐息に、政宗が歯を見せて唇を歪める。「悪さをする獣は、捕まえねぇとな」「いかになさるおつもりですか」「そうだなぁ」 腕を組んだ政宗が、月を見上げる。「俺とお前で、山狩りでもするか」 そう言いながら振り向いた政宗の頬に、剣呑な悪戯が漂っていた。 畑を世話する侍が現れる時間帯は、だいたい決まっている。太陽の位置を確認した彼は、そっと周囲をうかがった。人の気配は、欠片も無い。木の間を抜け出して、彼は足を忍ばせて畑へ踏み込んだ。熟れた作物に手を伸ばし、小刀で切り取り懐に入れる。もう二・三個収穫をして戻ろう。 二つ目に手を伸ばした彼の背後に、いきなり気配が現れた。はっとして背後を振り向き、振り返りきる前に何かをかぶせられて視界が遮られる。「っ、くそっ」「暴れるんじゃねぇ!」 凄みのある一喝に、体がこわばる。反射的に抵抗を止めた自分に、彼は舌打ちをした。手触りから、どうやら麻袋に詰められたようだとわかった。持ち上げられ、下唇を噛む。これから拷問にかけられるか、売られるかになるのだろう。その前に一矢報いてやろうと、彼は小刀を握りしめて唇を真一文字に引き結んだ。「ああ、そうだった」 どさりと地面に下ろされて、あやうく小刀を自分に刺してしまいそうになった。光が差し込んできたかと思えば、袋の中を誰かが覗きこんでいて、見ればあの畑の世話をする侍――小十郎が眉間にしわを寄せていた。「そんな物騒なモンを、両手で握ってんじゃねぇ」「あっ」 袋の中に手を入れて、小十郎はあっさりと少年の手から小刀を取り上げてしまった。袋の中の子どもを眺める小十郎に、少年は怯えながらも精一杯の強がりで睨む。ふっと空気を和らげた小十郎は少年を袋から出して、肩に担いだ。「暴れるんじゃねぇぞ」 そう言って、小十郎はすたすたと森の中に入る。担がれた少年は、体中を硬くして運ばれるままになっていた。諦めたのではなく、彼の視線は小十郎の腰にある大小に注がれていた。隙を見てそれを奪い、一矢報いるつもりであるらしい。 そんな彼の様子に気付かぬ小十郎ではない。ほんのりと口の端に笑みを浮かべて、慣れた足取りで木々の間を進んでいく。その足が向かう先に気付き、少年は息を呑んだ。担がれて流れていく景色は、間違いなく自分が作った仮の住まいに向かう道のりだ。そこまで突き止めていられたのかと、少年は悔しさに歯噛みした。溜め込んだ食料も、この侍は奪うつもりに違いない。そうして自分は殺されるか、売られるかするのだろう。 そうなってたまるかと、少年は目に力を込めて小十郎の刀を見た。「I cannot wait for you. そいつが、そうか」 妙な言葉が聞こえて、少年は目を丸くした。この侍の仲間は、異国民なのか。驚きと共に首を巡らせようとすれば、肩から下ろされた。目の前に、隻眼の不敵な笑みを浮かべた男が立っている。涼やかで剣呑なその姿に、呆けたように少年の目は吸い込まれた。ゆったりと腕を組んで自分を見下ろしてくる相手が何か、ひどく大きなもののように感じられた。「ずいぶんと、溜め込んだもんだな」 揶揄の響きのある声に、少年はハッとして相手を睨みつけた。「オメェなんかに、やるもんか!」 言いながら背後にいる小十郎の刀を奪おうと体をひねったが、あっさりと抱きすくめられた。「くそっ、離せ!」「活きがいい獲物だな、小十郎」「ええ。元気なようで、安心しました」 自分を抱きすくめている侍の名前が「小十郎」であるとわかったが、そんなことはどうでもいいと、少年はもがき続ける。「離せっ、離せえぇえ!」 渇いた音がしたかと思うと、叫んだ少年の頬が、ふいに熱くなった。目を丸くした少年は、ずれてしまった視界を真っ直ぐに戻す。静かな怒りを湛えた瞳が見えて、叩かれたのだと気付くと頬が痛みを訴えた。「こんなところで、冬を越せるなんざ思っていなかったんだろう?」 静かな怒気をはらんだ声に、少年は抵抗を忘れた。そっと地面に下ろされた少年は、目の前の隻眼の侍から――政宗から目を逸らせないでいた。 これは、この鋭い目は怒りに見えるけれど、そうではないと少年のどこかが認識している。けれどそれが何なのか、少年にはわからなかった。「むざむざと凍え死ぬつもりだったのか」 ちがう、と言葉にしようとして、喉がひどく渇いている事に気付いた少年は、音を出す代わりに首を振った。「じゃあ、何だ」 政宗が、しゃがんで少年と目の高さを合わせる。 ああ、そうか。と、少年は唐突に理解した。穏やかな水面のような怒気の向こうに、悲しみがある。それに気付いた瞬間、少年の体から恐怖が消えた。喉が、音を通す。「侍なんかの、村を襲った侍なんかの世話になるもんか! おれは、ひとりで生きるんだ。春になって、どっかに出て、えらくなって、侍なんかいなくしてやる」 拳を握り叫んだ少年は、その言葉を哀しそうに怒っている侍が許してくれるものだと、受け止めてくれるものだと本能的に感じていた。そしてその仲間である背後にいる野良仕事をする侍――小十郎も同じだと。「Fum」 面白そうに、観察するように眉を上げた政宗が少年の頭に手を伸ばす。それを、気丈に少年は払いのけた。「触んな! うわっ」 小十郎が少年の両肩を掴み、抱きしめる。「村を襲った山賊は、今探している。攫われた村人が何人かいるみてぇだ。山ん中にいるよりは、俺の所にいれば知りあいの消息がわかる可能性が高まる」「えっ」 振り向いた少年に、小十郎が穏やかに笑みかける。「生きて会える相手がいるかもしれねぇんだ。凍死するかもしれねぇ場所で過ごすより、侍なんかの世話になっておいたほうが、いいんじゃないか」 ぐっと唇を噛み締めた少年が、政宗に目を戻す。睨み付けてくる少年に、政宗は剣呑な笑みを向けた。「誰にも頼らずに、なんとかしようってぇ心意気は買ってやる」 だがな、と小十郎が言葉を継いだ。「今は、誰かに頼る勇気の方が、必要なんじゃねぇのか」「頼る、勇気」 意外な言葉に、少年は呆けたような顔で目をしばたたかせた。「甘えて頼るんじゃなく、生きるために頼る勇気だ。頑な過ぎるのも考えものって事を、覚えておいて損は無ぇぜ」 ぽん、と軽く少年の頭に手を乗せた政宗が、にいっと悪戯に誘うように歯を向き出して笑った。「俺は、伊達政宗だ。必ずアンタの村を襲った奴らを退治してやる。それまで、そこの怖ぇ顔した侍の所で、やっかいになってろ。――ボウズ、名前は」「……辰吉」 ヒュウッと政宗が口笛を吹いた。「そいつぁいい。竜の中に小せぇ竜が飛び込んできやがった」 立ち上がった政宗が、小十郎に目配せをする。小十郎の腕が、辰吉から離れた。「よし、辰吉。冬ごもりのために集めたモンを放っておくのも、もったいねぇ。今からアンタが住む事になる場所まで、三人で運ぶぜ。OK?」「桶?」 最後の言葉がわからずに、辰吉が首を傾げて小十郎を見る。「それでいいかと、聞いておられるんだ」 ふうんと受け止めた辰吉が、政宗に顔を戻した。「うん」 あれだけ侍の世話にはならないと、ひとりで春を向かえるのだと思っていた気持ちが、辰吉の裡から嘘のように消えている。満足そうに微笑む政宗と、穏やかな目じりの小十郎を見上げて、辰吉は素直に頭を下げた。「畑の物を盗んで、ごめんなさい」 え、と驚いた政宗と小十郎が顔を見合わせ、笑いあう。「反省するんなら、しっかりと働いてもらうぜ。辰吉」「うん」 頷いた辰吉は、この侍たちなら信用してもいいと、誰かのささやきを胸に聞いていた。2013/11/29