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Brahman

 自分のくしゃみで目を覚ました梵天丸の耳を、雨音が打った。
 目を開けた梵天丸は、薄青にぼんやりと浮いている室内を見た。
 今は、何刻だろう。
 薄青に染まっているという事は、雨は降っているが雲は薄いという事か。
 もう日が昇っているらしい。
 梵天丸は身を起こし、ぶるりと体を震わせた。太陽は夏の気配を持って昇るというのに、地上にそれが届くのは皆が起きだし働く頃だ。今はまだ、たっぷりと冷えた夜気が大地を包んでいる。肌寒く感じるのは、雨のせいでもあるらしかった。
 もう少し、褥で過ごしても良いような気がしたが、なんとなく横になっていたくなくて、梵天丸は立ち上がり、襖を開けた。ゆるゆるとその先へ進み、障子を開ける。雨が、庭を打っていた。
 見上げれば白く輝く雲がたれこめ、そこから無数の水が落ちてきている。それを映す事の出来る左目が、遠くの雲に切れ目の光を見つけた。もうしばらくすれば、あの切れ目が広がるか雲が風に流れるかして、雨は止みそうだった。
 自分の体温でぬくもっていた褥から出た梵天丸の身を、ひたひたと夜気の冷えを残した空気が包んだ。くしゃみをして、梵天丸は首を巡らせた。
 部屋に戻る気になれない。ここに留まる気も無い。けれど行く場所――行っても構わない場所を、梵天丸は思いつけなかった。
 そっと息を吐いて右手を持ち上げる。梵天丸の指先が、布の巻かれた右目に触れた。
 自分の周りから、さまざまな人間を遠ざけた忌まわしいものが、ここにある。
 雨は夜気の冷たさを留めるだけでなく、梵天丸の心にまで冷えを届ける役をしているらしい。心の臓に寒さを感じ、梵天丸は唇をひきむすび、雨をにらみつけた。
 行く場所は、無い。
 戻る気も、無い。
 俺は、ここにいてもいいのだろうかと、梵天丸の頭に言葉が浮かぶ。
 お前は、ここにいてもいいのか。
 知らない誰かの声が――あるいは、よく知った誰かの声が、梵天丸の耳に雨音と化して届く。
 無数の、空より落ちる水が、無数の声になる。
 お前は、ここにいてもいいのか。
 不具の身で、伊達家の当主がつとまるものか。
 士気を落とす醜い面相の主など、誰も望まぬのではないか。
 病で右目を失った者が、戦に出られるわけがない。
 常に右側が暗い武将など、ものの役に立つとは思えぬ。
 いらぬ。
 いらぬ。
 伊達家は終わりじゃ。
 あのような者を当主にすれば、伊達家は終わりじゃ。
 梵天丸の耳に届くようにささやかれた言葉たちが天に昇り、雲となるほど集まり、濃度を増して重くなり、地上に落ちてくる。
 このようにして残るのならば、いっそ命を取りとめぬほうが良かったのではないか。
 快癒したはいいが、あの面相ではな。
 太い溜息とともに梵天丸の耳を打つ言葉を、雨粒となって落ちてくる悪意の無い落胆を、梵天丸はにらみつけた。
 負けるものか、と思う。
 いや。
 何も思っていないのかもしれない。
 ただじっと、その声を受けている。
 うるさいとわめく事も、酷い事をと嘆く事もせず、梵天丸は無心でそれらをにらみつけていた。
 ふと、それらの言葉の中に、毛色の違う声が混じった。それは遠すぎて、はっきりとした言葉として梵天丸の耳に届いては来なかった。
けれどそれが、雨粒となって落ちてきている落胆の音とは、まったく違った音色をしている事はわかった。
 梵天丸はかかとを回し、庭に沿って歩き出した。遠くに見えた雨雲の切れ目のような声の主が誰かを、梵天丸は直感的に察していた。
 近頃、この屋敷に住まうようになった、自分を伊達家の御曹司とも思わぬ言動をする、荒々しい様相をした男。
 その男の居室へと、梵天丸は足を急がせた。
 慰めて欲しいわけではない。
 人が恋しくなったわけでもない。
 ただ、行かねばならぬような気がしただけだった。
 雨音が梵天丸にささやく。
 お前のような者は、当主どころか武将として働く事もできぬわ。
 この群雄割拠の戦国時代に、死角の多い当主など、国を奪うてくれと言うようなものじゃ。
 それらから逃げるでもなく、おびえるでもなく、梵天丸は光りのある左目で前を向き、しっかりとした足取りで進む。
 自分に必要なものは、屈することでも媚びる事でも、子どもらしく嘆く事でも、甘える事でもない。あの鬱々とした雨を降らす雲を斬る、剣だ。
 それを、梵天丸は本能的に理解していた。
 空を覆う雲の先に見えた、切れ目。そこから地上に注いでいたのは、一振りの光の刃だった。自分はその剣を、手に入れなければならない。
 考えたわけでもなく、梵天丸は浮かんだ言葉に突き動かされるようにして歩いた。
 目的の部屋に到着し、遠慮もなく入り込む。そこに、梵天丸の目指していた男が眠っていた。
 自分の欲する刀となる男を、梵天丸は無言で見つめた。梵天丸が後手で襖を閉めるのと、男が身を起こすのとが同時だった。
「――梵天丸か」
 うすぼんやりと照らされている室内に、寝起きの目を細めた男はけげんにつぶやいた。
 梵天丸は、自分の名を呼んだ男をにらむように、観察するように見つめた。
 襖を閉じても、梵天丸の耳に雨のささやきがまとわりついている。
 あのような面相の当主など、他国に示しがつかんわ。
 伊達家を守るため、廃嫡せねばなるまいて。
「俺に、何か用か」
 褥の上に座したままの男は、梵天丸を嫡男としてではなく、ただの【梵天丸】として振る舞う。梵天丸を廃嫡しようとしている者でさえ、表面的には頭を下げて仕えているというのに。
 梵天丸は、いつもは整えられている男の寝乱れた無造作な髪と、細く鋭い眉。眠気を残した切れ長の瞳。左頬にある古い傷跡を眺めた。
「まだ、起きるには早い時間だろう」
 低く響く彼の声が力強く、梵天丸の腹に沁みる。この一振りの剣があれば、無数に降り注ぐ雨雲を切る事ができる。
 本能的に、梵天丸は理解していた。
 梵天丸を、ただ【梵天丸】として。目の前にある状態そのままで受け止めているこの男。片倉小十郎という名を持つこの男が、自分の行く先を阻む雨を切り進むに必要な刀であると、梵天丸は漠然とした理解と、確固たる確信とを持っていた。
 だが、それを言葉にするほどの強さや、言葉にしてもいい距離を、今はまだ持ち合わせてはいなかった。
「梵天丸?」
 小十郎が、けげんに名を呼ぶ。梵天丸が来た理由を、彼はまったく思い付けないでいた。梵天丸自身も、どうして彼が自分に必要な刀であるのかを明確に説明できないので、どうにも返事のしようが無かった。
「何か、あったのか」
 眉間にしわを寄せた小十郎が膝を浮かせ、梵天丸がくしゃみをした。目を丸くした小十郎が梵天丸に手を伸ばす。
「今朝は、雨のせいで冷えるからな。仕方ねぇ」
 やれやれと息を漏らしつつ、小十郎は梵天丸を胸の奥深くに抱きとめた。小十郎の心音が梵天丸の右耳に響く。それが自分の鼓動と混じりあっていくのを、梵天丸は聞いた。
「狭いが、文句を言うなよ」
 梵天丸を抱きしめた小十郎は褥に戻り、梵天丸を寝かせた。梵天丸の耳から、雨音が遠ざかっていく。小十郎のぬくもりが、梵天丸の芯をあたため強くした。
 残っていなかったはずの眠気が湧き起こり、梵天丸は眠りに落ちる。その中で、梵天丸は天を覆う分厚い雲を、小十郎という名の名刀で切り裂き進む、夢を見た。

2014/07/03



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