子どもは、ガマンというものがきかない。 いや。三大欲には従順だ、と言い換えたほうがいいだろうか。 食欲・性欲・睡眠欲。 真ん中はまぁ、まだ早いので別として。食欲のほうも、彼の場合はガマンがきく。――食べ物に困るような身分ではないのだが。 何をガマンできないのかと言うと、睡眠欲だ。たしかに、これほどに心地よい日差しの中であれば、うとうととしてしまうのもうなずける。だが、警戒心の強いはずの彼が、道端で無防備に眠ってしまうというのは珍しい。と、いうか……。(初めて見たな) 野良着姿の片倉小十郎は、幼い主、梵天丸の寝顔を覗きこんだ。すやすやと、深い眠りに落ち込んでいる。「片倉様」 小声で呼ばれ振り向けば、穏やかな笑みを浮かべた農夫がいた。「あとは、ワシらぁでやっときますんで」「ああ、いや……」 申し出に、小十郎は迷う。米の収穫に、人手は一つでも多くあったほうがいい。だが、主をこのまま無防備に、眠らせておくわけにもいかない。 小十郎の逡巡を察したらしい農夫は、しわだらけの顔をクシャクシャにし、目を糸のように細めて、幼い、やがて領主となる梵天丸の寝顔を覗いた。「よぉく、眠っておられる」 小十郎も目を向けた。眉間にしわを寄せて、何かを堪えているような寝顔に小十郎の胸が詰まる。「このまま、置いておかれては危ないのではないですかな」 風邪をひく、などということではない。農夫は、梵天丸の危うい立場を理解している。「片倉様」 促され、小十郎は太い息を吐いた。「すまねぇな」 農夫はゆるゆると首を振った。「十分、お手伝いをしていただきました」 小十郎は、そっと梵天丸を抱き上げた。思うよりも小さく、軽いことに驚く。起きている時は誰をもねめつけ、人を寄せ付けぬよう、尖った気配を纏っている彼だが、眠っていると同じ年頃の子どもとなんら違わないことに、小十郎は戸惑った。 大人びた孤独をまとう梵天丸の、その理由を小十郎は知っている。 小十郎は屋敷に戻りかけた足を止めて、山道に入った。 風も無い木々の間は、どこかよそよそしく、けれど優しさを失わない光に包まれている。色づいた葉が、目にあたたかさを印象付けた。落ちた葉を踏むと、やわらかな土の香りが立ち昇る。豊かな土に育まれた森の中を、小十郎は梵天丸を抱いて進んだ。 やがて、小川のほとりに出た。 さらさらと流れる水面に、伸びた紅葉の陰が映っている。心地よい風の吹く大岩の上に座し、膝に梵天丸を乗せた小十郎は、空を見上げた。 どこまでもおだやかで遠い空が、木の葉の隙間から見える。 小十郎は、腕の中で眠る梵天丸の、眉間のしわに指を当てた。ほぐすようになでれば、愁眉が開いていく。すっかりゆるんだ梵天丸の寝顔に、小十郎は口元をほころばせた。空気は少し肌寒い。日差しはうららかで、腕の中のぬくもりが心地いい。 ひとつあくびをして、小十郎は瞼を下ろした。耳を打つせせらぎが、意識をほぐしていくままに、眠りの中へと落ちていく。 夢と現の隙間の梵天丸は、自分を包むあたたかなものに、無意識に身を寄せた。土の香りと、たくましい腕が自分を支えている。ほうっと息を吐き、再び眠りの中に戻ろうとして、梵天丸はハッと顔を上げた。目の前に小十郎の顔があり、硬直する。いったいこれはどういうことなのかと、梵天丸は目覚めたばかりの脳みそを、グルグルと激しく動かす。自分が何をしていたのかを思い出し、周囲を見回し、梵天丸は首を傾げた。 小十郎との稽古は、今日は休みだと言われた。何故なのかと問えば、稲刈りに行くと言う。小十郎が稲刈りに行く理由がわからない梵天丸は、武士が農夫の真似事かと、鼻を鳴らした。小十郎は射抜くような目で梵天丸を見た。その鋭さに息を呑んだ梵天丸は、無言で背を向け去っていく小十郎の後を追うことにした。 野良着姿の小十郎は、梵天丸に見せたことが無いような笑みを浮かべ、農夫らと言葉を交わし、慣れた様子で田に入り稲を刈った。声を合わせ歌いながら稲刈りをする農夫らの姿は、新鮮だった。 ぼんやりとながめている梵天丸に、音頭を取りながら歌う者が、誘う目を向けてくる。初対面の人間に、そんな顔を向けられるのは初めてで、梵天丸は戸惑い、顔を背けた。ちらりと横目で見れば、誘った者は気にする風もなく、音頭を取り歌っている。顔を背けたのは自分であるのに、一抹のさみしさが吹き流れた。 小十郎は、梵天丸など存在しないかのように、稲刈りに精を出している。いきいきとした彼の姿に、梵天丸は以外さと面白くない心地とを味わいながら、土手に腰を下ろした。 くりかえされる音楽と、単調な作業。 それを眺めているうちに、だんだんとまぶたが重くなり、そして――。(眠ってしまったのか) ここはどこなのだろうかと、梵天丸は首を巡らせる。木々に囲まれ、田畑は見えない。稲刈りは終わったのだろうか。あの歌の変わりに、せせらぎが梵天丸の耳に触れる。それと、小十郎の寝息。 梵天丸は、小十郎に目を向けた。すっかり寝入っているらしい。顔を覗きこんでも、起きる気配がまったく無い。しっかりと自分の体に回されている小十郎の腕に、梵天丸は触れてみた。たくましく、大きな腕が梵天丸を支えている。おそるおそる、彼の胸に頭を乗せてみる。思うよりも広く力強いことに、悔しさと安堵が込み上げた。 小十郎の呼気の風と心音が、梵天丸を包む。小十郎の肩越しに、色づく木の葉が見えた。その先に、高い空。 梵天丸は目を閉じて、先ほどの歌と光景を思い出す。 実りを喜び、感謝しながら収穫をする民の姿に、梵天丸のほほがゆるんだ。 あれが、自分の口にしているもの。あれを、皆が食して命を繋げている。 小十郎が野良仕事に出ていく理由が、梵天丸はなんとなく理解できたような気がした。 来て良かったと思うと同時に、鼻で笑ったことを後悔した。 悪かったな、と唇の動きだけで、眠る小十郎に――全ての農夫に謝罪する。 ああして作物を育て、収穫をする民がいるからこそ、生かされている。生きることができている。それを、自分は知っておかなければならない。しっかりと、魂に刻んでおくべきだ。 梵天丸は自分の手を見つめた。自分を包んでいる腕よりも、ずっと小さく頼りない。けれどいつかは、と思う。 いつかは、小十郎のように――小十郎よりも、たくましく大きな手となり民を包もう。育む彼らを守り、導く男にならなければ。それが、伊達家の嫡男として生まれた自分の使命だと、梵天丸は拳を握った。丸めた手を、右目を覆う眼帯に当てる。刀のツバを使い作った眼帯は、小十郎が用意をしたものだ。いつまでも包帯の姿では侮られると言って。 不具の主など、と言われた。いっそ命を落としてくれれば、という声を聞いた。醜い姿で近付くなと、母に厭われた。食事に毒が盛られ、空腹を堪える術を覚えた。少しの物音でも目が覚めてしまうほど、神経が休まることは無かった。 それなのに、小十郎にここに運ばれるまで、少しも気付かなかった。 久しぶりの、すっきりとした目覚めに梵天丸は笑みを浮かべる。小十郎のぬくもりが尖っていた心をなだめる。流れる水音と、ふくよかな土の香り。色づく木の葉。その全てが、梵天丸をそのままの姿で受け入れてくれている。 悪くない、と梵天丸は胸中で呟いた。 上等だ。 口の端を持ち上げ、梵天丸は体の重みを全て、小十郎に預けた。眠っている間なら、かまわないだろう。こうして、甘えても――。 目が覚めれば、お互いに憎まれ口を叩きつつ、激しい鍛錬を積むことになる。けれどそれは、今までとは違った色合いを持つだろうと、梵天丸は確信した。 胸裡に、信頼という名の果実が実る。2014/10/20