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くちくなるまで

 ふっと、片倉小十郎が顔を上げた。空の向こうに目を凝らし、じっと何かを伺っている。それに気付いた彼の主、伊達政宗が、いぶかるように目を細め、小十郎の頬の傷を見るように、顔を上げた。
「どうした、小十郎」
「雨に、なりそうですな」
「雨?」
 政宗は草の上から尻を持ち上げ、小十郎の目が向いている先に視線を移した。青々とした高い空に、白い雲がかかっている。この程度の薄い雲から、雨粒が落ちてくるとは思えなかった。
「The difference is imperceptible to me」
 つぶやいた政宗が小十郎に目を戻すと、野良着姿の小十郎は片付けをはじめた。農夫の格好をしてはいるが、彼はれっきとした侍。それも、ここ奥州を統べる政宗の、幼い頃に失った右目とまで称される重要人物。けれど作業をしている姿は手馴れていて、不自然なところも不器用なところも見受けられない。
「まあ、お前がそういうんなら、そうなんだろう」
 政宗はゆったりと腕をくみ、小十郎が片付けおえるのを待った。
 小十郎が野良仕事をしていると聞くと、たいていの人間は驚くか冗談だと受け取るが、幼名のころよりつきあいのある政宗は、小十郎の趣味が野菜作りであると知っている。野良作業をする人間は、えてして天候の変化に敏感だ。政宗の隻眼に晴天と映っている空は、小十郎のいうように雨天へと姿を変えるだろう。
「おまたせいたしました」
「別に、待っちゃいないさ」
 畑から土手に上がってきた小十郎に、政宗は軽く肩をすくめて答えた。
「しかし、政宗様も野菜づくりに興味をお持ちになられるとは。この小十郎、少しも予見できずにおりました」
「興味を持った、てのとは少し違うな」
 並んで屋敷に向かいながら、政宗は小十郎と同じように雨の気配を察したのか、片付けをしている里の民に目を向ける。政宗の返答に、小十郎が問う顔になった。
「他の奴らの田畑を、俺がじっとながめていると、あいつら、どうなる」
 政宗が顎で里の民を示すと、小十郎はそちらに顔を向け、即答した。
「政宗様のことを気遣い、もてなすことを優先し、野良仕事を後回しにするでしょうな」
「Right you are」
 政宗の薄く形の良い唇が、満足そうにゆがむ。
「そうなりゃあ、翌日が大変だ。だが、小十郎。お前なら俺を気にせず、土いじりに精を出すだろう?」
「気にせず、というのは心外ですな。政宗様。この小十郎、政宗様を気にせずにおられるときは、一瞬たりともございません」
「Ha! おおげさだな。まあ、いい。俺のことを気にしながら、それでも、やるべきことを優先する。――だろう?」
 楽しげな政宗に、小十郎は肯首した。
「そういうことだ」
 どういうことなのか、と小十郎は眉根をよせた。
「俺が興味を持ったのは、土いじりそのものじゃなく、今年の具合だ」
「具合」
 繰り返した小十郎に、政宗はニヤリと口辺を持ち上げた。

 屋敷に戻った政宗が、私室で庭を眺めていると、ぱた、と小さな音がした。
 政宗は開け放してある障子の外に、顔を向ける。景色は薄暗く灰色に沈み、いかにも重そうな分厚い灰色の雲が空を覆っていた。
 帰って半刻ほどしてから、上空の風が変わったことに、部屋から庭を眺めていた政宗は気づいた。
 雲の流れが変わったと感じた先に、灰色の塊を見つけた政宗は、小十郎がそろそろ来るなと予見した。
 雨が降れば来い、と言っていたわけではない。ただ、雨が降れば彼は来るだろうと、確信ともつかぬ予想を立てていた。
 ぱたた、と音が鳴る。それは軽快な旋律を生み、重なるように連なって、景色を変えた。
 ざあ、と音が変わる。
 雨の気配にふくらんでいた土や草木の香りが、雨の匂いに押しのけられる。
 望まなくとも耳に入る雨音の中に、足音が混ざった。静かに運ばれる足運びに、やはりなと政宗は細い息を吐いた。
「政宗様」
 小十郎の声がする。政宗はわざと、気がついていなかったかのように顔をゆったり動かして、彼を見た。
「小十郎の、読みどおりだな」
「おそれいります」
 小十郎が政宗のそばに膝を着く。折り目正しい姿勢で座る男に、政宗はやわらかな笑みを投げかけ、庭に顔を戻した。
「これは、いい雨か?」
「どれほど続くかはわかりかねますが、この程度の雨ならば増水で困るということはないかと」
「No, he's not」
 政宗が雨に向けるようにつぶやく。しばしの間を置いて、小十郎は答えなおした。
「この程度ならば、畑の畝がつぶれることも、田の稲が苦しむこともございません。むしろ、恵みのほうが強いかと」
 政宗は満足そうに目を細め、降り注ぐ雨を見た。
「……政宗様」
「Ah?」
「お気になされておられたのは、収穫のことにございますな」
 問いの形を取ってはいるが、小十郎の言葉は確信を有していた。
「奥州の民は、前を向き笑えるようであらねばならねぇ」
「なつかしいな」
 政宗は目を伏せ、微笑んだ。今、小十郎が発した言葉は、かつて政宗が彼に教えられたものだ。
「そのために、収穫の具合をお気になされた。民が前を向き、笑っていられるためには、それが必要と思われて」
「話に聞くより、この目でどんなふうに作られ、育っていくのかを見たほうが、いいんじゃねぇかと感じただけだ」
「それで、暁闇のころにいらっしゃったのですな」
「政務をとどこおりなくするために、朝が早ぇからな。うちの軍師は生真面目だ」
 からかうような政宗に、小十郎は温かな苦笑を浮かべた。
「この奥州は、まだまだ支えが必要な状態。手を抜くわけにはまいりません。政宗様も、それを重々ご承知であられるから、早起きをなされたのでしょう」
 小十郎から庇護者的な気配を感じた照れくささからか、それとも本当に眠気を感じたのか、政宗はあくびをした。
「雨音は、眠気を誘うな」
 言いながら、政宗はごろりと横になった。
「慣れぬ早起きをなされたので、それもあるのでしょう」
 小十郎の軽口を、政宗は黙殺した。
 耳に当たる雨音が心地いい。気温は熱くも寒くもなく、ゆるゆるとした空気が漂っている。
 政宗はふたたびあくびをして、目を閉じた。
 視覚に向けられていた意識がすべて、聴覚に集束する。雨音が大きく感じられた。
「政宗様」
 起こすべきか、このまま寝かせておくべきか、決めかねている小十郎の声がする。
「こんな日は、軍議を休みにしても、かまわねぇだろう」
 お前も休め、と政宗は言外に告げた。
 小十郎が立ち上がり、辞する気配がする。
 政宗の傍にあるものは、雨音と湿気た空気だけになった。
 しばらくして、小十郎の気配がもどってきた。ふわりと薄物がかけられる。どうやら、これを取りに行っていたらしい。
「前を向き、笑うためには生きていなければなりません。生きるということは、食べるということ。誰もが不足なく、先の不安を抱えることなく、腹がくちくなるまで食べられるというのは、何よりも大切なこと。国を強くするのは、戦よりもまず民が健やかであること。健やかであるためには、心の安堵が必要不可欠。――空腹は何よりの敵。心も体力も貧しくなり、笑顔を奪う最大の元凶」
 小十郎の静かな声を、政宗は子守唄がわりに聞いていた。
「いまのところ、飢饉に陥りそうな兆候はございません。ご安心召されませ。先のことはわかりませんが、とりあえず」
「これからは、各地の報告に田畑の状態も交えるように、しておきてぇ」
 眠りにとらわれた声で政宗が言えば、小十郎が「は」と短く答えた。
「休めるときに、お前も休んでおけよ。小十郎。まだまだ先は、長いんだからな」
 奥州の民の全てが、腹がくちくなるまでぞんぶんに米を食えるようになるまで。誰もが笑みを浮かべて、食べて暮らせるようになるまで。
 戦になれば犠牲になるのは田畑だ。戦闘時に踏み荒らされ、あるいは兵糧攻めのために実る前に刈り取られる。一番に飢えるのは民。そして、収穫を得られなかった自分たち。戦国の世では、明日の食事ができるかどうかを案じるのが、あたりまえの日々。どうにかして食い繋ごうと苦心し、ひと粒の米でさえ奪いあうという情景は、珍しくもなんともない。
 飢えは、心も貧しくしてしまう。
「田畑も国も、豊かに実るまでは細かな目配りと手間、時間が必要ですな」
 おしゃべりはもういい。早く休めと、政宗は無言で自分の横を叩いた。このまま放っておけば、小十郎は自分が起きるまで控えているか、部屋に戻って仕事をするだろう。
 共に休めと動作で告げた政宗の横に、ややあってから小十郎が横になった。失礼しますと小さな断りを入れる彼の律儀さに、ふっと鼻から笑みが漏れる。
 ゆるりとした、気だるさにも似た穏やかな雨の刻。
 二匹の竜は雨音を子守唄に、やわらかな休息を総身がくちくなるまで味わった。

2015/06/30



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