ずかずかと、勝手知ったる自宅のように近付いてくる足音に、毛利元就は報告書に落としていた目を上げて、襖を見た。ほどなくして、襖はこれほど大きな物音を立てるものだったか、といぶかるほど派手な音をたてて襖が開き、奥の廊下を隠すほどの巨躯を誇る男が満面に笑みをたたえて現れた。「よーぉ、毛利ぃ。遊びに来てやったぜ」 ぴしゃん、と襖を閉めた男は宵闇に白い肌と髪を浮かばせ、光のある右目を親しげに細めて元就の傍に座った。手に、大徳利がある。呑みに来たらしい元親に、呆れた息を鼻から吐いた元就は、ひとなつこい彼の右目と、左目を覆う紫の眼帯を流し見て、その動きのまま書類に目を戻した。「来て欲しい、などと頼んだ覚えは無いぞ。長曾我部よ」「つれねぇなぁ」 冷ややかな元就の声に怒る事も凹む事も、気まずそうにする事もせずに、長曾我部元親は自分よりも一回りほど小柄で華奢な元就を、覆いつくすようにして文机を覗きこんだ。「こんな時間まで政務たぁ、おそれいるぜ」「勝手に、覗き見るでないわ」「いいじゃねぇか。安芸と四国。どっちも脅かすことなく安泰の安穏ってぇことで、手打ちになってんだからよぉ」 楽しげに歯を見せた元親に、元就は面倒くさそうに首を振った。しゃらしゃらと絹糸のような髪が、かすかな音を立てる。「徳川が天下を治め、領土争いが無くなったとは言え、どのような策謀により政を邪魔されるか、わからぬであろうが」「俺が、そんなしち面倒くせぇことを、するように見えるかよ」 ふむ、と元就は顔を上げて元親を見た。にこにことしている男は、鬼とあだ名されるほどの隆々とした筋骨を誇る偉丈夫であるというのに、物怖じの無い幼子のような雰囲気をかもしだしている。「貴様の頭では、そのようなこと、思い付くことすら出来ぬであろうな」「な? そうだろ」 皮肉を皮肉と取らぬ元親は、にこにことして文机の書面に手を伸ばした。「どらどら……ん? なんでぇ、こりゃあ」「見てわからぬ者には、言うてもわからぬわ」「いや、そうじゃなくてよ。毛利、アンタ、民の動向を探らせてんのか? なんで、そんなことをしてんだよ」「つくづくおめでたい頭をしておるようだな、長曾我部よ。貴様、民の暮らしを見張らずとも、政が出来ると思うておるのか」 書面を元就に返しつつ、元親は座りなおして唇を少し突き出した。「民の暮らしぐれぇ、ちゃんと気にかけてんぜ。けどよぉ、こんなふうに報告書で上げなくても、自分の足で見に行きゃあいいだろうがよ」 ふん、と元就が鼻を鳴らし、元親に手のひらを見せた。ん? と首を傾げた元親の横にある大徳利を、元就が顎で指す。「我と、呑むために来たのであろうが」「ああ、そうそう。今朝、いかなごが大漁だったんだよ。早春の頼りを肴に、アンタと一杯やろうと思ってな。もちろん、ここで働いている連中にも、土産として持ってきてあるぜ」 二人の間に大徳利を置いた元親が、腰に下げた巾着から杯を取り出し、元就の手に乗せた。「まだ肌寒いけどよぉ。海の中は、もう春の足音が聞こえてきてんだな」 いかなごを甘辛く炊いたものを大徳利の横に広げ、元親は元就の杯を満たした。くい、とそれを傾けた元就に目を細め、元親は手酌で喉を潤す。「海の中でなくとも、梅は終わりの時を向かえ、桜がほころびはじめておるわ」 冷淡な元就の声に、にししと口を横に広げた元親が、いかなごを摘んで口に入れる。「箸ぐらい使わぬか。それに、肌寒いと言うのであれば、貴様のその頭の中まで筋肉である事を誇るように、無闇にさらけだしている身を布で包めば良いのではないか」「なんだよ。うらやましいのか?」 すぐさま呆れと嫌悪を面に乗せた元就に、元親が腹の底からおかしそうな声を上げた。「っははは。ンな顔すんなって! 冗談に決まってんだろ。……で? なんで、あんな調査みてぇな事を、してんだよ」 ちら、と元就が元親を見る。少し前にのめった元親が、言えと無言で促した。「少しは、自分の頭で考えてみるがよい」「ケチくせぇな。教えろよ」「くもの巣の張った頭を、時には動かしたほうがよいのではないか」 目を杯に落とし唇をつける元就の、言うつもりは無いという態度に、元親はふうむと腕を組んだ。「面倒くせぇ、なんて理由じゃねぇだろう。アンタ、けっこう細かい事をするもんな」「貴様が大雑把すぎるだけではないのか」 元就の顔を上げぬままの言葉を無視し、元親は首をひねる。「うーん。あ、箸」 そうだ、と思い出して元親は腰の巾着から箸を取り出し、元就にずいと押し付けるように持たせた。「俺は指でつまむけどよ。アンタは、箸が無ぇと食わねぇだろう」 ほら、と無理やりに元就の手に箸を握らせた元親は、食え食えと手のひらでうながす。やれやれと息を吐いた元就が、面倒くさそうに箸を手にして肴を口に含んだ。それに、元親が頬をゆるめる。「何だ」「いや。アンタも、丸くなったもんだと思ってよ」 けげんに眉根を寄せた元就に、元親はにこにことして手を伸ばし、いかなごをつまんで口に放り込んだ。「俺が持ってきたモンを、俺の用意した箸と杯で腹に収めてんだろ? ちょっと前までなら『毒が盛られているやもしれぬ』とかなんとか言って、手をつけようともしなかったじゃねぇか」「それは、我のマネをしたつもりか?」「へっへぇ」 大きな肩を揺すって笑う元親に呆れつつ、元就は自分の手の中にある箸を見た。「貴様がそのような謀略を巡らせるほどの知性を、持ち合わせておらぬと判断したからよ」「照れんな照れんな」「貴様の目は、節穴か」 元親が楽しそうに大徳利を差し出して、元就は億劫そうに杯を持ち上げた。灯明の光を含んだ酒が、とろりと杯を満たす。「まあ、なんでもいいや。アンタが俺を信用してるってこったからな」 自分の杯も満たし、元親は軽くそれを持ち上げ乾杯の仕草を取ってから、口をつけた。「自分に都合のいいように、解釈するでないわ」 文句を言いつつも、元就は酒を喉に落とす。「でも、アンタは理由を説明しねぇだろ? だったらこっちは、自分の頭で理由を考えるしかなくなっちまうじゃねぇか。違うってんなら、はっきりと違うってことを説明してくれよ。毛利」 面白そうに、からかいを含んだ目を元就に向けた元親が、大徳利を持ち上げる。元就は無言でそれを受けた。表情をわずかも変えぬ彼の姿に、にいっと悪戯小僧のような顔をした元親が、まあいいやと呟いた。「まだまだ宵の口だ。時間はタップリあるし、酒も十分持ってきた。旨い肴も用意したし。さっきの、アンタがなんで自分の目で見ずに、こっそり間諜を放って民の暮らしを調べてんのか。なんでアンタが俺を自由に通っていいように、ここの奴らに言ってんのか。じっくり呑みながら考えさせてもらうとするか」「貴様、居座るつもりか?」「どうせ、朝も昼も一人で書簡を眺めて過ごすばっかなんだろう? いいじゃねぇか。春待ち鳥みてぇに、早春の味を楽しみながら宵っ張りをするってぇのもよ」 心底迷惑そうに顔をしかめる元就に、悪びれた様子もなく元親が笑って酒を勧める。呆れた息を鼻から漏らしながら受けた元就は、唇を湿らせた。 機嫌よく酒を煽った元親は、元就の口の端がわずかにほころんでいることに気付き、目じりをゆるめる。 身を凝らせる冬の名残を踏み分けて、心浮き立つ春がしずしずと進み来る。 2014/03/10