忌々しき者どもよ。 毛利元就は胸中で呟き、朗らかな顔をして港を検分している男たちを見た。 徳川家康。そして、長曾我部元親である。 絆という曖昧なものを掲げて天下を統べるなど、元就からすれば世迷言としか思えない。武器を捨て拳で戦うなど、愚の骨頂。 愚かな者であるはずなのに、彼は自他共に覇王と認める豊臣秀吉を、あの尋常ならざる怪力を誇る男を、拳で仕留めた。それどころか、宣言どおりに天下を拳につかんでしまった。 彼を支えた“絆”というものが、どういう類のものか。 聡明な元就に、理解ができぬはずはない。だが、「理解」と「納得」と「同意」は、まったくの別物である。 そのような甘いことを言っていては、いずれ寝首を掻かれる。徳川の天下など、そう長くは続くまい。 そう思う端に、妙なざわつきを感じている自分を、元就はもてあましていた。 それは、不安とも、焦燥とも、羨望ともとれるシロモノで――(羨望?) はたと思考を止めて、元就は自己分析の間違いを鼻で笑った。 何を羨望するものがある。あるとすれば、あの甘い思考の男が天下を統一したと、その部分ぐらいしか思いつかない。(くだらぬ) 元就の視界に、一点の曇りも無い笑みを浮かべ、元親と会話をする家康の姿が映っている。 かつては元就よりも背の低い童だった。自分の領地を守るため、織田の傘下に入り、豊臣に服した。そうせねばならぬほど脆弱だった男が、今は偉丈夫と呼べる青年になっている。 人は変わる。 そう、人は変わるのだ。 元就はそれを知っている。人は変わり、裏切るものだ。絆など、どれほどのものか。今はにこやかに友として接している元親も、元就らの計略にはまり家康を敵と見なしたではないか。ほんのささいなことで、人は変わる。自分の心の軸をずらす。情というものに重きを置いている者こそ、感情というものに左右される。 統率者に必要な物は、情ではなく冷静で揺らぐことの無い、完璧な思考。 情など、何の役にも立たない。 いや。 情というものは、利用出来る。それは認めよう。だが、それは上に立つものが持つべき物ではない。天下を統べる者が、かざすものではない。(いやまて) 愚民にとっては耳ざわりのいいものを掲げ、それで人心を掌握しようと。そういう魂胆だとしたらうなずける。 織田信長を見、豊臣秀吉を見ていた家康が、あの二人がおろそかにしていたであろうものを、駒として働く者どもが大切にしているという事に気付いたとしたら。(長曾我部や、感情にまかせる真田、民がどうのと申す伊達、そのほかの諸将にも聞こえがいいものを、掲げておるだけなのではないか) なるほどタヌキめと、元就は口辺をうっすらと持ち上げた。だが、そうだろうという予測に、そうではないと反論をする意識がある。屈託の無い笑みを浮かべ、元親と会話をしている家康。彼のそれが、計算に見えない。(よほどの演者よ) そう胸中で呟いてみても、どこか腑に落ちぬ部分が残る。 これは何だ。 まさか本気で家康は、人々の繋がりや情をもって天下を治めるつもりなのか。 情に流されては、暴動が起こる。冷静な判断が出来なくなる。絆があるからと、罰するべきを罰せられぬようになる。(まあ、よい) 大きな意味では、徳川家康が天下人となった。だが、細々としたところに、火種は燻っている。甘い戯言を言っている間に、その火種は煙を上げて風を吸い込み、炎となって火の粉を撒く。その火の粉が次々と燃え上がれば、人の情に重きを置く天下など、あっという間に燃やしつくされてしまうだろう。(この安芸に、その火の粉がかからぬようにせねばならぬ) 誰が天下人となっても変わらない。世迷言に惑わされぬよう、安芸の治世を行うのみだ。 ごう、とすさまじい風が吹いて、戦国最強の異名を持つ本多忠勝が現れた。戦で疲弊した港町を検分に来た家康を、迎えに来たらしい。(戦国最強も、天下泰平となれば使い所のない木偶と同じ) いや、あの膂力があれば、外交の抑えになるかと、山のような巨躯の忠勝を眺める。 家康が元親から顔を外し、元就に向かって大きく手を振った。振り返す気など、元就には無い。それがわかっているのだろう。家康は大きな声で「それじゃあ」と叫び、本多忠勝の背に乗って去っていった。(あのように移動ができるのであれば、さぞ便利であろうな) だが、あれを欲しいとは思わなかった。「なんだよ、毛利。じぃーっと、そんなところに突っ立ってよぉ。ちっとも家康と会話してねぇじゃねぇか」 元親がぶらぶらとした足取りで、元就の傍に来る。「話すことなど、何も無い」 は、と元親が鼻で笑った。「相変わらず、無愛想だなぁ。安芸は変わらず毛利の好きなようにしていいって、家康は言ってんだからよ。もう少し仲良くっつうか、まぁ、なんか今後の話とか、してもいいんじゃねぇのか」「――今後?」 細身の元就とは対象的な、隆々とした胸筋を誇らしげにさらす大柄な元親が、わずかに腰をかがめる。元就の目に自分の視線を合わせ、元親は子どものように笑った。「敵側にまわったアンタを、家康は信用するっつってんだぜ?」「長曾我部、貴様……そのような戯言が本心であると、本気で思っているのか」「あぁ?」「めでたい奴よ」「なんでぇ、そりゃあ」 元就は忌々しそうに、親しげに振る舞う元親をにらみつけた。「貴様は、我を憎いとは思わぬのか」「え」 きょとんとし、目をしばたたかせた元親が、すぐに納得の顔になる。考える風に空を見上げ、あごを撫でながら、元親は言葉を探しつつ答えた。「そりゃあ、憎くねぇとは言えねぇぜ。アンタらの策略のせいで、大切なモンを沢山失うことになっちまったんだからな」「ならば、この場で我の首をつかみ、ひねってみせれば良いではないか。我は丸腰。腕力では貴様にかなわぬ。この首をつかみ、くびり殺すは容易いとは思わぬか」 婦人のように細い自分の首に、元就が指を置いた。「おいおい、なんてことを言い出すんでぇ」「港の視察中、足場の悪い岩場に入り、我が足を滑らせたとでも言えば、事はすむ。人気が無い今が好機ぞ、長曾我部」 絶句した元親を、元就は静かに見上げる。おとなしく殺されるつもりは無い。だが、この男は自分を殺さない。その確信のもとでの、発言であった。「毛利、オメェまさか、後悔してんのか?」 元就はわずかに眉をひそめた。それだけで、元親は違うということを察する。「オメェ、俺が殺さねぇってわかった上で、言ったのかよ」「鈍い貴様でも、そこは察したか」「……あのよぉ、毛利。家康が来てからずっと不機嫌なのは、どういう理由からだ」「不機嫌?」「不機嫌だろう? ずうっとだんまりで、にこりともしねぇ。ああ、愛想が悪いのはいつものことか。――だがよ、俺とはこうして会話すんのに、家康には最低限の挨拶すらも、面倒くさそうだったじゃねぇか」「それは貴様が、我にしつこく話しかけてくるからよ。徳川は貴様のように、あれこれと五月蝿くせぬだけのこと」「ほんとにそうかぁ?」 他に何がある、と無言で元親に示す。元親は「やれやれ」とでも言いたげに、肩をすくめた。「ともかく、これからは助けあっていかなきゃなんねぇんだからよ。別れ際の挨拶ぐれぇ、返してやっても良かったんじゃねぇのか」「馴れ合うつもりなど無い。安芸の治世は、我が差配する」「他の土地との交易とか、色々あんだろぉ? 何、意固地になってんだよ」「貴様が何も考えておらぬだけとは、つゆほども思わぬか」「ひっでぇなぁ。これでも、俺だって色々と考えてんだぜ」「感情に振り回され、軸を見失うような者が戯れるでないわ」「ふざけてなんてねぇよ。――アンタの行った通り、俺は我を失った。自分自身の目を、曇らせちまった」「ならば、やはり我を殺すか」「茶化すんじゃねぇよ」「茶化してなどおらぬ」「おいおい……まあいいや。話をもどすぜ。――正直、目の前が真っ赤になったっつうか、真っ黒になったっつうか、思考が怒りと絶望に支配されたって感じだったぜ。あん時はよぉ。思い出すだけでも自分が情けねぇし、アンタを殺してぇって思うこともある」 けどよぉ、と瞳に哀惜を浮かべる元親を、元就はまっすぐに見た。「過去に囚われてちゃなんねぇって、石田の野郎を見て、怒りに任せて行動する俺を心配する野郎どもを見て、気付いたんだ。忘れるつもりも、乗り越えるつもりもねぇ。あの事は、墓の中まで抱えていくつもりでいる」 元親は悲哀を込めて元就を見た。「だからこそ、あんな事をしなきゃなんねぇ世の中に、もどしちゃいけねぇと思うんだ」 元就は、静かに目を見開いた。何事か言わなければと思うのに、元就の唇は震えるだけで、声が出ない。くだらぬ、とでも言えばいいだけのことなのに、元就の喉は詰まって音を通さなかった。「家康は、アンタにあんな事をさせなくてもいい世の中を作る。必ずな」「っ!」 雷に打たれたような衝撃が走り、元就はそれを堪えるために、総身に力を入れた。「人は変わる」 ぽつりと言った元就の言葉を、元親は違う意味で捉えた。「変わりゃあ、いいじゃねぇか。毛利」「絆で世を統べるなど、戯言よ」「それを本気にしようとしてんだよ。アイツは」「くだらぬ」 元就は体ごと顔を背けた。「人は変わるって言ったのは、アンタだろ」「おめでたい思考しかできぬ貴様には、我の言葉など理解できぬ」「なら、頭の悪い俺にも理解できるように、会話をしようぜ。毛利」 元就は返事をせずに、歩きだした。「日の沈む頃に、なんか旨い肴でも持って行くからよ。酒をたっぷり用意して待ってろよ!」 元就が返事をしなくとも、あの男は満面の笑みで「獲れたての魚だぜ」などと言いながら、日没頃に現れるだろう。まったく迷惑な男だと思う元就の唇は、ほんのりとした笑みに染まっていた。(あれと呑んでおくのも、後々のことを思えば有益なこと) 酒の手配をしておくかと、元就は心地よい胸のざわつきを抱えながら帰路をたどった。 2014/08/28