手綱を引き、駆けていた足の馬を緩める。少し汗ばんだ馬の首を撫で、真田幸村は馬を歩かせ緩やかな坂を下り、沢に出た。馬に川の水を飲ませ、自分は手近な岩の上に座り、竹筒を出して水を飲む。 空には高く、鳶が声を上げて旋回していた。徐々に色を変え始めた山の木々に目を細め、肌に触れる空気がさらりとよそよそしいことに、幸村は胸の奥深くにまで秋の気配を吸い込み、ここまで駆けて来たことで火照った体の芯の熱と入れ替えた。 ふと、鼻に金木犀の香りが届いた。どこかに生えているのだろう。その姿が見えぬものかと首をめぐらした幸村の目に、斜面を滑り降りる人の姿が見えた。 とっさに身構え、周囲に目を配る。自分の装束は着物に袴で、得物は手槍と脇差しかない。戦の時とは違う備えだが、相手が一人ならばなんとかなるだろうと目算し、相手の姿を眉を高めて見つめ、幸村は唇を引き結んだ。 ――山伏や僧侶、旅巫女や修験者に化けてる斥候っていうのは、結構いるんだからね。 修行の身である神聖のものだと思って侮ってはいけないと、彼の腹心である忍、猿飛佐助は、疑うことを知らぬのではないかと思うほど純無垢な主に、口を酸っぱくして言い続けていた。その甲斐あって、今の幸村は目に映った修行僧に警戒の目を向けている。 大きな声を出せば届く距離であるが、幸村は相手に何者かと問うことはせず、ただじっと相手の動きを見守った。修行僧は坂を滑り降りると、心底参ったというように首を振り、立ち上がり、土ぼこりを払って川のそばへ行き、手を洗った。そうして笠を取り手ぬぐいを水に浸して禿頭を拭き、顔を拭き、首を拭いて胸元から脇に手を入れ、胸の辺りもぬぐった。ふうっとひと心地ついたように息をついてから水の流れを眺め、きょろきょろと周囲を見回し馬に目を留め、警戒をしている幸村に気付いて、にこにこと親しげな顔をして歩み寄ってくる。 警戒を緩めぬまま、幸村は歩み寄ってくる僧侶を迎えた。「いやあ、参りました。イノシシに出くわし、慌てたところに足をとられ、滑り降りてこの様です」 ははは、と禿頭をつるりと撫でた僧侶は、善浄と名乗った。「いやしかし、人に会えてよかった。街道に出る道を、後でお教え願えませんか」 善浄はあまりにも無防備にすぎて、幸村はその何者をも受け入れるような啓けた気色に、意識をせず警戒を解いた。元来、素直な性質の彼はニコリとして「それは難儀でござったなぁ。お怪我などは、ございませぬか」「ああ。これはこれは。ご心配痛み入ります。ほんの少し擦りむいたぐらいで。いやでも、川の水でぬぐいましたので、ほどなく消えてなくなるでしょう」 善浄の返事に、幸村はコクリとうなずいた。「ようござった」 ぐるり、と太い猫が喉を鳴らすような音がして、善浄が腹を押さえ、恥ずかしげに困惑の笑みを浮かべる。それに幸村が目じりを細め、馬の傍に寄って鞍につけていた荷を解いた。ここに、出かける前に佐助の作った団子が入っている。「よろしければ、団子を共に召し上がられませぬか」「なんと! ああ、いやいや。しかしそれは貴殿の――」 断りをいれようとする善浄の腹の虫が、それはありがたいと言いたげに、ぐるり、と鳴いた。「遠慮なさらず」 幸村の再度の勧めに、それではありがたくと善浄が合掌した。 のどかな空に、馬が心地よさそうに休んでいる。さわさわと流れる川の音は心地よく、肌に触れる空気は澄んでいる。そして、佐助の作った団子はいつもどおりに美味だった。「これは、おいしゅうございますな」「某の、自慢の者が作ってござる」 ほこらしげに幸村が胸をそらすのに、おやと善浄はまばたきをした。「貴殿は、もう睦むべき相手をお持ちでしたか」 かあっと幸村の頬に朱が差した。「い、いいいいや、その、ち、違いまする。そのような破廉恥な……これは、某を守り導き、さまざまに学ばせてくれる男の作でござるゆえ、その、契りを交わした相手は、某は、その」 幸村の初心な姿に、善浄が呵呵と空に向かって声を上げた。「あはは。それほどにうろたえられずとも、よろしいでしょう。見れば、どこかの身分ある方とわかります。あなた様ほどの年頃ならば、よき姫君と娶わせられておられても、不思議は無い」「某は、いまだ若輩にて。修練の終わらぬ未熟の身で、そのような破廉恥なことは致しませぬ」 真っ赤になったまま目をそらし、唇をもごもごと動かす幸村を見る善浄の目が、兄のような父のようなそれになった。「未熟なればこそ、妻を娶り共に成長をしてゆく、という道もございましょうものを」 え、と以外な言葉を耳にして、幸村は目を上げた。「一人ではわからぬことを、二人で考え乗り越えるという道も、ございます。また、夫婦になり、親になればこそ見えてくる世もあるというもの」 不思議そうに幸村が首を傾げれば、少々意地の悪い笑みを浮かべて、善浄が口を開いた。「お若き身であれば、色身に悩ましい熱が凝ることも、ございましょう」「んなっ、そ、そのようなことは……」「無い、とは言わせませんよ」 柔和な物言いであるのに有無を言わせぬ強さがあって、幸村は言葉を飲み込んだ。「そのような悩みが成るのは、如何な事とお考えなのでしょう」「そ、それは……某が未熟ゆえ。某の敬愛するお館様は、仏門に入ってござる。法名をいただき、自身を律し、民を安寧へと導かんとなされておられる。お館様はきっと、某のような惑いはお持ちではござらぬ」 自分で言って、きっとそうだと確認しうなずく幸村に、善浄はクスクスと喉を鳴らした。「なにゆえ、お笑いなさる」「お若く真っ直ぐなさまが好ましいと、胸くすぐられたのでございますよ」「よく、わからぬ」 むすっとして、幸村が団子を口に入れた。「仏門に入ったからといって、全てが妻帯をせぬわけでも、女犯を行わぬわけではございません」「なんと!」「不淫戒、というものが仏門にはございますが、かの親鸞上人は妻帯をなされておいででした。功徳が欲しいと、供養をして欲しいと申して、僧籍にある者にその身を開く女子もございます」 ふうむ、と幸村がうなり考える。そういえば、そのようなことを耳にした事があったような、と記憶をさぐった。「男が女を求め、女が男を求め、それゆえ子が出来、脈々と血が流れてゆくのです。人も、獣も同じこと。もしも不淫戒に重きを置き、誰もが異性を愛さず交わらぬとなれば、人の世は尽きてしまいましょう」「そ、それは。それはだから、その、なんというか」 もごもごとする幸村に、問うように善浄が顔を近づける。「若さゆえに体が滾ることを、不埒だとお思いなさるな。もし不埒だと思われるのであれば、なにゆえ、そのように感ずるのかをつきつめなされ。それとも、不埒と思う理由をお持ちなのですか」「不埒と思う、理由」 そうです、と善浄が深くうなずく。「理由もなく、破廉恥とおっしゃられていた――?」 うっと言葉に詰まった幸村が、目をそらして言葉を捜す。「それは、その。戦場の後には、その、高ぶりを鎮めるため、無体を行うものが、おりまする。そのようなことは決して許されぬことと、存じておりまする。法名をいただいてまで高き志をお持ちであるお館様に、心身ともに仕える我が身なればこそ、そのような破廉恥なことをいたさぬよう、普段より己を律するべきと」 自分の裡を確認しながら言葉を見つけ、それを音にしていく幸村の誠実さに、善浄は目を細めた。「それでは、睦まじく支えあい、子を成した夫婦はいかが思われる」「それは」「子が成ったと、誰かの喜びを共にしたことはございませんか」 新しい命が生まれたことを、喜んだことはある。小さく儚く頼りない、片腕に収まり支えられるほどの命を見たときに、懸命に生きている生命力の塊に触れたときに、心の底から得体の知れぬ喜びと熱き慈しみが、こんこんと湧き上がってきたことを思い出し、幸村は口をつぐんでうつむいた。「誰かを恋しいと思い、その相手を懸命に守ろうとする人を、あなた様は破廉恥とおっしゃるのですか」 ぎゅっと拳を握った幸村に、善浄は細く長く息を吐いた。「求めるは必定。人は、誰かを求めてしまうものなのです。抱きしめてくれる手を。導いてくれる手を。慈しんでくれる手を。そして同じように、抱きしめたいと思う者を。導きたいと思う者を。慈しみたいと思う者を。それが異性へと向かった折に、あなた様は破廉恥だと仰るのでしょう」 幸村は、拳を握りうつむいたまま、じっとして動かない。けれどその全身は善浄の言葉を拒んでいないと、何かを汲み取ろうとしていると示している。「相手がどのような場合であれ、慈しみたい、守りたい、愛したい、抱きしめたいと望むのは、尊いこと。また、そう思う相手に同じように自分を見てもらいたいと望むのも、自然の理。その若い肉体が悩ましきことになるのも、誰かを求めてやまぬ命の営み、御仏の導きの一つでもあるのです」「あさましき有様になる身が、御仏の導きとは、いったい……」 にっこりと、善浄は包み込むように頬を緩めた。けれどそれは秋の空のようにどこか遠くて、幸村はその表情の中にある彼の言葉を見つけようと目を凝らした。「同じ事柄であっても、こなたとあちらでは思いが違うことが往々にございます。人の心は見えぬもの。同じ事象であっても現す時や場所、現し方で如何様にも変化いたします。――ああ、もう日が暮れてしまいそうですね。早々に経って行かねば。すみませんが、街道に出る道は、いずこでしょうか」 善浄への問いに気をとられている幸村は、無言で自分が馬と共に来た道を指し示した。「おお。あのようなところに小道が。いや、これは助かりました。団子も大変おいしゅうございましたと、作られた方にもどうぞ宜しくお伝えください」 では、と合掌した善浄が去っていく。その背中を呆然と眺めた幸村は、茜に染まりだした秋空を見上げ、馬に目を向け、はっとして立ち上がり手綱を握り、善浄を追いかけた。「善浄殿っ! 秋の日暮れは早うござる。馬が苦手でなくば、某と同乗いたされよ。目的の場所まで、ご案内つかまる」「おや。それはありがたきこと。あなた様と出会えたことも、御仏のお導きかもしれませんなぁ」 のんきな笑みを浮かべた善浄を馬に乗せ、自分もまたがり馬を歩ませる幸村が、先ほど受けた言葉に悩む。それに、善浄が微笑んだ。「何事も、受け入れてみてからでなくば、道は見えませぬ」「受け入れる」「あたまから拒絶をしては、何事も見えませぬので」 受け入れる、と口内で呟いた幸村は、屋敷に戻っても一睡も出来ぬまま、自らが何ゆえ恋を破廉恥と言っているのかを考え抜いた。考え抜いても理由がわからず、明け方になり寝不足でうつらうつらとしながら歩く幸村を、佐助が心配そうに見る。「何。どうしたのさ旦那。なんかあったの?」 むろん、佐助は忍であるので、幸村が昨日、妙な坊主を拾って里の寺に送り届けたことを知っている。その坊主の名が善浄であることも、斥候の疑いの無いことも、朝早くに次の寺へと出立したことも、知っていた。どういう経緯で幸村が馬に乗せて寺に運んだのかは、幸村自身から聞いている。けれど、どんな会話をしたのかは、幸村にしては珍しく、言葉を濁して答えてはくれなかった。「昨日の、旦那が馬に乗せた坊さんと何か、関係があるの?」 親身な声で問えば、力なく幸村が「うむ」と呟く。「受け入れなければ、何も見えぬと申されたのだ」「は?」 禅問答でもしたのだろうか、と佐助は考える。この単純な主は、イノシシのごとく真っ直ぐだ。それゆえ、すぐに頭をこじらせる。愚鈍なわけではなく、素直すぎた。「破廉恥は、破廉恥では無いと」「はぁ?」 ますます佐助にはわからない。幸村が破廉恥というのは、色恋沙汰のことであることが多い。この年にしては心配になるほどに初心すぎる主は、いったいどんな話をして、眠れぬほどに悩んでいるのか。「旦那。そんな断片的だと、俺様さっぱりわからないんだけど」「俺も、わからぬ」「えっと。順序だてて話をしてもらえるかな?」 困ったように眉を下げて、幸村が佐助を上目に見た。「戦の高ぶりを治めるために、女を求めるは破廉恥だ」「ああ、うん」 真っ直ぐすぎる幸村には、それは人道にもとる行為としてしか見えないのだろう。それが戦国の習いだと言っても、全力で拒み否定する。「だが、睦まじゅうしている夫婦に子が出来るは、喜ばしいことだ」「うん、そうだね」 幼き子どもを目にした幸村の、とろけるような慈しみを佐助は見たことがある。心の底から寿ぐ彼を見ながら、彼もまた家の存続のために姫を求め子を産ませねばならぬのだと、どこぞの姫と娶わせられても不思議ではない年頃なのだと、胸裡に思ったことがあった。「わからぬ」「何が」 唐突な疑問に、佐助は幸村の思考が最後の言葉からどう動いたのかを考えた。「恋というは、破廉恥だ」「いや、ううん。どうかなぁ」「だが、破廉恥ではない」「えっと」「それが、わからぬ」「俺様は、旦那が何がどうわからないって言ってるのかが、わかんないんだけど」 鼻の頭を掻く佐助に、幸村が目を丸くした。「佐助でも、わからぬことがあるのか」「いや、うん。えっとね旦那」「それでは、お館様にご教授いただく他は無いな」「あのね旦那」「なれば早速、この幸村の悩みを、未熟さを、お館様に申し上げ、ご教授いただこう」「ちょっと待って旦那。俺様がわかんないって言っているのはさ」「うぉおおお館様ぁああぁあああ! お尋ねいたしたき事がございまするぁぁああぁああああ」「うぇええ、旦那ぁ!」 走り出した幸村の背がどんどん小さくなっていくのを、佐助は頬をひくつかせて見送り「ったく。俺様の話を、最後まで聞いてから行ってよね」 ちいさくぼやくと、その姿を風に変えた。「未熟な幸村の悩みを、お聞きくだされぇえぇええええ!」 幸村の叫びが土煙とともに尾を引きながら、周囲に響き渡る。そうして武田信玄の下へたどり着いた幸村は、悩みを発し信玄の言葉を受け、目からうろこを落とし拳を握り嬉々とした所に、信玄の愛の拳を叩き込まれた。「ぐぼあぁあぁあああっ!」「何もかもを拒絶するにあらず! 一つの事象には、良きことも悪きこともあることを、しかと目を見開いて受け止め、その心の信ずるままに生きよ、幸村!」「お館様あぁあああ!」「幸村あぁあぁあああ!」 嬉しげに心の裡を拳に乗せて相手へ叩き込む二人を見ながら、幸村の悩みの理由を知った佐助は、やれやれと鼻の頭を掻いて、彼らが疲れるころに差し出す茶と茶菓子の用意をしに、台所へと向かった。 高い空に、鳶が旋回しながら鳴いている。 恋を破廉恥というているのではない。前田殿が人前で堂々と口にされたゆえ、破廉恥と申したまで。こうして、そなたと二人でおる場合は、破廉恥だとは思わぬ。だが、その……こ、恋しいなどという言葉を口にするのは、面映いのだ。2013/10/07