ざざざざざ―― 草を揺らして走るものがあった。それは確かな足取りで真っ直ぐに進んでいる。獣のようであるが、そうではなかった。 獣の道を、まるで慣れた里道であるように、人が走っていた。 彼の長い後ろ髪が、尾のようにたなびいて軌跡を描く。行き過ぎる彼の影は、衣の色もあいまって森を舐める焔のようにも見えた。 武田軍の若き虎、真田源次郎幸村。 それが、彼の名前だった。 幸村は獣道を息も切らさず走りぬけ、沢にたどり着いた。大岩がゴロゴロと転がるそこを、速度を落さず鹿のように跳躍し、川上にある滝を目指していた。 滝が近付くにつれて、彼の耳には激しい水音と共に、子どもの声や飛び込む音が聞こえてくる。それに、ふっと口元をほころばせて、幸村は子どもたちの歓声の中に走り寄った。 滝の姿が見えると共に、子どもたちが下帯姿で大岩の上にたむろしている。そのうちの一人が飛び込み、滝つぼに水しぶきを上げた。それに歯をむきだしにして笑みを浮かべた幸村が、岩を上りながら袴を落として帯を解き、着物を脱ぎ捨てる。幸村の姿に気付いた子どもたちが割れて、幸村に道を作った。それに笑みを深めた幸村が、下帯姿で子どもたちの間をすり抜け、空に自分の体を放り投げる。「わあっ!」 その高さと距離に、子どもたちが歓声を上げた。風に乗ったような滞空時間を持ってから、幸村はクルリと反転し、槍のように体を真っ直ぐに伸ばして水面に吸い込まれた。 幸村の伸ばされた指先が水面を突き破り、体が水に包まれる。耳に届く音の質が変わり、幸村は体をひねって差し込む光に顔を向けた。頭上で光が網の模様を描いて揺れている。幸村の足元を、魚がするりと泳ぎ抜けた。 水を蹴り、水から顔を浮かび上がらせる。そのまま泳ぎ岸に上がれば、子どもたちが幸村の着物と袴を抱きしめて、大きな目を輝かせ迎えてくれた。「幸村様っ」 興奮した子どもたちに笑みかけ、岩に上がった幸村はひと房だけ長い後ろ髪を絞った。鍛え抜かれた筋骨は逞しいが、子どもたちに負けぬほどの弾けるような若い生命力と、成長しきっていない危うさが残っている。何よりも、子どもたちに向けている彼の笑みは、いたずらざかりの年頃のようであった。 他国にも武勇を知られる、紅蓮の鬼と称されるほどの武将でありながら、隔てを感じさせぬ彼の空気に、里の子どもらは憧れと親しみを向けていた。「また、鍛錬で走ってきたの?」「ああ」 山を獣のように掛けるのは、戦場で駆けるのに役にたつ。獣の気配に気を配りながら足場の悪い、さまざまな高低を持つ木々が人の意図など意識せずに、好きに伸ばした枝を避けながら走るのは、幸村の内側に在る本能とも言うべき野生を伸ばすのに適していた。「幸村様、遊ぼう!」 子どもたちが幸村にまつわりつく。「おれ、飛び込めるようになったんだ」「鍛錬のたまものだな」 幸村が褒めれば、子どもが胸をそらして照れくさそうに鼻の下をこすった。子どもたちに囲まれた幸村は、乞われるままに木の枝を刀や槍に見立て、稽古をつけた。いずれ幸村と共に戦うのだと、純粋な瞳でまっすぐに告げて来る子どもたちに慕われるのは、悪い気はしない。幸村は髪が渇くまで子どもたちに稽古を付け、夕茜がちらりと姿を現す頃に、子どもたちは人の道から里に帰り、幸村は獣の道から屋敷へと戻った。「おかえり、旦那」「ああ。ただいま、佐助」 茜に染まりきった空の端が濃紺になりかけた頃、帰り着いた幸村を出迎えたのは腹心の忍、猿飛佐助だった。この忍、忍ではあるが幸村の世話役までこなしている。「まったく。こんな遅くなるまで山を駆け回って。夕暮れまでには帰ってくるようにって、言ってるだろ」「夕暮れまでには、帰って来ておるではないか」 幸村が弁丸と呼ばれていた元服前の頃から世話係をしていたからか、忍と主というよりも兄と弟のような会話を交わす。「空が茜になる頃までにって、俺様は言ってんの。夜の帳がかかりだす前に、帰ってきてよね」「佐助の髪色の頃に、ということだな」 ふっと笑みを浮かべた幸村が、橙色の佐助の髪に目を向けてから部屋へと向かう。ふわりと揺れた後ろ髪に目を丸くした佐助が「まったくもう」 呆れた鼻息を漏らして微笑んだ。「ゴハン、部屋に運ぶ?」「ああ、頼む」 背中越しに返ってきた言葉に、佐助は台所へ足を向けた。 近頃、幸村が山の中腹に在る滝で子どもたちに稽古をつけていることを、佐助は知っている。警戒を人に持たせない幸村の気質と、子どもたちの持つ「構ってくれそうな相手を見抜く」能力が、そういうことにさせたのだろう。幸村は滝つぼで出会う子ども、としか認識をしていないだろうが、佐助は配下の忍に調べさせ、どの村の子どもたちであるのかを把握していた。 この時代、子どもであろうとも油断は出来ない。子どもや動物を使い、相手を油断させて陥れるという事は、掃いて捨てるほど前例が在る。良く言えば純粋、悪く言えば単純な幸村は、子どもだましであろうとも、簡単に信じ込んでしまう。幸村を使えなくすれば武田軍の戦力はかなり落ちる。武田信玄の薫陶を受け、重用されている幸村を陥落すれば、戦を有利に運ぶ事が出来ると考える者は少なくない。なるべく彼が単純明快すぎる思考回路をしている、ということが人の口に上らないように気を付けてはいるし、戦場での彼の姿を見た者は、そうは思わないだろうが、それでも何処からか、彼が恐ろしいほどに単純であるということが、漏れてしまわないとも限らない。 狐の面を付けただけで、猿飛佐助ではなく天狐仮面という別の人物だと、本気で信じてしまった幸村を思い出し、味噌汁をよそいながら、佐助はそっとため息をついた。 佐助がそんな心配をしているとは知らず、幸村は運ばれてきた夕食を、見ているものが心地よくなるほどの食べっぷりで、ぺろりと平らげる。茶を一服すすりながら、幸村は控えている佐助に目を向けた。その視線に気付いた佐助が、先に言う。「明日も、鍛錬には付き合えないからね」「まだ、何も言っておらぬではないか」「言わなくても、わかるって」「何か、任務があるのか」「任務がなくっても、こまごまと俺様はすることがあるの。忙しいの」「ぬぅ」 納得しきれぬ幸村の顔は、幼い頃に聞かん気を見せた頃と変わりない。ふわりと心を和ませた佐助は、面には呆れを浮かべて肩をすくめた。「ま、ちょっとぐらいなら相手してあげてもいいけど」「まことか」 ぱ、と顔を輝かせた幸村に、ふふっと目元をほころばせた佐助が、ただし、と人差し指を天井に向けた。「昼餉の前の、一刻だけ。それ以上は、付き合えないからね」「うむ!」 頷いた幸村の膳を、佐助が持ち上げる。「それじゃ、俺様は明日のために早めに休ませて貰いますかねぇ。旦那の相手は、体力いるから」「おお。早く休め」「旦那も、夜更かししないようにね」 そんな会話を交わして、佐助は幸村の部屋を辞した。「俺様も、甘いよなぁ」 ぽそりと呟いた佐助の唇は、やわらかく持ち上がっていた。 続き→ 2013/11/14