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秋色主従

 火薬の香。
 生臭い鉄を含んだ匂い。
 生暖かく、どろりとした赤黒い化粧。
 それらを覆い隠す、カラスの翼よりもなお黒い、闇。
 忍にふさわしい装いとは、そういうものだ。だから、だから彼の存在はとても不快で、不必要で、反吐が出るようなものであるはずなのに。どうしてこんなにも胸が温かく泣きたくなるほど、愛おしいのだろう。

 ぱたぱたと軽い足音が、急ぐ速さで自分に近づいてくる。気づいているのに、猿飛佐助は薬の調合をやめようとはしない。佐助の頬を、ちろりと年かさの忍の視線がつついた。けれど佐助は無視をして、すり鉢でゴリゴリと薬草をつぶしている。
「さすけっ」
 軽く息を弾ませて、少し照れくさそうにふすまの隙間から覗き込んでくる顔は、背中を向けていても佐助には見えていた。心の中に、彼の――幼君、弁丸のくるくると万華鏡のように変化する表情が、目を向けなくとも浮かびあがるほどに、佐助は彼と過ごしていた。
 子どもの世話には子どもを、ということで命が下ったのか。弁丸が遊び相手が欲しいと言って、年頃の近い佐助に白羽の矢があたったのか。
 忍の佐助が武家の子である弁丸の世話役となって、半年が過ぎようとしていた。
 そっとふすまから身を滑らせて、弁丸が近づいてくる気配を感じながらも、佐助は手を止めない。以前、ふすまを勢いよく開いた彼を、忍の部屋には秘密が沢山あるのだから、そんなふうに開けてはいけないと冗談半分で注意をしてみた。それを覚えていて、そっとふすまを開いて隙間から身を滑らせるように入ってきたのだろうと思うと、胸の奥がクスクスとこそばゆくなった。こそばゆくなりながら、武家の子息が忍風情の言いつけを守るなんて、と思ってみる。
「さすけ」
 ぺたりと佐助の横に座り込んだ弁丸が、くるくると丸い目で下から覗き込んできた。そこでやっと、佐助は弁丸に顔を向ける。ふっくらとした頬は赤みを帯びていて、見た目どおりに柔らかく温かいことを知っている。曇りのない瞳に、自分の姿が映っている。ひやり、と佐助の胸を寒風が撫でた。
 無垢な瞳に映る自分は、火薬の香を焚きしめて身にまとい、死化粧を施し慣れている忍だ。何の憂いも疑いも持たぬ、清流のような瞳に映る自分が、ひどく汚く穢れている存在に見える。無垢な瞳が、自分の姿を見るたびに濁ってしまうのではないかと不安になる。
「あんまり忍のいる場所に来るもんじゃないって、言っているだろ」
 だから、突き放すような声を出した。
 ぐっとひるむ気配を見せた弁丸は、唇を引きむすんで佐助の顔をまっすぐに見つめてくる。先ごろも、生きていた人間を肉塊に変えた。ずぶりと肉に刃物を差し込む感触は、馴れるほどではないが違和感なく手に残っている。そんな手で、幼い主は抱き締められたり撫でられたりされたいと、無邪気に全身で言葉にせずに訴えてくる。期待を込めたまなざしで、愛してくれと全身で叫びながら佐助のそばに来る。
「やくそく」
 ひるみそうになるのをこらえて、弁丸がぽつりと言った。
 約束。
 覚えている。ちゃんと、佐助は覚えている。けれど弁丸が忘れてしまえばいいと思っていた。こんな、薄暗い仕事をしている自分と出かけることを、楽しみにしているなんて。忍風情を慕い、甘えてくるなんて。
「やくそくを、したぞ」
 深く胸の奥に息を吸い込んで、弁丸がしっかりとした声を出す。
「ああ。そういやぁ、そうだったね」
 今の今まで忘れていた、という顔をして、佐助はすり鉢を少し遠くへ押した。弁丸が期待を瞳にのぞかせる。
 こんな顔をして、自分にまつわりついてくるのは、あと二年か三年ほどだろう。身分というものを自覚し、自分がどんな仕事をしているのかを知れば、弁丸との距離ができる。その時に、自分が弁丸にほだされきっていないように、今から踏み込みすぎないようにしておかなければいけない。
 佐助は、そう思い極め、自分を戒めていた。
 この、いとおしく愛らしい、柔らかく温かな存在が、自分の心の中の大切な部分に住みつき始めていることを、佐助は危険なことだと認識していた。
 武田の忍が情を持って主に仕えるという、特殊な存在であることは理解している。それに照らせば佐助の感情は問題がないのかもしれないが、佐助はそれを受け止めきれずにいた。
 大切だと思うがゆえに、疑問を感じたこともなく汚いと認識をしたこともない忍の仕事を、弁丸の姿を見るたびに後ろめたく感じてしまう。この身にまつわりついてくる無垢なものを、間接的に穢してしまうような気がした。
「だんご」
 小さな手に余る包みを差し出してくる弁丸は、少し得意げだ。褒めてほしいと、顔に書いてある。佐助の背中を押すように、他の忍の視線が優しく佐助と弁丸を包んだ。心底しぶしぶという顔をして息を吐き、佐助が立ち上がる。
「お団子があるなら、お茶も用意しないとね。夕餉までには帰らなきゃいけないから、遠くまではいけないよ」
「わかっておる」
 むん、と胸を張って手を挙げた弁丸に、思わず笑みがこぼれた。自分を包む他の忍の視線が和んだのに気づき、佐助はあわてて表情をひきしめる。
「それじゃ、行きますか」
「うむっ」
 小さな手が佐助の手をつかみ、薬指を握りしめた。手をつなぐのには弁丸の指は短くて、いつもこうなってしまう。ぐいぐいと手を引かれながら、佐助は弁丸と約束をしていた紅葉狩りに向かった。

 ぽかりぽかりと空に小さな雲の塊が、順番に並んで浮かんでいる。その下を、弁丸に指を握られた佐助は歩いていた。
「よいてんきだなっ」
「そうだねぇ」
「よいてんきだ」
「うん。いい天気だねぇ」
 うきうきと、同じ言葉を繰り返す弁丸に、佐助は同意を繰り返す。満面の笑みと幾度も出てくる同じ言葉が、弁丸がどれほど今日を楽しみにしていたのか。どれほど嬉しいのかを示していた。そしてそれを受け止める佐助は、つまらない顔をしながらも心中では楽しんでいる。
 時折、すれ違う里の者がほほえましい目を向けてくる。彼らには、自分たちはどう見えているのだろうか。兄弟……は、無いだろう。弁丸の着物と自分の着物の質は明らかに違っている。
「いい天気だねぇ」
 秋の実りを山から頂戴してきたのだろう。通りすがりの背に籠を背負った老婆が、にこにこと声をかけてきた。
「さすけと、もじみがりにいくのだ!」
 得意げに弁丸が胸を反らした。
「あらまぁ。それはいいことだねぇ」
 皺の一部のように目を細めた老婆が、背中の籠を下ろしてアケビをふたつ弁丸に差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「かたじけない」
 佐助の指を握っていた手を放し、弁丸が両手でそれを受け取った。ふいに温もりが消えた薬指が、寒く感じる。
 穏やかな笑みを浮かべた老婆が佐助に目を向けて、佐助は礼を言いながら頭を下げた。
「迷子になっちゃいけないから」
 両手でアケビを胸に抱えている弁丸に手のひらを差し出せば、素直に渡してくる。それを懐に入れれば、弁丸がまた佐助の指を握りしめた。
 今度は、中指。
「よいものを、もらったな」
「そうだねぇ」
 アケビなど、山に入ればいくらでもとれる。佐助は忍であるから、常人の手の届かぬ高い枝のものを取ることもできる。つまらないもの、とまでは思わないが、むふぅと鼻息をもらして満足げにする弁丸ほど喜んではいない。どうしてそこまで喜べるのか、不思議にすら思う。けれど彼が満足そうにすることで、佐助も満足感を得られるので、あの老婆には感謝をしないとな、と考えた。
「よいてんきだなぁ」
「そうだねぇ」
 意気揚々と、弁丸が同じ言葉を繰り返し、佐助も同じ言葉を返し続ける。てくてくと歩き続けて山道に入り、ゆるやかな坂を抜けて小川のほとりに進めば、折り重なり色づいた山の木々が川面に照り映えて、輝いていた。
「おおっ」
 弁丸の目が輝く。佐助も、思わず感嘆の息をもらした。豊穣な土の香りは甘く、ひんやりとした空気の中で控えめに二人を包み込んでくれる。
「きれいだな、さすけ」
 にっこりと見上げてくる顔に、佐助も素直に笑顔を返した。
「きれいだねぇ」
 佐助の指を離した弁丸が、軽く駆け出し大岩の上によじのぼる。座ると、ぺしぺしと自分の横を叩いた。
「さすけっ」
「はいはい」
 そばにより、ひょいと簡単に佐助が座れば、弁丸はアケビをもらったときよりも満足そうな鼻息をもらした。
「お団子、たべよっか」
「うむっ」
 両手を差し出した弁丸に、団子を渡す。幸せそうにほおばる弁丸を見つめ、景色を眺め、穏やかなせせらぎの音に耳を打たれながら、佐助は身に浸み込んだ剣呑で薄暗いものが薄らげばいいと望んだ。
 忍であることを、厭うたことはない。天職であるとすら感じている。けれど弁丸のそばにいるには、血なまぐさすぎる。弁丸もいずれ戦に出ると認識はしているが、実感が伴わない。この無垢で柔らかなものが、自分と同じように人の肉に刃を突き立てる感触を知る時が来るなど、想像もつかなかった。
「さすけ」
「なぁに? お団子、もうないよ」
「ちがう」
 ぷっと弁丸のほっぺたが、熟れた柿のように膨らんだ。
「のど渇いたの?」
 ふるふると弁丸が首を振った。
「さすけと、おなじだ」
「は?」
 何が言いたいのか、さっぱりわからない。
「さすけと、おなじだ」
 にいっと歯を見せて笑った弁丸は得意そうで、佐助は首をかしげた。彼がよくわからないことを言い出すのは、今に始まったことではない。いつだって彼独特の感覚なのか、この年頃の子どもはすべてがそうなのか、不思議な感覚で物を言い出すことは珍しくなかった。
 ふふふぅっと幸せそうな笑みの息をもらした弁丸が、ぱたりと佐助の膝に甘える。
「さすけ」
「なぁに」
 膝に乗った弁丸が手を伸ばし、佐助の髪を撫でた。
「さすけと、おなじだ」
 それが髪の色と秋色に染まった木の葉を比べているのだとわかるまで、少しの間があった。
「――ああ。そっか。うん。そうだねぇ。同じ色だねぇ」
 ほほ笑むと、弁丸はくすぐったそうに肩をすくめて佐助の胸にしがみついてきた。少しためらってから抱きしめ、少し癖のある髪をなでる。
「弁丸様の髪の色は、クリと同じ色だねぇ」
 そんなことをたわむれに言ってみれば、驚いた顔をして弁丸が顔をあげた。まんまるの目がこぼれおちそうなほど開かれ、佐助を映している。
「え? なに」
 佐助がたじろいでしまうほど、弁丸は全力で驚いていた。何をそんなに驚かれているのか、分からない。しばらく無言で見つめあっていると、弁丸がへにゃりと溶けるように幸せそうな顔をして、佐助の胸に顔をすりよせた。それが照れと喜びを示していることを、佐助は知っている。知っているが、どうしてそうなったのかがわからない。髪の色と木の葉の色が同じだと言われたから、クリの色と弁丸の髪の色が同じだと返してみただけなのだが――。
「さすけぇ」
 甘えた声で呼ばれ、見ているこちらも幸せになるほどの笑みで見上げられ、佐助の頬がゆるむ。ふふっと照れくさそうな笑みの息をもらした弁丸が、ぎゅっと佐助にしがみついた。
「おなじだな」
「なにが?」
「おれと、さすけがだ」
 小首をかしげて見せれば、弁丸が全身を委ねるように佐助に甘えながら照れ笑いをした。
「おなじ、あきのいろだ」
 その言葉はまっすぐに佐助の胸をとらえ、深く深く突き刺さった。
「俺と、弁丸様が、同じ――?」
「おれも、さすけも、あきのいろだ」
 繰り返した弁丸は心底うれしそうで。
「……そっか。そうだねぇ。俺様も、弁丸様も、同じ秋の色だねぇ」
 腹の底を喜びにくすぐられながら、泣きたくなるほどの温かさにつきあげられて、佐助は弁丸を強く抱きしめた。
 どうか、この無垢な人が、ずっと無垢なままでいられますように。
 この身が闇に堕ち染まったとしても、この人は無垢なままでいられますように。
「さすけとおれは、いっしょのいろだな」
「そうだねぇ」
「ずっと、ともにあろうな」
「うん。ずっと、一緒にいようね」
「やくそくだぞ」
「約束するよ」
 さわりと木の葉が鳴った。それは、山の頬笑みのようであった。

2013/11/25



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