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木魂

 獣の尾のように、ひと房だけ長い後ろ髪が舞っている。汗を止めるために巻いているのか、気合を入れるために巻いているのか。真紅の鉢巻が栗色の髪と共に踊っていた。
 くるり、くるり。
 それはとても楽しそうに、草木とたわむれる風が色を持ったように思えるのに、持ち主の発する声は勇ましい。
「うぉおおおおっ!」
 獰猛な獣の雄たけびにも似たものを吐いて、彼は両手に握った朱塗りの槍を振るい、姿の無い、彼の意識の瞳に映る誰かに挑んでいる。
 そこにいないはずなのに、彼の動きから輪郭が浮かぶ相手は、どんな人間なのでしょう。
 そんなことを思うとも無しに思いながら、私は彼を見つめている。
 弾けたように春を迎え、萌える草木や花々に負けぬほど、命をきらめかせて溢れさせる彼の姿を。
 彼は冬の間でも、鍛錬を欠かした事はない。体中から湯気を発して勇ましく舞う彼は、眠る命を鼓舞しているようにも見える。
 そして今。
 全ての雪が溶け去り、花々が輝き、新緑が甘い香りを風に溶かす春の彼は、萌える季節を受け止め弾け、さらにその先へと導いているようだ。
「はぁああっ!」
 切先が空気を斬り裂き、風を起こす。どっしりと大地を踏みしめた彼の動きの名残を、後ろ髪と鉢巻がなぞって落ちた。全ての動きが落ち着いてから、彼は細く長く息を吐き、落としていた腰の位置を戻して、まっすぐに立つ。その眼差しは、目に見えるものよりも遠い場所を映しているようだ。時の先にあるものが、その目に映っているようだ。そこにあるものを見てみることはできないのかと、私はそっと彼の瞳を覗いてみたくなる。
 彼はいつも、時の先を見つめていた。年端も行かぬ、彼が今とは違う名前で呼ばれていた頃から、ずっと。
 幼い手に身の丈にあった、今よりもずっと短い槍を手に、ふくふくとした丸くやわらかな顔を、きりりと引きしめて。細く高い声を、せいいっぱい振り絞って。
 そして懸命に鍛錬をし、汗みずくとなった彼が小休憩をする頃を見計らって、闇を纏う深緑の風が親しげに声をかけるのだ。
「旦那ぁ」
 その声を聞くと、彼は朗らかに、さっきまでの鋭さを霧散させる。
「佐助!」
 一言で、相手が彼にとって、どういう存在なのかを示しすぎるほどに証明する、親しみと信頼と、ほんの少しの気心の知れた者にしか向けられぬ、無意識の甘えを含んだ音。
 先ほどの見えぬ相手とは違い、私はこちらの姿を何度も目にしていた。どろりとした濃い闇は、何もかもを輝かせる日の光りの中にあっても消えることは無い。それほどの闇を有していることを、深緑の風は自覚している。そして昔は彼に隠していたそれを、今は隠すことも見せることもせずに、ただ纏っていた。
 そして彼は、輝き萌える魂のままに、燃え盛る炎のような気質で、その闇を包みこんでいる。
 ぬくもりを与え育むものであり、全てを妬き尽くし無に帰するものでもある彼の気性は、それと気付かず陰陽のどちらのものをも引き寄せる。良いもの悪しきもの問わず、引き寄せる。深緑の風は彼に引き寄せられた、仇成すものを排除せんと自らの闇を駆使し、彼に照らされ闇を濃くさせるのだ。
 忌む闇は恐怖を与え、包む闇は安らぎを与える。
 それらを使い分ける深緑の風は、いつも彼の傍らにいる。深緑の風はきっと、私が見る事のかなわない、彼が先ほど影を追い対峙していた何者かを、知っているのだろう。
「はい」
「おお、すまぬ」
 深緑の風が濡らした手ぬぐいを渡すと、もろ肌脱ぎとなった彼が顔を、肩を、腕を胸を腹を拭う。溢れこぼれそうになる命が流れ出してしまわないように、彼の魂を包み地上に繋ぎ止めている肉と皮膚は、若々しく引き締まり、血脈の流れが生き生きとしていることを示していた。
 いつか、この雄々しき肉体を魂が突き破り、どこかへ消えてしまうのではないかと、私は好もしさと同時に不安を浮かべてしまう。
「お団子、蒸したよ。醤油であぶって食べよっか」
「うむ!」
 深緑の風に誘われて、嬉々とした彼は鉢巻を取り私に目を留め、歩み寄った。
「すまぬが、しばらく預かってくれ」
 私の体――彼の目の高さにある枝に、彼は鉢巻を結びつけ、槍を立てかけ深緑の風のもとへ戻る。しばらくすれば、彼はまたここに戻り、鉢巻を額にきりりと結び、槍を手にして鍛錬に励むのだろう。
 何のために、彼が鍛錬をしているのか。
 話を聞くことはあるけれど、私にはよく理解が出来ない。鍛錬の成果を発揮するとき、彼は長期不在となる。私はそれがとてもつまらなく、早くそれが終わってくれればいいと願う。彼の姿の無い庭は、全ての色味が薄れてしまったようで、幹の内側に大きな洞が出来たような心地になる。
 私は知っている。
 彼が鍛錬の成果を発揮する場所は、もしかしたら彼が二度と戻っては来られぬようになるかもしれないものだということを。彼の肉体が何者かに引き裂かれ、そこから魂が溢れ飛び出してしまう場合もあるということを。鍛錬は、そうならないためにしていることだということを。
 鍛錬をする彼を眺めることは、とても楽しいことだけれど。そういうものの中に身を投じるためであると知ってからは、どことなく冷たいものも同時に感じるようになってしまった。
 いずれはそのような場がなくなるのだと、そういう場をなくすためにしているのだと。そういう話を幾度も耳にするたびに、それが今であればいいと、鍛錬をする彼の姿を見ながら願うのだ。そして「出陣」という言葉を聞くたびに、その願いはまだ叶わないのだと嘆息する。
 彼の皮膚が引き裂かれることになる前に、剣呑な場所がなくなってしまえばいい。獰猛に楽しげに励む彼を見ることが出来なくなるのは、少し寂しい気もするけれど。
 春は萌える季節でもあり「出陣」という言葉を聞くようになる季節でもある。その言葉に誘われて出た彼は、季節が変わってからでなければ、帰ってこないこともあった。その間の、なんとつまらない、なんと不安な心地であることか。
 足音が聞こえ、彼と深緑の風が戻ってきた。
「何もわざわざ、こんなところで昼寝をしなくってもさ」
 深緑の風が言い、彼が私の幹に手のひらを乗せた。
「この木の根元は、よい風が吹いて心地いいのだ」
 深緑の風が軽く肩をすくめて、私を見上げる。
「ま、わかんなくはないけどさ。木漏れ日も丁度よさそうだし。今日はあったかいから、風をひくことも無いだろうし」
「うむ。それに、木肌のよい香りがする」
 彼はニコニコと私の根の隙間に腰を下ろし、背を幹に預けた。
「目覚めたら、すぐに鍛錬できるってところも、旦那にとっては好都合なんだろ」
 からかう深緑の風に、彼は笑みを深めて肯定をした。
「それじゃ。俺様は忍道具の手入れでもしてきますかね、と。旦那、鍛錬のしすぎで体調をくずしたりしないでくれよ」
「わかっておる」
 深緑の風が、私の幹を軽く親しげに叩いた。
「それじゃ。旦那の子守、よろしくたのむぜ」
「なんだ、それは」
 ふふっと鼻を鳴らした深緑の風が肩をすくめ、それじゃあねと去っていく。それを見送った彼は私を見上げ、幼い頃から変わらぬ、とろけたような笑みを浮かべてまどろみ始めた。
 やがて寝息を風に交え、彼は私に身をゆだる。無防備な彼の姿を、彼の命の熱を幹に、根に感じながら、私は願った。
 もしも、もしも「出陣」という言葉が消えないままであったなら。彼の肉体が裂かれる危険が、この先もずっと続くのであれば。もし、もしも彼の肉体が「出陣」したその先で損なわれ、萌える命が流れてしまうのであれば。
 もし、そうなってしまうのであれば、どうかその時は、どうか。
 どうか、ああ、私の同胞よ。強くたくましい幹を持つ私の同胞よ。彼がいずこの同胞の傍で、そのようなことになってしまうのかは、わからないけれど。
 ああ、どうか。
 どうか、そのときは。
 今のようにおだやかに、彼がまどろみ眠れるように。その幹でやさしく包み、茂る木の葉で日差しを心地よく遮ってくださいますよう。
 ああ、どうか。
 どうか。
 子どものころと変わらぬままに、彼がほほえみを浮かべて世界に命を広げることが出来るように。
 どうか。
 どうか。
 いずこかの同胞よ。
 どうか。
 どうか。
 彼がこのおだやかな心地を、大地と魂を繋ぐ肉体で、最後に感じられるように。
 どうか。
 どうか。

2014/05/01



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