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腐草為蛍

 雨が降っていた。
 それは別段、珍しいことでもなかった。どんよりと重たい灰色の、肉厚な雲が山にかかっているのを、忍小屋の窓から見た猿飛佐助は、吹き込んでくる風の具合から「そろそろ降るな」と予測していた。
 それが、その通りになっただけのことだった。
 甲斐は武田の真田忍として、佐助が用いられるようになってから二年程が過ぎていた。まだほんの子どもであったが、その力量は大人をしのぐほどであり、妙な陰気を放つことから畏怖の目を向けられていた。
 そんな佐助を見た甲斐の領主である武田信玄は、彼を真田家の弁丸という少年の傅人とした。佐助の幼君は溢れるほどの炎気を持つ少年だった。
 他者とは違う資質を持つ者同士だからなのか、ただ勘の鋭いだけだったのか。弁丸は佐助の影の尋常でないことを看破し、それを特別な事とも思わず受け入れ、佐助に懐いた。
 始めの頃はとまどい、屈託無く笑い、怒り、泣く弁丸のてらいのなさに面食らっていた佐助だが、この頃には幼君の、人々の想像の範疇を越す言動などにも慣れてきている。少々の事では動じなくなった佐助には、少年らしからぬ、こしゃくな貫禄のようなものが漂いはじめていた。それを、佐助を忍と見る大人たちは遠巻きにする。佐助を年相応か、それ以下の子どものように扱うのは武田信玄か、彼が忍とは知らぬ者のみとなっていた。
 その、子どもらしからぬ忍の佐助が薬の調合を終えて、腰を上げた。そろそろ幼君の八つ時だった。体力が有り余っているとしか思われぬ幼君は、この雨でくさくさとしているのではないだろうか。自分の手は空いているので、少し位なら手合わせの相手をしてもかまわないかもしれない。
 そんな事を思いながら、佐助は手元のものを片付けた。
 梅雨の時期は、晴れの時であっても無数の湿気が張り付いて、体が重いような心地がする。幼君の手合わせついでに、そんな鬱屈したものを振り払うのも、いいかもしれない。
「薬、置いとくから」
 他の忍に声をかけ、佐助は草屋敷の戸を開けた。壁で隔たれていた雨音が佐助の全身を襲い、面倒くさそうに佐助は眉をしかめた。
 傘をかぶり、しぶきを立てないように足を運ぶ。それでも打ちかかる雨が跳ね返るのは、どうしようもない。すぐに佐助の足は、ふくらはぎまで濡れてしまった。
 それほど雨足が強かった。
 佐助の視界が雨に霞む。傘を打つ雨が激しく、重さを感じた。降りしきる水が大地を打つ音が、佐助と何かを遮断した。
 ぶるり、と佐助は胴震いをして立ち止まった。
 雨は、嫌いではない。
 ただしそれは、血なまぐさい仕事の時に限っていた。
 佐助は少年でありながら、暗殺の技に長けていた。人を殺す事に慣れていた。
 たわむれに、誰かが佐助に問うてみたことがあった。顔色も変えずに標的を屠れるは、忍の資質として申し分ない。いつから、そのように人を殺める度胸がついたのか、と。佐助はキョトリとまたたき、男をみて少し首を傾げた。
「人? 俺様が屠ってんのは、ただの猿だけど」
 それが、佐助を孤立させる決定的な要因となった。もともと影の力の濃いことで畏怖されてはいたが、子どもであるという侮りが、佐助を一人にさせなかった。大人は子どもを侮る。その侮りが、その一言で失せた。
 佐助はそこで初めて、自分が屠っているのは猿ではなく、人であることを知った。いや、知っていたのかも知れない。知っていたが、殺してもいい人間の誰もが猿に見えてしまうのは、自分だけでは無いと思っていただけなのかも知れない。
 そのやりとりで初めて、佐助は自分が異質である事をはっきりと認識した。それから、猿にしか見えぬ人の血を受けた手を、入念に洗うようになった。
「人を屠れば、その血は水で流して目視できなくなったとしても、身の内に沈んで消える事は無い」
 そんな言葉を、どこかで聞いた。耳の良い佐助は、探索に行く事もある。子どもの佐助は警戒をされにくい。里の子どもに混じり、情報収集をしていた佐助の耳に届いた声は、その時は何の感慨も受けないものであった。仕事には関係の無い、無用な言葉であった。覚えておく必要も無い言葉であった。
 それなのに、それが佐助の耳奥に居座り、ふとした瞬間に蘇るようになった。弁丸の笑みが意識の中に浸透し、瞼を閉じればすぐに思いだせるようになったころからだと、自分を他人のように観察できる佐助は気付いた。
 洗っても落ちぬ、人の死血のついた手の中に、満面の笑みを浮かべた幼君が飛び込んでくる。
 自分は穢れているのだと、佐助は唐突に、衝動的に思うようになった。
「ああ、つまんない」
 佐助はわざと、なんでもないことのように、迫る感覚を振り払うために言った。
 得体の知れているような、知れないような、不可思議な恐怖が雨と共に大地から佐助の足へ飛びついてくる。
 佐助は再び、胴震いした。
 梅雨の始めの雨は、まだ冷たさを残している。足が濡れて寒くなってきたからだと、佐助は自分に言い聞かせた。
 これは、妙な感傷からくる恐怖の寒気ではない。寒さに弱い自分が、雨に足を冷やされたからだ。
 土や緑の香りを含み濡れている空気を、佐助は胸いっぱいに吸い込んだ。体の隅々にまで染み渡らせ、空気に含まれる水分に、自分の中に浮かんだものを染み込ませるため、息を止めた。そうしてそれを、肺が空になるまでゆっくりと吐き出す。
「よし」
 佐助は小さくつぶやいて、濡れた地面を足裏で叩かぬように、忍の足取りで幼君のいる屋敷へと向かった。

 土間で足をすすいだ佐助が、手ぬぐいで体にまとわりついた水気を払っていると、蒸したての団子と温かな茶を盆に乗せた侍女が、ニコニコとやってきた。
「お茶も団子も、たっぷりと用意してありますから。佐助さんも、濡れて冷えたでしょうし。温まっておいきなさいね」
 侍女の言葉に、佐助はあいまいな笑みを浮かべて頷いた。侍女は佐助を幼君に年の近い傅人、としか認識していない者のひとりであった。
「弁丸様は?」
「お部屋で、退屈なさっておられますよ。あとで、道場なりと付き合うてさしあげてください」
 それに佐助は軽く肩をすくめて嘆息し、茶瓶と団子の皿を受け取った。
 雨音が耳に響く。
 仕事の時は、雨がいい。
 こんなふうに、今日のように激しく降る雨ならば、特にいい。
 体に猿の血がしみこむ前に、流してくれる。血の匂いが体につく前に、洗い流してくれる。
 ――人を屠れば、その血は水で流して目視できなくなったとしても、身の内に沈んで消える事は無い。
 佐助の耳にひそむ声が響いた。
 気にせずにいた頃の血は、もう皮膚に染み込み取れなくなっているのではないか。
 足元から寒気が湧きあがり、佐助は喉奥で小さな悲鳴を上げた。脳裏に浮かんだ温かな笑顔が、幼君の丸く澄んだ瞳が赤黒い血に遮られ、霞む。
 奥歯を噛みしめ、佐助は手にしているものを投げ出し、雨の中に飛び出してしまいたい衝動を堪えた。
 大丈夫だ、大丈夫。ただの幻影。この心が作り出した、幻だ。
 口の中で小さく呟き、佐助は二度ほど深呼吸をして気持ちを抑えた。
 お茶や団子が冷めないうちに、早く弁丸様のところへ行こう。
 足を速めた佐助は弁丸の居室の前に出た瞬間、気配の位置が庭にある事に驚いた。
 雨の中、泥だらけになって走り回っているんじゃ……。
 佐助の意識に浮かんだのは、それだった。雨続きで鬱々とした弁丸が、思い余って雨の中に飛び出してしまったのではないかと。弁丸には、そう佐助が思ってしまうような部分があった。けれど
「――え」
 雨に遮られた景色の中で、佐助が見つけた弁丸は想像したものとは違っていた。ただ、降りしきる雨の中にたたずんでいる。天を向いて雨を静かに受けている。
 ぞわり、と佐助の腕が冷たいものになでられた。団子と茶瓶を置いて、佐助はそろりと雨の中に降りた。
 降りしきる雨に佐助の足音は消され、弁丸は気が付かない。
 そろり、そろりと佐助は雨に邪魔をされながら弁丸を見つめ、ゆっくりと近付いた。
 真横に立っても弁丸は天を仰いだまま動かない。目を閉じ、静かに雨を受けている。
 いつから弁丸はそうしていたのだろう。
 声をかけようと唇を開いた佐助は、喉に音が引っかかって出ないことに気付いた。代わりに手を伸ばして肩に触れようと持ち上げた手が、雨に打たれて弁丸の肩に触れる前に落ちる。
 弁丸は、何をしているのだろう。
 どうして、雨に打たれているのだろう。
 これはまるで、自分のようではないか。
 体に染みた血のりを洗い流そうと、雨に打たれている自分と同じではないか。
 ぞっと背筋を凍らせて、佐助は踵を返して駆けだした。撥ねる水音に弁丸が気付き、走り去る佐助の背を見つける。
「佐助っ」
 弁丸の声が佐助の背を追いかけたが、佐助は忍とは思えぬような足取りで、雨の中を走った。水音が追いかけてくる。
「佐助ぇ」
 弁丸の声が呼んでいる。それでも佐助は走り続け、大木に飛び込むように体をぶつけ、動きを止めた。
「はぁ、は、はぁ、は」
 それほど長く走ったはずではないのに、息が上がっている。ぐっしょりと濡れた着物が重い。いや、それよりも、冷えた体が、心が、重かった。
 自分が血のりを洗い流そうとしているのと同じように、弁丸も肌身を雨に打たせていた。
 弁丸は人を屠った事が無い。それなのに、雨に打たれていた。それは、その理由は――
「っ!」
 佐助は自分を抱きしめた。歯の根が合わぬほどに震えている。
 ――人を屠れば、その血は水で流して目視できなくなったとしても、身の内に沈んで消える事は無い。
 佐助の身に染み込んでいた「人の死」が、弁丸に移ってしまったのではないか。感受性の強い弁丸は、それと気付かず身に穢れがあることにのみ気づき、雨に流そうとしていたのではないか。
 俺のせいだ。俺様のせいで、弁丸様が穢れた。穢れを移してしまった。
 弁丸の姿に感じた衝動的な恐怖が剥がれれば、出てきた理由はそれだった。
 恐ろしく混乱している自分と、冷静にそんな自分を分析しようとしている自分がいる。
 穢れを移したと思う自分と、そんなことがあるはず無いと打ち消す自分がいる。
 相反する佐助の意識が、彼をその場から動けなくさせていた。
 どのくらい、そうしていただろうか。
 自分を抱きしめうずくまる佐助の耳に、水を弾く足音が聞こえた。
「佐助」
 続いて、震える幼い声が背中にかかる。
 おそるおそる佐助が振り向けば、着物の合わせ目を握りしめ、今にも泣き出しそうな幼君がいた。
「なんで」
 追いかけてきた事はわかっている。それを振り切って、佐助は走った。どこをどう走ったのかは覚えていない。弁丸が追いつくほど、自分は長く木の根元にうずくまっていたのだろうか。それとも、それほど遠くまで走ってはいなかったのだろうか。しかしどうして弁丸は泣きそうな顔をしているのだろう。
「佐助ぇ、すまぬ」
 ぐし、と鼻を鳴らした弁丸の言葉に、佐助はゆっくりと立ち上がり、体ごと振り向いた。
「すまぬぅ、佐助ぇ」
 必死に涙を堪えて弁丸が言う。いや、ずぶぬれだから堪えているように見えているだけで、したたる雨の中に涙も混じっているのかもしれない。
 佐助の上に、雨は降っていない。大木の枝葉が、雨を遮っていた。
「弁丸様」
 佐助が手を差し出せば、そろそろと弁丸が枝葉の下に入った。
「なんで、謝るのさ」
 ひぐっとしゃくりあげてから、弁丸は全身に力を込めて泣くまいとしつつ、喋った。
「おっ、おれが、雨の中におったから。雨の中に、傘も差さずに出てはならぬと……」
 ふぅう、と唸った弁丸が口をつぐみ、自分の着物を握った。涙がこぼれそうになったのだろう。
 佐助は、差し出した手を弁丸に当てることなく、おろした。
「わかっているのに、なんで雨の中にいたのさ」
 ぐ、と力を込めてから、弁丸は佐助を睨んだ。いや、涙を堪えるために、睨むような顔になった。
「佐助が、そうしておったから」
「俺様が?」
 こくり、と弁丸が頷く。
「佐助が何をしておるのか、知りたかったのだ」
 そんな姿を見られているとは思いも寄らなかった佐助は、呆然と弁丸を見た。
「佐助が何を感じているのか、知りたかったのだ」
 堪えきれず、弁丸はボロボロと涙をこぼした。凍えていた佐助の背骨が、じわりと温かくなる。手を伸ばし、佐助は弁丸の涙に触れた。指先が痺れるほどに温かくて、佐助は両手で弁丸の頬を包んだ。
「おバカさんだなぁ」
 つぶやいた佐助に、弁丸が瞳を揺らす。
 俺様も弁丸様も、相当なバカだよね。
 心中でつぶやいた佐助の体が、温まった。
「こんなに濡れて、冷えちゃって」
「佐助とて、同じではないか」
 佐助は初めから怒ってなどいなかったのだが、そう思いこんでいた弁丸は彼の態度に、どうやら自分を許してくれたようだと解釈したらしい。安堵を滲ませ唇を尖らせる幼君に、佐助は微笑んだ。
「怒られちゃうね」
 いたずらっぽく佐助が肩をすくませれば、きょとんとした弁丸は胸をそらした。
「大丈夫だぞ、佐助。佐助は怒られはせぬ」
「なんで?」
「おれが雨の中に飛び出したのを、佐助は追っただけだ。佐助に非は無い!」
 きっぱりと言い切った弁丸は、どうやら佐助を守ろうとしているらしい。それに気付いて、佐助は胸をくすぐられ、喉を鳴らした。クックと笑う佐助を、弁丸は不服そうに見た。
「おれとて、真田の名に恥じぬ武将になる男だぞ、佐助。友を守るぐらいの事は、できる」
 心底の弁丸の言葉に、佐助は弾かれたように天を仰ぎ、声を立てて笑った。
「あはははは」
「なにがおかしい」
 不服そうな弁丸を、佐助は抱きしめた。
「ありがとねぇ、弁丸様」
 しみじみとした佐助の声音に、なんだかよくわからないが侮られたわけではなさそうだと、弁丸は機嫌を直して佐助の首に腕を回した。
「何かあれば、おれが守ってやるからな。佐助」
「ありがたすぎて、俺様、泣いちゃいそう」
 おどけた佐助の声が湿って聞こえたのは、きっと梅雨のせいだろう。
 雨は時に、人の心を濡らし、弱さを暴いて強さに変える。
2014/06/29



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