日差しはギラギラと射すように暑いが、空気は湿気を取り払い、澄んでいる。川の水は温度を下げて、木々は色づく準備を始めていた。 秋の気配に目を細め、真田幸村は穏やかに口元を綻ばせる。重たそうに頭を下げた稲穂が、風に揺れている。稲穂を揺らす風が、彼のひと房だけ長い後髪とたわむれていた。 無事に実った田畑の恵みに、幸村はほっと息を吐いた。 民が生きていけるだけの収穫がある。野山にも、鳥や獣の腹を満たすだけの実りがあるだろう。 このまま戦が無く穏やかであれば、恵みがそのまま人々の手に渡る。冬を越し、春を迎え、新しく育て、次の収穫を心待ちにする余裕が出来る。 なんという世の中になったことだろう。 これこそが敬愛する武田信玄が望んでいた世だと、幸村は心でしっかりと光景をつかみしめる。「あ。いたいた、大将。こんなところで、何やってんのさ」 たたずむ幸村の横に集まった風が、声を発した。幸村は風に笑みかける。「佐助」 旋風が流れ去り、夏の木の葉のありように似た、さまざまな緑に彩られた衣装を纏った猿飛佐助が、小首を傾げて立っていた。「ぼんやりしちゃって。何か、変なものでも食べた?」「なんだそれは」「いやだって。大将がおとなしいからさ」 む、と幸村は眉根を寄せて唇を尖らせたが、鼻を鳴らしただけで佐助から顔をそらした。おや、と佐助が眉を上げる。これまでの傾向であれば、俺を何だと思っているだのなんだのと、怒っていた。「大将?」 佐助が体を傾けて、幸村の表情を覗く。幸村は少しのさみしさを含んだ穏やかな瞳を、景色に向けていた。 佐助は「ああ、そうか」と理解する。彼は、成長をしたのだ。ひとまわりもふたまわりも、大きくなった。信玄の庇護の元、猪突猛進に走り回っていた頃とは違う。世の中を知り、自分を知り、何よりも“虎の魂”を知り、それを自分のものとした。 甲斐の虎と呼ばれている信玄の薫陶を受け止め、自分のものとできるほどになった。 佐助はそれを改めて理解し、ほんの少しの喪失を感じつつ、納得した。幼子が母の手を離したと気付いた時の、誇らしさとせつなさに似たものに目を伏せて、佐助は息を吐く。「こんなに穏やかな秋は、どのくらいぶりだろうね」 太い息に乗った佐助の言葉に、幸村は目を閉じる。瞼に、脳裏に、舞い上がる土ぼこりと硝煙の臭い、雄たけびと鉄のぶつかり合う音などが蘇る。鉄の臭いの混じった生臭い風の向こうに、踏みにじられた田畑の姿を見つけて、軽く頭を振った。さらさらと、栗色の髪が揺れる。「わからぬ」 思い出せないだけで、知っているのかもしれない。けれど幸村がすぐに浮かべられたのは、戦のために無残に踏み荒らされるか、収穫を待つ前に刈り取られたものばかりであった。 佐助が、頭の後ろで腕を組む。「これで、良かったのか悪かったのか」 幸村がきょとんとし、佐助は相手を試す笑みになった。「お館様の天下じゃないからさ」 統一をしたのは、徳川家康。もうひとり、信玄を師と仰ぎ、信玄の好敵手である上杉謙信に“虎の魂”を持つ者と認められた男だった。 幸村はやわらかく下唇を噛み、けれど少しも悔しそうではなく、むしろ晴れやかに空を見た。「まだ、天下は定まってはおらぬ」「へ?」「とりあえず、徳川殿が大きな戦を終わらせた、というだけにすぎぬとは思わぬか。佐助」「どういうことさ」「佐助でも、わからぬか」「俺様は大将じゃないから、大将の考えなんてわかんないって」「なんと」 丸い目をさらに丸くした幸村に、佐助の胸が温かくなる。離れた手が戻ってきたような気がした。「俺は、佐助は俺のことならば、何でも気付くと思っておったぞ」「ま、だいたいのことはわかるけどさ。旦那ってば、すんごくわかりやすいから」 軽く肩をすくめた佐助に、幸村の目が穏やかになる。「何?」「久しぶりに、佐助に旦那と呼ばれたぞ」 含み笑いをする幸村に、佐助の唇があわあわと歪んだ。「戦の世が終われば、大将も何も無いだろう。――もとのように、俺を旦那と呼ぶか。いや、いっそ名で呼んでみるか? 佐助」「は? 何言っちゃってんのさ」 気分を変えるため鼻を鳴らした佐助は、腰に手を当てた。「三河のタヌキが将軍ってことになったけど、まだまだ世の中、治まってないんだぜ」「そこだ、佐助」 びしりと幸村が人差し指をつきつける。「どこさ」 佐助が手びさしをして、周囲を見回した。「そうではない」 佐助の手びさしを叩き落として、幸村が「徳川殿だ」と真剣な顔をする。「徳川の旦那が、どうかした?」「さっき、佐助が言ったではないか。まだ世の中は治まってはおらぬと」「うん。言ったねぇ」「そこなのだ」「だから、どこ」 幸村が、半眼で佐助をにらむ。「わざと言うておるのだろう」「あ。バレた?」 ぺろりと舌を出した佐助に、幸村が頬を膨らませる。昔と変わらぬやりとりに、佐助の心に安堵が浮かぶ。幸村は気付かずに、ほんの少し前までは思いつきもしなかった考えを口にした。「人を増やすぞ、佐助」「はい?」 にこにことする幸村は、自分で言ってから「それがいい」と納得する。「俺様にもわかるように、説明してくんない?」「佐助のような者を、増やすのだ」「忍を増やして、どうすんのさ」「調べる」「何を」「諸国の様子をだ」「戦でも仕掛けるつもり?」 幸村は妙な顔をして、首を傾げた。「何故、俺が戦を仕掛けるのだ」「各国の情勢を調べるんでしょ? 徳川討伐でもして、武田の天下にするつもりなのかなぁと」「そのようなことはせぬ」「じゃあ、何さ」「わからぬか」「わかってたら、質問しないでしょ」「そうか」「そうでしょ。――で。なんで、人を増やして諸国の様子を調べんの」「徳川殿の中に虎を見たと、上杉殿が申されたことを覚えておるか」「ああ、そうだねぇ。言ってたねぇ」 薫陶を受けながら処理できず、苦しんでいた幸村を思い出す佐助の前に、それを乗り越えた顔がある。「徳川殿の目指す世の形は、お館様の理念と通ずるものがあると思うのだ」 “人は石垣、人は城”と示す信玄と、“絆の力で世を統べる”と宣言した家康。その根本は同じだと、幸村は歯を見せて笑った。「それゆえ、俺は諸国の様子を調べ、お館様の志が行き届いているかを見届けねばならぬ」 師と仰ぐ相手が同じである者の務めだと、幸村は気配で示した。ぐっと人器を広げた幸村の様子に、佐助の目はまぶしさにくらみそうになった。「そのための手勢が欲しいって、言いたいわけね」「うむ。なるべく、人々の間に入り、民の本音を集めることのできる者が良い」「そうだねぇ。俺様がずうっと諸国を飛び回るわけにもいかないし」「戦に使っておった費用を、そちらに移行すればなんとかなろう」「災害とかが無ければ、収穫は安定するだろうしね」 二人の目が、揺れる稲穂に向いた。「お館様の魂が、正しく世に響いているかどうかを、俺は見定める役をこなすぞ。佐助」 “虎の魂”を受けた者が作る世は、それすなわち信玄の世と同じであると、幸村は結論付けたらしい。「徳川殿の目が曇るとは思わぬが、なにがあるかわからぬゆえ、俺は全力で見定め、阻むものあらば薙ぎ払う者となる」 さぁっと二人の間を風が駆け抜けた。「戦が終わって欲しくない人たちも、いるだろうしね」 戦を商売の種とする者や、平穏を受け入れられぬ者は、不穏の火種を諸所でくすぶらせているだろう。「どのように採用するのかは任せたぞ、佐助」「ええー。まぁ、俺様のほうが人を見る眼があるし、うっかり変なの引き入れちゃったら面倒だから、仕方ないか」 渋々なふりをする佐助に、幸村が体を向ける。「なれば佐助。早速、道場に戻り鍛錬をいたすぞ」「それ、関係なくない?」「何を言う!」 幸村が声を張り、拳を握った。「有事の際にすぐに動けねば、人を放つ意味が無い。そのために鍛錬は必要だろう」 頬を紅潮させた主に、佐助は楽しげに肩をすくめた。「俺様、人集めの準備で忙しいから、また今度ね」「ぬうっ」「ほら。もう日が暮れてきたから帰ろう。秋の日は釣瓶落としってね。すぐに真っ暗になって、寒くなっちゃう。体調管理は、鍛錬よりも大事だぜ、大将」「うむ。そうだな。……やはり、大将か。俺は」「大将でしょ。しっかりと、虎の魂を見極めるための、さ」 ふふんと意地の悪い顔をした佐助に、幸村は破顔した。「ならば佐助は副将のまま、多忙のままだな」「うえぇ。俺様、ずっと働き詰めだったから、戦が無いならノンビリしたいんだけど」「休みたくば徳川殿に、早く民の暮らしを泰平にするよう言えばいい」「なんか大将、ちょっと性格、変わった?」 笑みを浮かべたまま首をかたむける幸村に、やれやれと首を振る。「早く帰ろう。まだまだ、することは沢山あるんだからさ。甲斐のことだけでも、今は手一杯ってわかってる?」「おお、そうだな! これからもまだまだ、よろしく頼むぞ。佐助」「まったく。仕方ないなぁ」 重そうに頭を垂れて揺れる稲穂のように、たわわに平穏が実るまで、二人は共に駆け続ける。 2014/09/15