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こえ

 何かに呼ばれた気がして、弁丸は振り返った。真ん丸い目に映るのは、さらさらと揺れる木の葉ばかり。弁丸は首を傾げ、ぐるりと周囲を見回した。だが、誰の気配も無い。
 気のせいか、とは思わなかった。弁丸はくるくると回転しながら周囲を見回した。けれど草木以外の何ものも目にとまらない。
「誰だ」
 弁丸は声を出した。あるかなしかの風が木の葉を揺らしているが、音をたてる程では無い。弁丸の声に応えるものは、何も無かった。
「用があるのなら、堂々と姿を見せぬか」
 声の残りが空気に溶けて消えるまで、弁丸は待った。
 弁丸は頬をふくらませ、森の中をにらんで回った。
「用が無いのであれば、弁丸は帰ってしまうぞ」
 ふんと鼻息を勢いよく吐き出して、弁丸は足先を帰路に向けた。するとまた、呼ばれた気がした。そっと袖の先を引くような、かすかな感覚。弁丸は眉をひそめ、唇を尖らせて森を見回す。
「何用だ」
 返事は無い。
 むうっと弁丸は腕を組んで考えた。
「袖を引くということは、帰って欲しくないということか?」
 ぽつりとつぶやき、弁丸は森に声をかけた。
「弁丸は、帰らねばならぬ。離れたくないのならば、ついてくるが良い」
 木の葉の合間に見える空は、青から茜へと変わりはじめている。完全に茜になってしまう前に、帰らなければならない。
 弁丸は歩き出した。呼ぶ気配も、袖を引かれるような気配も、もうしなかった。

 ふと目が覚めて、真田幸村は真っ暗な天井を凝視した。ひどくなつかしい夢を見ていた気がする。けれど、どんな夢だったのかは覚えていない。ただ、悪い気はしなかった。起き上がり、縁側に向かう。ひやりとした夜気の先に、日の昇る気配があった。幸村は部屋に戻り、着替えを済ませて庭に下りた。井戸へ向かい顔を洗うと、そのまま塀を飛び越えて外に出た。
 門をくぐれば、どこに行くのかなど問われることになる。外出と知られれば、寝ている者を無用に起こすことにもなった。それを避けたのと、ひっそりと行動をしたいという気持ちとが、幸村の中にあった。
 別に、隠す必要のあることではない。ふらりと散歩に出たいと思っただけだった。だがそれを、わずかにも邪魔をされたくはなかった。
 自分の心情を別段不思議とも思わずに、幸村は暗い道を行く。暁闇が周囲を深い眠りへと沈めていた。空にはまだ、月がある。だが、山の向こうには太陽の気配が感ぜられた。
 目的があるような、無いような。
 あやふやな意識のまま、何かに導かれるように幸村は歩く。闇が薄い紫へと変わっていく。その次は茜となり、一日の始まりの光が地上を撫でる。
 何の物音もしない。
 聞こえるのは、自分が砂を踏む音のみ。
 幸村はまっすぐに森へ入った。朝霧が薄くもやっている。しっとりとした空気に包まれ、着物が湿った。体温の高い幸村には、ひやりとしたそれが心地よく感ぜられ、胸深くに湿度の高い空気を吸い込んだ。
 そのまま進み、屋敷を見下ろせるほどの高さにある、木々の切れ間に出た。そこからならば、屋敷の向こうにある空と山の境界がよく見える。
 山が輝いているようだと、幸村は思った。昇り来る太陽が山の陰を濃くし、夜を押し上げていく。白くたなびく霧の衣の奥で、さまざまな生き物が一日を始めようとしている。
 それを眺めていると思うと、なんとなく神聖で得意な心地になった。
 ふと、誰かに呼ばれた気がした。幸村は周囲を見回す。けれど誰の姿も無い。獣もまだ、寝床の中だろう。夜の間に動く獣が、寝床に帰る途中で幸村を見つけたのだろうか。
 幸村は首を傾げ、もやる霧の隙間に何か見えないかと、目を凝らした。
 昇る太陽の熱に温められ、夜が蒸発するように霧が濃さを増す。誰かにいたずらをされたような心地になり、幸村は口元をほころばせた。昔、似たようなことがあった気がする。
 幸村は山の稜線に目をもどした。空と地上とを、くっきりと分けている光。その光が山から離れ、高く掲げられれば、空には区切りが無いことが示される。地上も、空も、交わることなく双方が並んでいることを、人々は知らされることとなる。
 霧というよりも、靄と表現するほうが良いほどに、温められた地上から白い衣が天へと昇る。その朝靄を分けて差し込む光に、幸村は目を細めた。一日の始まりの力が、自分の中に宿ったようだ。
 両腕を大きく広げて、幸村は体中で朝日を受け止めた。深く胸に吸い込み、体の隅々にまで行き渡らせる。そうして古い、昨日の空気を体の外へ吐き出した。
 それを繰り返せば、指先までもが熱く脈打つ。おさえきれないほどの命を、自分は抱えているのだと感ぜられた。
 幸村の瞳が輝く。急に走りたい心地になって、幸村は腰を落とし、一気に森を抜けた。
 屋敷へと、獣のように駆ける。
 誰もが眠っている朝焼けの下を疾駆しなければ、湧き立つ自分の命が破裂してしまいそうだった。
 獰猛な獣のように歯をむき出し、全身に喜びを漲らせて走る。
 何に対する喜びかわからぬまま、幸村は大地を蹴った。
 誰も起きていない――はずだった。
 屋敷の前に、人がいる。
 幸村はその人物が誰であるかを遠目で知り、さらに速度を上げた。自分のこの、どうにも出来ない滾りをぶつけたくて、たまらなかった。
 そのまま突進した幸村は、受け止められなかった。相手はひらりと身をかわし、幸村の上を取った。片足を前に出して勢いを止めながら、幸村は上体をひねった。彼の頭上を通った相手は、ひらりと背後に舞い降りる。まるで、木の葉のように。
「ふっ」
 短く鋭い気合を発し、勢いを殺した足を折りたたんで、幸村が飛ぶ。相手はそれを予測していたようで、伸びた幸村の拳を避けると、軽く肘に手のひらを合わせた。幸村の拳が流れる。その流れに逆らわず体を回し、流された拳でもう一度狙いをつける。
「甘いよ、旦那」
 軽い声と共に、相手の姿が消えた。標的を失った幸村の拳が地面を叩く。細く長い息を抜いた幸村は、何事も無かったような顔で屋敷の塀に顔を向けた。そこに座り、楽しそうな顔で頬杖をついている男がいる。
「おはよう、佐助」
「おはよう、旦那」
 猿飛佐助が、幸村の横に下りた。
「元気な挨拶だったねぇ、旦那」
「もう少し、付き合え」
「ええー。どうしよっかなぁ」
 頭の後ろで手を組む佐助は、このやりとりを楽しんでいるようだった。
「俺様、旦那みたいに朝からそんな元気出ないってのぉ」
「何を言う。真田忍を束ねる身であるならば、これぐらい朝飯前だと言わぬか」
 やれやれと肩をすくめた佐助が、すいっと指を山に向けた。
「それじゃあ、あの杉の木まで競争ね。旦那が勝ったら、朝餉まで鍛錬の相手をしてあげる。負けたら、山菜採りを手伝ってもらうぜ」
「望むところだ」
 幸村が拳を突き出し、佐助はニヤリとした。
「そいじゃ、覚悟はいいね」
「おう」
 佐助の拳が幸村の拳に当たる。弾かれたように、幸村は砂煙を上げて疾駆した。その横で、佐助が風となる。
 風に獣が敵うはずもなく、幸村が杉の木にぶつかるようにして止まるのを、とうに到着していた佐助は枝の上から眺めていた。
 肩で息をする幸村が、周囲を見回す。それを木の葉の影から佐助は見つめた。
 幸村はきょろきょろとした後、空を見上げた。全力後の満足そうな笑みを浮かべる彼に、佐助は穏やかな笑みを向けた。汗が朝日に輝いている姿は、幼い頃の彼を思い出させる。
 屈託無く、満面に笑みを浮かべて小さなことにも感動をしていた、驚くほどに勘が鋭い、弁丸と名乗っていたころの幸村。直感で、相手が危険なのかそうでないのかを察し、得体の知れぬ相手にも、平気で「ついて来るがいい」と言ってしまう――――。
 思い出した佐助の胸は、くすぐったくなった。
 ふふっと息を漏らした佐助は、自分を探す幸村の前に、逆さにぶら下がった。
「それじゃ、山菜採りに行こっか」
 幸村は、佐助がすでに到着していたと、知っているようだった。
「どちらがより多く、山菜を採れるか勝負だな。佐助」
「必要な分しか採らないよ。わかってんでしょ、森の約束」
 ほら言ってみて、と佐助に促され、幸村が答える。
「使うものだけ。後は他の生き物のために残さねばならぬ」
「はい、よく出来ました」
 枝から離れた佐助が、にっこりとした。
「それじゃ、行こっか」
「うむ」
 朝靄の中、二人が進む。
 幸村を呼ぶ声無き声は、彼の隣に在った。
2014/11/17



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