それでは、今日はここまで。 その声を聞くと、弁丸は丁寧に頭をさげて、少々舌足らずでありながらもしっかりと、ありがとうございましたと頭を下げた。顔を上げて教本を閉じ、そそくさと立つと廊下を走る。 勢いよく障子を開け、満面の笑みを浮かべて「さすけっ」と声を出すが、室内に目的の人影は見当たらない。小首を傾げた弁丸は、くるりと踵を返して廊下を走り、佐助と呼ばわりながら、あちこちの障子や襖、はては納戸の行李の蓋まで開けてまわった。 ふわふわとした襟足の長い茶色の髪が、屋敷の中に軌跡を描くように動き回る。どんぐりのような真ん丸い瞳がクルクルと動き、梁の上や棚の下などを映した。「さぁすけぇえ」 台所にまで顔を出した弁丸を見て、侍女が仕事の手を止める。「あらあら、弁丸様。佐助様はこちらのお屋敷には参られておりませんよ」「ぬっ」 水甕を覗こうとしていた弁丸が、その声に振り向いた。「お約束でも、なされていたのですか?」「約束はしておらぬが、さすけは俺の守役なのだろう? ならば、勉学や修練の無い時間は、おれと遊ぶものではないのか」 侍女を見上げた弁丸は、自分の認識が間違っているのだろうかと、少し不安になった。「佐助様は忍でもいらっしゃいますから、弁丸様がお勉強をなさっている間に、忍のお仕事をなされているのかもしれませんよ」「忍の仕事」 確認をするように繰り返した弁丸は、ふうむと不器用に腕を組んだ。「さすけは、俺の守役とともに、忍の仕事もしておるのだな」 ふむふむと納得をした弁丸は、花が咲くような笑みを侍女に向けた。「ならば、そちらの小屋へ行って参る」「八つ時には、おもどりくださいませね」「わかった!」 元気良く飛び出した弁丸は、ぱたぱたと軽い足音を響かせて、屋敷の裏門をくぐり木々の間に伸びる細い道を急いだ。木漏れ日の中をグングン進むと、小さな小屋が見えてくる。弁丸は唇を笑みの形に広げ、飛びつくように扉を掴んだ。「さすけぇっ!」 大きな音が鳴るほど、力いっぱい扉を開けた弁丸は、小屋の隅っこに胡坐をかいて、手作業をしている柿色の髪の少年を見つけた。「さすけっ」 とろけるほどに目を細めた弁丸が声を弾ませると、柿色の髪の少年、忍であり弁丸の守役でもある佐助は、めんどうくさそうに顔を上げた。「ここには来るなって、言っていたと思うんだけど」 注意をされた時のことを思い出し、弁丸はバツの悪そうな顔になった。そろそろと土間に足を入れて、慎重に扉を閉める。ここは大切な薬草などが、たんとある。さわがしくして乱れてしまうと困るのだと、前に佐助に注意をされていた。 そろりそろりと土間を進む弁丸に、迷惑そうな鼻息を向けた佐助は手元に目を戻した。主である弁丸に、守役であったとしても忍風情が取っていい態度ではない。けれど弁丸は、そのようなことを気にしない。それがわかっているので、忍が守役をするという常識外れの任を迷惑がっている佐助は、不遜な態度を取っていた。 弁丸は佐助の邪魔をしないよう、そうっと傍に腰掛けた。佐助は何やら難しい顔をして作業をしている。きっと重要な仕事に違いない。そう判断したので、それが終わるまで待っていようと思ったのだ。 小屋の中は木々に囲まれているからか、屋敷よりもずっと空気が澄んでいる気がする。弁丸は退屈そうに足をぶらぶらさせた。佐助は自分の作業に集中をしていて、弁丸など存在していないかのように振る舞っている。弁丸は、作業が一段落するときをじっと待った。 しばらくして、窓から何かを咥えた烏が入ってきた。あっと弁丸が思う間に、烏はちょんちょんと飛んで佐助の傍に行く。烏が叱られはしないかと、弁丸はハラハラした。 佐助が烏に気付く。弁丸は息を詰めて様子を伺った。烏がクチバシを開いて、コロンと咥えていた木の実らしきものを床に落とす。すると佐助が優しく目を細め、ごくろうさんと言いながら手の甲で烏の羽根を撫でたので、弁丸は驚きのあまり伸び上がった。 烏は得意げに弁丸を見て――少なくとも、弁丸にはそう見えた――ちょんちょんと飛びながら、佐助から離れた。離れたとは言っても、弁丸よりも佐助に近い位置で止まり、当然のような顔をして――弁丸には、そう見えている――座りこんだ。ちょっと羽ばたけば、佐助の周囲にある薬草らしき枯れた草などが、飛んでしまいそうな距離であるのに、佐助は烏を怒らない。 弁丸は悲しくなり、次いで烏が憎らしくなった。そのついでに、佐助にも腹が立った。どうして烏には怒らずにいるのか。「さすけっ」 怒りを含めた声を出せば、顔をわずかも上げずに「なぁに」と答えられた。「さすけぇっ」「だから、何さ」「さーすーけー」「聞こえてるって」「さすけぇえ」「俺様の返事が聞こえて無いの?」 やっと佐助が顔を上げた。佐助の視線が自分に向いて、弁丸は満足の端っこを捕まえた。 弁丸がニコニコすれば、佐助が気味悪そうに眉根を寄せる。「何」「カラスだ」「烏がどうしたのさ」「なでたぞ」「触りたいなら触ってもいいけど、手のひらではやめてよね。羽根が傷ついたら困るから」「そうではない」「じゃあ、何さ」 問われ、弁丸は困った。自分の抱えているモヤモヤは、どういう言葉で表せばいいのかがわからない。眉を下げ、唇を尖らせた弁丸は、顎を引いて上目遣いに佐助を見た。「何?」 佐助がめんどうくさそうな声を出す。実際の距離よりも遠くにいるようで、弁丸は悲しくなった。そして佐助の傍に当然のような顔をして――弁丸には、そうとしか見えない――座っている烏が、とてもうらやましかった。 弁丸は尖らせた唇を硬くすぼめ、うつむいて土間に下りた。トボトボと扉に向かうが、佐助は何の声もかけてはくれない。自分が情けなくなって、弁丸はそのまま小屋を出た。 心地よい木漏れ日と涼やかな空気が、なぜだか寂しく感じられた。弁丸は足を引きずるように、すり足で唇を尖らせたまま、地面の砂を時折蹴りつつ小道を進んだ。 チチチュチ、と軽やかな鳥の声がして、弁丸はハッと顔を上げた。姿は見えないが、どこかに小鳥がいるらしい。弁丸は眩しい光が降り注ぐ木の葉の隙間をじっと見つめ、妙案を思いついた。 あの烏は、佐助が求めている木の実を持って来たから、撫でて貰えたのだ。役に立ったから、傍に座っていても叱られない。それならば自分も、佐助の役に立つ何かを持って行けば、きっと佐助は構ってくれるはず。 よしっと拳を握った弁丸は、小道を横にずれて林の中を進んだ。薬草の知識は、ほんの少しだけだが持っている。何か薬草を見つけて、佐助に持って行こうと決めた。 ふんふんと鼻息荒く、弁丸は気負って散策を行った。どうせなら烏が持って来た物よりも、ずっとすごいものを手に入れたい。烏が持って来た物が何かはわからないが、何かすごそうなものを見つけたら、それを採取しようと考えていた。 自分の体では、沢山のものを持つことは出来ない。烏はたった一個の木の実のようなもので、佐助に褒めて貰っていた。自分も少量で、佐助に褒めて貰えるような何かを、手に入れよう。 進む間に、いくつか薬草を見つけはしたが、それは誰でも簡単に手に入るようなものばかりで、佐助に褒められるほどのものではないと、弁丸は摘まずに林の奥へ進んだ。どんどんと奥に進んでいくと、何かに削り取られたように、土が露出した斜面が目の前に現れた。「あっ」 そこで、弁丸は見つけた。緑がかった薄紫の蕾をうつむかせている草がある。あれは間違いなく、ホタルブクロだ。薬になるのかどうかはわからないが、和え物やおひたし、汁の実になって出てきたことがあるので知っている。あんなふうに斜面に生えているのであれば、採るのに難儀をするだろう。ということは、ホタルブクロはすごいものだ。あれを佐助に持って行こう。 そうと決めると、弁丸はあたりを見回した。斜面をどうやって登ろう。 弁丸の目が、太い幹にからみついている蔦を見つけた。あれを縄代わりにすれば、上から斜面を下りていけるのではないか。 思い立ったが吉日とばかり、弁丸は苦労して木によじ登り、蔦を掴んだ。 やった、と心で叫んだ途端、蔦が滑った。何が起こったのか理解をする前に、本能で危険を察知した弁丸は、両手でしっかりと蔦を握り、木の枝に絡めている足に力を入れた。 ぐるんと視界が激しく動いて、目をつぶったと同時に止まった。おそるおそる目を開けた弁丸は、木の枝と蔦の間に自分がぶらさがっていると知った。「ううっ」 これからどうしよう。どうすればいいのだろう。 弁丸はけんめいに考えた。頭を動かせば、ホタルブクロが見えた。枝から足を放せば、蔦を支えにあそこまで飛べるかもしれない。「よしっ」 弁丸は意を決して足を開いた。 ぐうん、と体が揺れる。落ちないように、蔦を力いっぱい握り締めて、弁丸はホタルブクロをにらみつけた。ぐんぐん近付いてくるホタルブクロを捕まえようと、片手を伸ばす。すると、ガサッと大きな音がして、がくんと体が下に落ちた。「わわっ」 片手は蔦を掴んだまま、弁丸は伸ばした手と足で空を掻いた。蔦が木の枝から滑り伸びて、弁丸の体が土の上に放り出される。「っ!」 声を発する間もなく土の上に落ちた弁丸は、そのままゴロゴロと斜面を転がり落ちた。 ギュッと目を閉じ、このまま何処までも転がってしまうのかと思ったが、蔦が伸びるのを止めてくれたおかげで、弁丸は下まで落ちずに済んだ。体が止まったので、弁丸はおそるおそる目を開けた。 斜面の中腹に、自分は横たわっている。顔を上げれば、ホタルブクロは斜め上にあった。 キュッと唇を引き結び、弁丸は蔦をしっかりと握った。ずきずきと膝が痛むが、かまってはいられない。目の前に、ホタルブクロがあるのだから。 何度か足を滑らせ、失敗をしつつも、弁丸はホタルブクロを一株、手に入れた。ほっと息をついて尻を斜面につけ、ずるずると滑り下りる。 降りたった弁丸は、ホタルブクロを見つめてほくそ笑み、脱兎のごとく駆けだした。 頭の中には、烏のように佐助に撫でられる自分の姿が浮かんでいる。 懸命に駆けた弁丸は小屋を目の前にして、はたと足を止めた。勢いよく入って行けば、せっかくホタルブクロを持って行ったとしても、佐助に怒られるだろう。烏はそっと降り立って、羽根で薬草を飛ばさないように、飛び跳ねて佐助の傍に近寄っていた。自分もそっと佐助の傍に行って、これを渡さなくては。 弁丸はそろそろと小屋に近付き、遠慮がちに扉を開けた。カタンという音に、佐助が顔を上げる。顔を覗かせた弁丸は、佐助と目があった。褒めてもらいたいと逸る気持ちを抑え、弁丸は大きな音を立てないように扉を開いて、土間に入った。「さす……」「どうしたのさ、弁丸様!」 呼びかける前に、佐助が大きな声を出して立ち上がった。ビックリして立ちすくんだ弁丸は、目の前に一歩で近付いた佐助の顔が強張っていることに気付いた。 自分は何か、失敗をしでかしてしまったのだろうか。「あの、さすけ」「こんなに土まみれになって、どっかから落ちたとか言わないよね」 言いながら、佐助が手早く弁丸のあちこちを確認する。パタパタと叩かれた着物から、土や木の葉が落ちた。「痛っ」 佐助の手の触れたところがジンとして、思わず顔をしかめると袖をまくられた。「ああ」 佐助が眉をひそめる。そこには、擦り傷があった。「他に、どっか痛い所ある?」 問われてはじめて、弁丸は手足のあちこちが痛むことに気付いた。申し訳無さでいっぱいになりながら、痛む箇所を佐助に伝える。すると佐助は盛大な溜息をついて、手ぬぐいを水で濡らし、弁丸の体を拭って手当てを始めた。 ホタルブクロを採ってきた、と言う機会を見つけられず、静かに怒っている雰囲気を醸し出す佐助の顔色を伺いながら、弁丸は胸を冷たくした。 自分はいつも、佐助を怒らせてばかりいる。 そう思うと、目の奥がジワリと熱くなった。喉が詰まり、泣いてはいけないと堪えるのに、目が潤ってしまう。 滲む視界で、佐助と目があった。また溜息を吐かれるのではと、弁丸は怖くなった。 嫌われたくない。 弁丸は必死で目を擦った。「……あ、それ」 佐助の声に、弁丸はホタルブクロを握っていることを思い出した。真っ赤な目をして、涙をこぼすまいと怒ったような顔になりつつ、佐助にホタルブクロを差し出す。「どうしたのさ、それ」「さすけに」 それ以上、言葉を続ければ涙がこぼれてしまいそうで、弁丸は口を閉ざした。「俺様に?」 こくりとうなずいた弁丸は、再び涙が落ちないように気をつけて喋った。「カラスが」「烏?」「おれも、さすけに」 役に立ちたかった。褒めて貰いたかった。傍にいてもいいと、示されたい。 明確な言葉として認識できてはいなかったが、弁丸の胸はそういう思いでいっぱいだった。佐助はホタルブクロと弁丸を交互に見て、ふてくされた顔で頬を掻くとホタルブクロを受け取った。「ありがと」 弁丸の大きな目が、こぼれそうなほど丸くなる。 佐助の手のひらが、優しく弁丸の頭を叩いた。不器用に、撫でるような仕草に弁丸の胸はいっぱいになり、とうとう堪えきれなくなった。「さっ、さぁすけぇええ」 堰を切ったように泣き出した弁丸は、佐助にしがみついた。佐助がしっかりと抱き締めてくれて、言いようの無い安堵と喜びが弁丸を包む。緊張の全てが溶け落ちて、弁丸は頭が痛くなるまで佐助をしっかりと掴んだまま、泣き続けた。 そして佐助は弁丸が泣き止んでも、ずっと傍にいてくれた。2015/04/27