ぶん、と空気がうなる。 静かにたたずんでいた空気を乱したのは、朱柄の槍だった。それを握る青年は満足げな笑みを浮かべている。幼さを残す丸い頬が盛り上がり、さらに丸くなっていた。くるくるとした丸く大きな目。きりりと締まった眉の上に赤いハチマキが巻かれている。鳶色の髪はクセがあるらしく、あちこちとびはねているさまは、青年の心のありようを示しているようだった。そしてひと房だけ長い後ろ髪が、ハチマキの尾と共に揺れて、彼の背中に静かに重なる。「うむ」 手ごたえを感じたらしい。槍を握る手を見ながらうなずいた彼は、屋敷の屋根に顔を上げた。「佐助ぇ!」 返事を待つ間もなく、彼はくるくると回りながら、佐助、佐助と呼ばわった。「そんなに連呼しなくったって、ちゃんと聞こえてるから」 軽い声が先に現れ、青年の影の中から茜色の髪の男が浮かびあがった。「おお。そこにおったか、佐助」 佐助と呼ばれた男は、森の様子を切り取り染め抜いたような、まだらに濃淡のある草色の衣を着ていた。あやかしのように影の中から出てきたが、れっきとした人間。忍と呼ばれる存在だった。 そして彼を呼んだ青年は、真田幸村。佐助こと猿飛佐助の主であり、ここ甲斐の主、武田信玄が虎と呼ばれるのにちなみ、若虎と呼ばれるほどの猛将である。 が、今の幸村の様子から、猛将の気配はうかがえない。日ノ本一の兵、紅蓮の鬼などと、物騒なあだ名のある彼は、普段は純朴な、少々元気をありあまらせている青年としか見えなかった。「どうしたのさ、大将。そんなに大声で俺様のことを呼んじゃって」 おおよそ忍らしからぬ、不敬でなれなれしい佐助の態度をとがめもせずに、むしろそれを平然と受け止めて、幸村はビシリと山に槍の穂先を向けた。「獣追いに行くぞ、佐助」「ええぇ。俺様、めんどくさ……じゃなくて、色々と忙しいんだけど」「いまは、何の任務もかかえておらぬだろう」「任務がなくても、細々とすることがあるんだって」「なれば、忍のものどもの鍛錬も兼ねて、全員で山に入り、草摘みと獣追いをすればよい」「あのね、大将。なんで、そうなるの。俺様は、細々とすることがある、って言ったんだぜ」「どうせ、薬草の調合や、部下に鍛錬をつけるなどと申すのだろう。ならば、その両方を行いつつ、俺に付き合えばよい」 ふん、と得意げに鼻を鳴らした幸村に、佐助はやれやれと楽しげに嘆息した。「まぁったく。人使いが荒いんだから、大将は。ちったぁ、俺様を休ませてやろうとか、思わないわけ」「ならば佐助。おぬしは俺が獣追いの付き添いを、別のものに頼んでもよいと言うのか」 思わぬ返答に、佐助は目を丸くした。「よくないだろう」「え……っと、大将。それは、どういう」 佐助が片頬をひきつらせていることなど、まったく気付いていない様子で、幸村は堂々と胸を張って答えた。「俺についてこられるものは、佐助以外にはおるまい」「あ、そゆことね」 納得、と佐助が首を動かす。たしかに、尋常ではない運動能力を誇る幸村の獣追いに付き合える人間は、そうそういない。瞬時にどんな状況にも対応できるのは、甲斐の忍の中でも最速を誇り、彼との手合わせでも打ち負けることのない力量を持つ佐助くらいのものだろう。「それ以外に、何の理由があるというのだ」「うーん。遠まわしな愛の告白かと思っちゃった」「あい?」 きょとんと幸村が首をかしげる。年より幼い表情を浮かべる彼は、そのとおりに心根も幼い。恋愛ごとには、とんと疎い。疎いどころか、無知きわまりない。彼の頭の中は、強くなることでいっぱいなのではと思うほど、そちらの方面は心配になるほど鈍くて純情だった。「愛か。俺は、佐助を友のようにも、兄弟のようにも思うておるぞ」 にこっと告げる幸村に、そうじゃなくてと説明すれば、無駄な労力と時間を使うことになる。「ああ、うん。そうねぇ。俺様、そんなふうに思ってもらえて、大感激」 さらりと受け流してみせたが、佐助の心中は誇らしさでいっぱいになった。幸村を“旦那”と呼んでいたころは、忍に向ける態度じゃないと、立場の違いをことあるごとに説明していたが、彼の態度は少しも変わらなかった。そして彼の敬愛する甲斐の領主、武田信玄もそれをとがめない。幸村が“大将”となったとき、彼を支えようと兵らが一丸となったのを見て、彼のこういう隔てを持たぬ態度は、幸村なりの美点であり、上に立つために必要な足場の支えを強固にするのに役立つと、うるさく言うのをやめにした。幸村が立場や地位を理解していながら、そういう態度をとっていると知ったから、という理由もある。彼は直感的に、相手と自分との距離をつかむ素質を持っている。まれに、誤る場合もあるが――。 佐助は期待を満面に広げている幸村に、気づかれぬよう小さく、やれやれと息を吐いた。「仕方ねぇなぁ。そこまで言うんなら、付き合ってあげてもいいけど」 幸村の顔が喜びに輝く。「でも、なんで急に獣追い? お館様との手合わせとか、兵の鍛錬に付き合うとか、そっちはいいわけ」「一石二鳥を狙うのだ」 ずい、と幸村が胸をそらす。「一石二鳥? ああ。鍛錬しながら薬草を取ればいいって考えたってこと。でも、それは別に、特別なことじゃなくて普段からしているし、一石二鳥っていうほどのものでもないぜ」「違う」「なにがさ」 得意げな顔が、瞬時にふくれっ面になった。ころころと変わる表情をおもしろがりつつ、佐助はそれをおくびにも出さずに問うた。「備えあれば、憂いなしと言うではないか」「うん。言うねぇ」「だから、備えておくのだ」「なにに」「空腹にだ」「――は?」 佐助は、とんきょうな声を出した。「空腹は最大の敵だ。それを先日、目の当たりにしたではないか」 忘れたのかと、言外でとがめる幸村を見ながら、先日ねぇ、と佐助は記憶を探る。一番近い出来事といえば、野盗の討伐だ。「あ」「思い出したか」 なるほどねぇ、と佐助は頬をかいた。野盗は食い物をよこせと、里のものにまず言ったと報告を受けている。そして里には、余るほど食料があったわけではなかった。それらを与えてしまえば、収穫の時期まで食い繋ぐのが難しくなる。戦国の世では、民百姓とて戦える。彼らは農具を武器として、抵抗した。その争いの情報を各地に放っていた忍がつかみ、兵の出動となったのだ。幸村は争いの根源が、空腹であると受け取ったのだろう。 それだけの単純なものじゃないと思うんだけど、と佐助は心中でつぶやきつつ、幸村が考えるように、ことは単純なのかもしれないなとも考える。 なにごとも、ややこしそうに見せかけて、根元をたどれば驚くほどに小さいものだったりする。小石よりもまだ小さな種から、大きく立派な作物が育つのと同じで、物事のはじまりはそういうものなのかもしれない。 幸村はときどき、驚くほど正確に、ものごとの本質にたどりついてしまうことがある。 佐助は無自覚にあらゆるものを見抜いてしまう、まっすぐな瞳と意識を持つ幸村を、あらためてまぶしく感じた。「で。その空腹の根源の食糧不足、とまではいかないけど、余裕のない状態を解消しながら鍛錬もできるから、一石二鳥って言いたいわけ?」「そうだ」 ふうんと佐助は幸村の思考をのぞくように、彼の目の奥を見た。「でもさ。あんまりたくさん狩っても、保存には限界があるぜ。狩りすぎても、山から獣がいなくなる。そうなりゃ山は死んじまう」 言いながら、佐助はぞくりと背骨をふるわせた。なにか理由があったわけではない。自分の言葉に、どういうわけか悪寒が走ったのだ。その原因から意識せず逃げた佐助は、幸村の屈託のない笑みに心を向けた。「そこまで狩りはせぬ。それに、干し肉にしておけばよい。それと、糠漬け」「糠漬け?」「政宗殿から聞いたのだ。あの御仁は、兵糧などの研究をなさっておられるらしい」 まるで自分のことのように、自慢げにする幸村に、佐助は鼻の頭にシワを寄せた。「独眼竜が、兵糧の研究? へぇ。意外だねぇ。ああ、右目の旦那の野菜作りは定評があるから、主の自分は料理で……ってところなのかもな。鍋をしょってる気弱な旦那が、右目の旦那の野菜にご執心らしいから、対抗意識を燃やしているだけだったりして」 ほんのちょっぴり意地の悪い声音にしてみたのだが、幸村はまったく気にせず幾度も首を縦に動かす。「人のしているところから、自ら学び取り、己の成せることを模索するとは。さすが、政宗殿」 佐助がきらっていると知らぬはずはないのに、幸村は好敵手をうれしげに褒める。「てかさ。いつのまに、竜の旦那がそんなことしてるって知ったのさ」 まさか自分の知らぬところで、奥州に斥候を忍ばせているはずもない。佐助の疑問を、幸村はこともなげに解いた。「文のやりとりをしておるゆえな」「えっ」 知らなかったと純粋におどろく佐助に、幸村はしてやったりという顔で鼻を鳴らした。「俺とて、いろいろとしておるのだぞ」「いや、ちょっと、それ……いいわけ? だって、相手は奥州の主だぜ」 戦は終わったわけではない。甲斐と奥州が同盟を結んでいるわけでもない。彼とは刃を交え、命のやりとりをもせねばならぬ間柄だ。その相手と、文を交わしているとは。「いいも悪いも、お館様もご存知だ」 ひくっと頬をひきつらせた佐助は、まじかよぉ、とつぶやきながら目を手でおおい、天をあおいだ。「同年代のもの同士、知識をわかち共に学び、高めあうのはよいことと、仰っておられた」 信玄の言いそうなことだと、佐助は脱力した。「ああ、そう。そうですか。俺様だけ、カヤの外で知らなかったわけね」「すねるな」「すねてないよ」 呆れているだけだ、と口内でこぼした佐助は気を取りなおした。「ま、大将がなにをしたいのかは、よぉくわかった。たしかに、食料の備蓄は大切だよね」「保存の利くものであれば、兵糧にも使えよう」 肯首し、佐助は腰に手を当てた。「そういうことなら、おつきあいしますかねぇ」「よろしくたのむぞ、佐助」 たのもしげに見てくる幸村に、佐助はしっかりと背筋を伸ばして答えた。「まかせといてよ」 どんなことでも、まかせといてよ。 全幅の信頼を受けることに、いつでも新鮮な喜びを味わう佐助の心のように、さわやかな青雲が広がっていた。2015/06/30