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月に願いを

 うとうとと、舟をこぐ幼君にやれやれと息を吐き、彼の世話役であり忍でもある猿飛佐助は、そっと少年を抱き上げようとした。すると、閉じかけていた目を大きく開いて、幼い主が唇を尖らせる。
「まだ、寝ぬぞ!」
「半分、眠っているでしょうが」
「弁丸は、寝ておらぬ」
 ぷんっと頬をふくらませた主、弁丸に、佐助は眉をひそめた。
「ウソつかないの」
「寝ておらぬ! ……少し、眠うはなったが、寝ておらぬ」
 ふうんと佐助が半眼になると、弁丸は唇を尖らせて顎を引き、佐助を睨みあげた。バツの悪そうなその顔に、寝ていたかもしれないという、自信の無さが浮かんでいる。
「もう。そんなにがんばらなくっても、さっさと寝ちまえばいいだろう」
 いやだ、と弁丸は首を振った。やわらかな栗色の髪が、ふわふわと揺れる。それを見ながら、佐助は「あんな話をするんじゃなかった」と後悔した。
 中秋の名月の夜。日付の変わる直前に、月のウサギに願い事をすれば叶う、なんて冗談半分に言ってみれば、弁丸は目を輝かせて、屋根の上へ連れていけと言い出した。
 どうせすぐ、眠ってしまうだろう。
 佐助はそう踏んでいたのだが、弁丸はうとうとしながらも、眠りに落ちぬよう、踏ん張っている。どうしてそこまで頑張るのかが、佐助にはわからなかった。
 そこまでして、ウサギに願いたい事とは、なんだろう。
「ねえ、弁丸様」
 ふたたび、こっくりこっくり頭を揺らし始めた弁丸に声をかければ、ハッと顔を上げた彼が「寝ておらぬぞ」と主張する。
「うんうん。それはわかったから。……あのさ。何を、ウサギに願いたいわけ? なんだったら、俺様が変わりに頼んでおくけど」
 そうすれば、弁丸は睡魔と戦わなくて済む。自分もさっさと休めるので、良い案だと思ったのだが、弁丸は首を振った。
「おれの頼みなのだから、おれがせねばならぬ。月は遠いからな。しっかりと願わねば、届かぬかもしれぬではないか」
「うーん。大丈夫だと思うけど」
「ならぬ!」
 こうなれば、梃でも動かない。小さな体で精一杯、頑なに貫こうとする弁丸に、佐助は何度目になるかわからぬ溜息をこぼした。
 そうして、何度も眠りそうになっては、寝ていないと言う弁丸が、屋根からずり落ちてしまわないように、気をつけながら佐助は過ごした。早く子の刻になれと願いながら。
 いっそ時刻をごまかそうかとも考えたが、妙にカンの鋭い弁丸に、気づかれると後が面倒なので、まんじりともせずに時間が進むのを待つ。
 そういやぁ、こんなふうにボンヤリと過ごすのは、久しぶりだな。
 佐助はそんな事を思いながら、弁丸の体に腕を回していた。
 忍の仕事と、弁丸の世話係。忙しいと言えば忙しいが、切羽詰っているというほどのものではなく、心地よい流れだと感じている。
 やる事がある、というのはつまり、居場所がある、という事だ。
 佐助は、いよいよ眠気に勝てなくなってきた弁丸を、膝の上に抱えた。
「ねっ、寝ておらぬぞ」
「はいはい」
 半分ほど眠っている声を、軽く受け流して空を見上げる。薄い雲がゆったりと動き、月にかかった。月の光が雲に広がり、明るさが増した気がする。
 きれいだな、と佐助が思うのと、弁丸が悲壮な声を上げるのとが、同時だった。
「ああっ」
「なになに、どうしたのさ」
「月が、隠れてしもうては、ウサギに願いを届けられぬ!」
 真剣に困っている弁丸の姿に、おかしさが込み上げてきた佐助は、遠慮なく声を立てて笑った。
「なっ、なにを笑うておる」
「あはは、だって……その顔」
 むくれた弁丸が、紅葉のような手で佐助の頬を包んだ。にらまれて、半笑いのまま「ごめん、ごめん」と軽く謝罪した佐助は、弁丸に月を見るよう促した。
「雲は風に流されてるから、大丈夫だって」
「願いを告げる刻限には、去ってくれるか?」
「たとえかかっていたとしても、あの程度の薄い雲なら、妨げにはならないと思うぜ。月の光も姿も、こっちから見えているんなら、向こうからも見えているだろうし」
「そうか」
「そうそう。だから、心配しなくてもいいって」
 ほっとした弁丸は、先ほどの衝撃で眠気が吹っ飛んだらしい。まん丸な大きな目で、空をじっと見つめている。
「なあ、佐助。そろそろか」
「ああ、うん……そうだねぇ。うん、そろそろ日付が変わる頃だね。お願い事、していいんじゃない?」
 佐助が促せば、弁丸はうれしそうに頬を持ち上げて、口の横に両手を添えると、願いを叫んだ。
「佐助と、ずっと共にいさせてくれ!」
 小さな体いっぱいで、声を上げた弁丸の願いに、佐助は目をしばたたかせた。
「――え?」
 いったい、どういう事なのだろう。
 弁丸は満面に笑みを浮かべて振り返る。
「これで、佐助はずっと、おれと共にあるのだな」
「……あ、ああ、うん。そうだねぇ。えっと、でも、なんでわざわざ、そんな事を願ったのさ。もっと他に、いろいろあるだろ? 美味しいモンを食べたいとか、立派な武人になりたいとか、そういうの」
 弁丸は、きょとんと小首をかしげた。
「月に願わずとも、おれは立派な武人になるぞ」
「ああ、じゃあ、他になにか……ほら、もっとなんか、すんごい願い事をするとかさ」
 佐助には、弁丸がどうして眠気を必死にガマンしてまで、自分と共にある事を願ったのかが、わからない。弁丸はじっと佐助を見て、それに気づいたのか、理由を口にした。
「佐助は忍だろう? おれが立派な武人となって戦に出れば、佐助も出陣する。だから、願ったのだ」
「俺様が弁丸様と一緒に戦に出るのは、当然だろ」
 違う、と弁丸は首を振った。
「忍と武人の働きは違うと、佐助は常々、言うておるではないか。佐助はおれの忍。ならば、ずっと俺の傍におらねばならぬ」
「うん。だからさ、なんでそんな当たり前の事を、わざわざ願ったのさ」
「当たり前ではない」
 今度は、佐助が首をかしげる。
「働きが違えば、傍におらぬではないか」
 なぜわからぬ、と弁丸が頬をふくらませた。
「忍は使い捨てろ、と佐助は言うが、おれはそれを許さぬと言っておるのだ。おれが死ぬまで、佐助はおれの忍として、共にあらねばならぬ。それゆえ、ウサギに願うたのだ。佐助が勝手に、死なぬようにとな」
 どうだと言わんばかりに、弁丸は得意げに胸をそらした。佐助はポカンとし、次いで肩をすくめて弁丸を抱き上げた。
「はいはい。わかりました。勝手に死なないように、がんばります」
「なんだ、その適当な言い方は」
「もう、すんごく遅いから、さっさと寝るよ」
 屋根から下りるため、弁丸をしっかりと抱きしめた佐助の唇は、笑いをこらえるために妙な形にゆがみ、目じりはほんのりと赤く染まっていた。
2015/09/28



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