ふ、と幸村は空を見上げた。なにかに呼ばれた気がしたのだ。「どうしたのさ、旦那」 鍛錬の相手にと、半ば無理やり付き合わされていた佐助が、槍を下ろした幸村に首をかしげる。「ん……。いや、なにやら、呼ばれた気がいたしたのだ」「呼ばれるって、上空から?」 幸村は空から目をそらさない。佐助は幸村の隣に立って、目を凝らして空を見た。「ううーん。なぁんも、見えないけど……。気になるなら、ちょっと飛んで見てこようか」 佐助が胸元で印を結び、大烏を呼ぼうとするのを、幸村は「いや」と、歯切れ悪く止めた。「いらぬ」「気になるんだろ? 旦那ってば、野生の獣なみに気配に敏感だもんな。戦っている最中は、特に、さ。まあ、とんでもないところで鈍いから、それで均衡が保たれているんだろうけど……。でも、この優秀な忍である俺様が気づかないなんて、ちょっと、いただけないね」 冗談目かした佐助に、幸村はフッと老成した笑みを浮かべた。佐助は瞠目する。「どうしたのさ、旦那」「なにがだ」 驚く佐助にキョトンとした幸村は、いつもの年よりも幼く見える、無垢な顔をしている。「え、ああ……ううん。きっと俺様の見間違い」「そうか」「うん、そう」 きっとそう、と佐助が口内でつぶやくのを、幸村の耳は捉えた。そしてまた、空を見上げる。「なあ、佐助」「なぁに、旦那」「俺は……」 どこまでも高く広く、果てしのない空に、幸村は目を細めた。「なんでもない」 なにが言いたいのか、漠然とはあるのだが言葉が見つからない。「そっか」 佐助は幸村の心中を察したような、深みのある穏やかな笑みを浮かべて、空を見上げた。 刷毛で刷いたような薄い雲が、青天に奥行きを持たせている。「ちゃんと俺様、ついていくからさ」 だから、と続くはずの言葉は、音にしなくとも幸村の胸に届いた。「むろんだ。佐助がおらねば、俺は安心して前に突き進めぬ」「ちょっとは自重してくんないと、こっちの気苦労が堪えないんだけど。……でもまあ、そこが旦那の旦那たるゆえんとも言えるしなぁ」「なんだ、それは」「どんなに立場が変わっても、どれほど成長したとしても、あんたはずっと、真田幸村でしかないってことさ」「そうか」「そう」「そうだな」「そうだよ」 向かいあったふたりは、言葉に出来ぬ思いを笑みで交わした。 とん、と軽く手の甲で、佐助が幸村の胸を叩く。「よろしく頼むぜ、大将。あんたの姿や成長を見守っているのは、俺様だけじゃないんだからさ」「それでは、まるで俺が子どものようではないか」 むうっと唸った幸村に、佐助はなつかしげに目元を細めた。「まだまだこれから、大将としては未熟だってことだよ」 でもきっと――。 佐助の瞳に映った言葉に、幸村は深くうなずく。「必ずや、日ノ本一の大将と呼ばれるまでに、なってみせようぞ」 幸村の目は、佐助を通して、自分を支え、守ってくれた武田信玄以下の甲斐のものらや、その存在に気持ちを鼓舞された各地の猛将、好敵手である奥州の伊達政宗を見据えていた。 はるか遠くから、自分を求め見つめ続けてくれている、あまたの人の声が、かそけき風の音のように、幸村の耳に届く。「たのもしいね」 佐助の声は、その声と重なり、幸村の魂に響いた。「見ていてくれ」 空を見上げて、幸村は強く応える。 遠い空の向こうで、鬨の声にも似た歓声が、響いた気がした。2015/12/24