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雲の向こう

  まっさらな白い雲に、茜色が滲んでまぶしい。
 真田幸村は目を細めて、いやに明るく輝く空をながめていた。
「なぁに、そんなとこでボンヤリしてんのさ」
 なにの気配も感じさせず、声だけが降ってきても幸村は動じなかった。
「うむ」
 生返事をして空をながめている。その背後に、足音も立てずに現れたのは緑の小袖を着た茜色の髪の青年。名を猿飛佐助と言い、幸村の腹心であり忍でもある彼は、世話係も兼ねている。「旦那の髪、ほんっと湿気るとクルクル巻いて大変だよね」
「うむ、そうか?」
「そうだよ。梳かす身にもなってほしいぜ」
「それは、すまんな」
 すこしも済まないとは思っていない口調で、幸村は見もせずに手を伸ばし、湯呑を取った。
 佐助は幸村の手がどのあたりに伸びるかまで覚えており、幸村は佐助のそんなわずかな気遣いを当然の日常として受け止めている。それほどに、ふたりは長く共に在り、生きてきた。
「あーあ。なんだか煮え切らない空だねぇ」
 ぼやきつつ頭のうしろで腕を組む佐助に、幸村はクスリと笑う。
「煮え切らなくとも、降るか降らぬかは見通しておるのだろう」
 佐助は野生の獣のように勘が鋭い。
「まあね。俺様ってば、優秀な忍だから」
「うむ。佐助はまっこと優秀な忍だからな。――俺の宝だ」
「まあ、それほどでもあるけどさぁ」
 さも当然と言いたげに、佐助が鼻の頭を掻く。忍ふぜいが主に取る態度ではないが、幸村はそれを黙認……、いや、容認……、とも違う。ともあれ、そういう態度で接されることを許すも許さないも、当たり前のこととしていた。
 主従というよりもっと隔てのある身分差を、佐助に示されるほうがずっと妙な心地になる。それほど幸村は佐助を信頼し、彼を忍ではなく、それどころか親兄弟のように親しんでいた。
 そんな幸村に立場というものを教えようとしてみたことのある佐助だが、この幸村は年よりも幼く見える少年ぽさを残した頬や大きく澄んだ瞳のまま、純朴で素直なだけでなく、手を焼くほどに言い出したら聞かぬ頑固者だと知っている。佐助の説得に似た教育に首をかしげ、わずかも納得をしないので、危ういとは思いつつ、これも彼の美徳のひとつと教えることをあきらめた。
「ところで旦那」
「なんだ」
 幸村の手は湯呑から団子の串に移っている。
「なんで、縁側でぼんやり空なんか見上げているのさ」
「うむ。……佐助ならば、知っておるやもしれんな」
「なにをさ」
「雲の向こうだ」
「――は?」
 幸村には、どうして佐助が頓狂な声を出したのかわからなかった。キョトンとして首をめぐらせると、佐助が妙な顔をしている。
「どうした、佐助」
「いや。それは俺様のセリフだっての。なんなのさ、急に。詩作の心にでも目覚めちゃった?」
 今度は幸村が妙な顔になった。
「なにゆえ、今の会話でそのような流れになる」
「ああ、うん。旦那が朴念仁なくせに、いきなり恥ずかしいこと臆面もなく言っちゃう人だっての、俺様よぉおくわかってるから、その話はもういいや」
 さっぱりわからないと首をかしげつつ、佐助がもういいと言うので幸村は突っ込んで聞くのをやめにした。
「ところで、どうなのだ。佐助は雲の向こうを知っておるのか」
「雲の向こうって言われてもねぇ」
 佐助は手びさしをして雲を見た。太陽の光を受けて透かせる白い雲は、晴天よりも目に刺さる。
「それは、うんと遠くって意味なのか、雲の裏側って意味なのか、どっちなのさ」
「むろん、裏側に決まっておろう。佐助が俺の知らぬ土地のことも、よう存じておるとわかっておるからな」
 なぜか幸村は得意そうに胸をそらした。それが佐助の力量を誇っているのだとわかって、佐助の胸がくすぐったくなる。まるでちいさな子どもが、近しく親しい相手の誉れを己の自慢にしているようではないか。
「どうなのだ、佐助。知っておるのか」
 うーん、と佐助は頬を掻いた。
「さすがの俺様でも、雲より高い場所に出たことは……」
 あった。
「あるのか」
 はたと気づいた佐助の様子に、幸村は満面を輝かせて床に手を突き腰を浮かせた。
「ああ、うん。あるっちゃあ、あるかも」
「そうか。さすがは佐助だな。――して、どのようなものであった」
「なにが」
「だから、雲の向こうだ!」
 幸村がまっすぐに雲を指さす。
「あるって言っても、俺様の知ってる雲の上ってのは、高い場所にある城に、雲みてぇな霧がかかってる姿ってだけで、本当に雲の上を知っているってわけじゃないぜ」
「それでもよい。雲も霧も似たようなものだと、以前おまえは言っていただろう」
 そんなことを言ったかと、佐助はちょっと考える。まれに幸村の問いに、てきとうにはぐらかすためでたらめを言う場合があるので、そんなやりとりの中の一幕のうちの出来事を、幸村が覚えているのだろうと見当をつけた。
「まあ、そうだねぇ」
 富士の山は雲の上に突き出ているし、そこに登ったこともあるので、あながちウソは言っていないと思い出した佐助は、あいまいにうなずいた。
「それで、どうなのだ。どのようになっておる」
「どのようにもなにも、こっから見上げるのとおんなじさ」
「おなじ?」
「そ。いまは見上げているのが、見下ろす形になる。それだけ」
「ぬう」
 幸村は腕を組み、考え込んだ。自分の求めている答えとは違っているのだが、それがどう違うのかが判然としない。
 幸村が難しい顔になったのは、きっと答えが不満足だったのだと思った佐助は、目を細めて雲を見た。日暮れ時の茜色に、わずかに薄青が透けている。このぶんならば、この雲は雨を落とさず流れるだろう。しかし梅雨時の雲は油断がならない。ちょっと目を離したすきに、予想外の顔を見せてくる。まさに風雲急を告げる情勢の地上と呼応しているかのような空だと、佐助は思った。
 油断をすればいつどこが隆起して戦になるとも知れない世の中で、情勢を探り時には汚れ仕事をもしなければならぬ忍の己が、こんなふうに団子を運んで主とともに空を見上げていられる時間は貴重だと、ふいに佐助は感傷的な心地になる。
 そんな自分に苦笑して、いまだ己の気持ちと佐助の答えとの差異に気づけぬ主に、佐助は声をかけた。
「旦那は、雲の向こうになにがあったらいいなって考えたのさ」
 それを知れば、おのずと求める答えもわかるだろうと佐助が水を向ければ、幸村はひそめていた眉を開いて「うむ」とうなってから答えた。
「雲の上は晴天であろうかと思うたのだ」
「はぁ?」
 間の抜けた佐助の声を気にもせず、幸村は輝く雲に目を向ける。さきほどの綿のような分厚さはどこへやら。擦り切れた衣のように薄くなった部分から、青い空が見えている。しかし光は茜のままで、夕刻を強調していた。
「雲はそのさらに上にある太陽の光を受け、それを広げて地上に注ぐ。雲を通す光はまぶしく、その上はさぞいい天気なのであろうと思うたのだ」
「――はぁ」
 わかったようなわからないような返事をする佐助に、幸村は歯を見せて少年のような笑顔を向けた。
「雲の上の空は、曇ることがないのだろうかと気になったのだが、あの雲の薄くなった部分が、その答えを連れてきたな」
 完全には晴れていない、雲の厚みが薄まった場所を指す幸村は、満足そうに鼻を鳴らした。
「できうるならば、雨のおりにでも雲を抜け、その上を確かめてみたいのだが」
「そんな危ないこと、俺様ぜったい協力しないからね」
「なぜだ」
「当たり前だろう? 雲は雨を降らす水の塊なんだぜ。それを抜けるなんて、柿渋を塗った凧だったとしても不安だし、大烏は雲の上までなんて飛べないし。――よしんば飛べたとしても、雲に突っ込むなんて危なすぎるっての」
「水の塊ならば、川に飛び込むのとおなじだろう」
「雲は雷を生むんだぜ」
 むっ、と幸村は口をつぐんだ。
「もしも雷に当たっちゃったら、どうするのさ。大けがどころじゃ済まないだろう。だから、協力できませんってね」
「……そうか、そうだな。なれど佐助」
「うん?」
「川では雷はおこらぬのに、なにゆえ雲は雷を生むのであろうな」
「え? さあ。考えたこともないなぁ」
「それに、雨は水の粒。それを落とす雲は水の塊と、さきほど申したな。雲はあのように浮かぶのに、川の水は地を流れる。それはどのような違いからだろう」
「ええ。そんなの知らないよ」
「佐助でも、知らぬことがあるのだな」
「旦那ってば、俺様を仙人かなんかと勘違いしてない? 俺様だって、わかんないことあるよ」
「そうか」
「そうだよ。――でも、そうだなぁ。綿と糸みたいな違いなんじゃない? 綿が雲で、糸が川。綿はふわふわするけどさ、糸は、まあ、風に流れたり、短くなったらふわふわするけど、綿ほどじゃないだろ」
「綿……。言われてみれば、雲と綿は似ているな。すると、雲を紡げば雨となるか」
「雨ってちょっと糸みたいに見えるから、そうかもね」
「おもしろいな、佐助」
「そうだねぇ。おもしろいね」
 幸村は純粋に雲や雨のことを、佐助は幸村の思考の流れをおもしろがった。
「あ、そうだ。ねえ、旦那。明日は雨になりそうだからさ、鍛錬はお休みにして、大将と兵法の話でもしてみたら? いまんとこ俺様、用事を言いつけられてないし。いっしょに軍略について考えてみようぜ。旦那もそろそろ大局的に戦場を見て、差配ができるようになんないとね」
「うむ、それはいいな。――お館様のご都合はいかがであろうか」
「それ食べ終わったら聞きに行ってみる?」
「うむっ」
 言うなり団子を口に入れ、咀嚼もそこそこに茶で流し込んだ幸村は立ち上がった。
「よし、行くぞ。佐助」
「ちょっと。ちゃんと噛んでから飲み込みなよね。まったく」
 ぶつぶつ文句を言いながら、盆を持ち上げた佐助が幸村の背をのんびりとした足取りで追いかける。
 擦り切れたように薄くなった雲の向こうに、まだ落ちる刻ではないと太陽が明るく輝いていた。

2016/07/15



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