(花冷えって言うには寒すぎるだろ) 意中でぼやいた猿飛佐助は、ハアッと手のひらに息を吹きかけた。桜が開いているというのに、枝には雪が乗っている。いったいなにがあったのか、にわかには信じられなかった。(でもまあ、目の前にあるもんを信じないわけにはいかないよなぁ) 長く厳しい冬が過ぎ、やっとあたたかくなりはじめたというのに。土を返して田畑の準備をしている里の者たちは、さぞかし気落ちをしているか困惑していることだろう。(やれやれ、まったく) 凶作の予兆にならなければいいがと、佐助は己の給金の心配をした。それはつまり、甲斐の国が飢えるかどうかの問題ともなる。(念のため、いろいろ策を練っておいたほうがいいかもな) 忍である佐助が考えるものではないのだが、ついついそちらに気を回してしまうのは、彼の主がそういう方面の考えに少々うとい部分があるからだ。そのさらに上の主は諸国に名が知れ渡るほどの偉大な人物なのだが、薫陶を受けている佐助直属の主、真田幸村はまだ若く、世間知らずだ。かといって、それでいいとも言っていられない。同年配で領地を切り盛りしている男はいる。 ふっと佐助の脳裏に奥州の独眼竜と謳われる、かの地の領主、伊達政宗の不敵な笑みが浮かんだ。 チッといまいましく舌を鳴らして、佐助は囲炉裏に薪をくべる。パチパチと爆ぜる音を聞きながら、採取してきた新芽を選り分ける。 佐助の耳にサクサクと雪を踏む音が届いた。忍の耳は常人よりも細かく音を聞き分ける。誰のものかはすぐにわかったが、なんの用で忍小屋を訪ねてくるのかはわからない。 作業を続けていると、小屋の前で足音が止まった。「佐助。おるのだろう」 思い描いていたとおりの声がかけられて、佐助は「開いてるよ」と気楽な返事を向けた。がたがたと音を立てて引き戸がずらされ、藁沓を履いた青年の笑顔が現れる。「探したぞ、佐助」 その言葉にウソ偽りがないことは、濡れた髪や湿った着物が言っていた。「旦那、風邪ひくだろ。さっさと入って火にあたんなよ」「うむ」 ずかずかと入ってきた“旦那”は、佐助の主、真田幸村だった。とび色のクセ毛が濡れてしぼんでいる。赤色の着物も湿っている。「いったいどこに行ってたのさ」「山菜を取りに出たと聞いたからな。山の中だ」 さらりと言ってのけた幸村の笑顔は屈託がない。里の子どもとおなじ顔をして笑うこの人が、戦場では紅蓮の鬼と呼ばれているなど目の当たりにしなければ信じられないだろうなと、佐助は選り分ける指を止めて見つめた。「そうまでして俺様を探していたのは、どういう理由でさ」「花見をしようと思ってな」「花見?」「うむ」 頓狂な佐助の声に、幸村は真面目な声で首肯する。「そんなの、俺様が戻ってきたってわかってから、誘いにこればいいだろう。なんでわざわざ山に入ったのさ」「すぐさま行かねばならんのでな」「なんで」「見ればわかる」 どういうことだと片目をすがめた佐助に、幸村はニコニコしながら行くぞと手のひらを差し向ける。「早々にそれを片づけ、腰を上げよ」「その前に、旦那は渇いた着物に着替えなきゃ」「どうせ濡れる。また山に入るのだからな」 そんなことよりはやく準備をしろと全身から気配で言われて、佐助はやれやれと腰を上げて囲炉裏の火を消した。「ったく。いったい、なんだっていうのさ」「いいから、はやく来い」 幸村はもう藁沓を穿いて外に出ている。はいはいとあしらうように返事をしながら、佐助も外に出た。「花見なんて、べつにそんなに急いでしなくったっていいだろ? やりたいんならちゃんと準備してすりゃいいじゃん」「準備をしておったら、なくなってしまうやもしれぬのだ」 わくわくしながら先行する幸村に、口では「めんどくさい」と文句を垂れつつ、そういう彼を好ましく感じながら佐助は後をついて行った。「どこまで行くのさ、旦那」「もうすこしだ」 街道をそれた山の中を分け入る幸村の背中がよろこびに膨らんでいる。見せたい気持ちが近づくにつれて、どんどん膨らんでいるのだろう。(子どもだなぁ) あたたかい苦笑を浮かべて、佐助はゆっくりついていく。 やがて新緑のはざまに桜の姿が現れた。「これだ!」 振り向いて両手を広げた幸村の背後に、見事な山桜があった。花の上にはうっすらと雪が積もっている。見事ではあるのだが、わざわざ急いで見なくとも、雪が溶けて消えてしまえば弁当を持ってのんびりと楽しめる。そんな程度の咲き具合だった。「うん、まあ、キレイだね」 佐助の感動がそれほどではなかったのが不満らしく、幸村は眉をそびやかした。「きちんと見えておるのか、佐助」「見えるも見えないも、目の前にあるんだから目の中には映ってるぜ」 むうっと頬を膨らませた幸村が、もっと近くでよく見ろと言ってくる。ほらここだと指をさされたそこに目を向ければ、離れた枝と枝の間に、積もった雪がわずかに溶け落ち、紐となってかかっていた。「雪紐か」「うむ!」 得意そうに幸村が腰に手を当てる。「で?」「ぬ」「雪紐を俺様に見せたかったってこと」「そうだ」「なんで」「わからぬか」「うーん」 佐助はこめかみを掻いた。長年の付き合いだが、まれに幸村は佐助の想像の斜め上をいく思考を披露する。きっとなにか彼なりの考えがあって、わざわざここまで来たのだろう。「わかんない」 あっさり降参した佐助に、落胆と得意をないまぜにした顔で、幸村は「そうか」と言った。「教えてよ」「うむ」 言って、幸村は雪紐に目を向けた。佐助も視線をそちらに投げる。「枝と枝が雪で繋がっておる」「そうだね」「しかしこれは、溶けてなくなってしまう紐だ」「うん」「ゆえに、溶ける前に佐助に見せたかったのだ」「なんで」 雪紐を見ようと思えば、桜でなくともいいだろう。ここに来るまでの間に、いくつか雪紐を目にした。珍しくもなんともないものを、どうしてわざわざ見せようと思ったのか。「桜が咲けば、みなが笑顔になる」「うん」「長く厳しい冬を終えて、ホッとする」「そうだね」「さまざまなものが活動をはじめる」「うん」「ゆえに……」 そこでちょっと考える顔になったのは、なにを言おうとしていたのか見失いかけたからだろう。佐助は無言で幸村が続きを見つけるのを待った。「おまえと、こういう世の中を造ろうと思ってな」「は?」 いきなり説明が飛んで、佐助は目をぱちくりさせた。「どういう世なのさ」「冬は戦国の世と仮定する。民にとっては辛く厳しいものだからな」「うん。まあ、そうだね」(戦バカな旦那も、あちこちの戦場を見て、そういうことに気がつくようになったんだなぁ) しみじみと感心している佐助の意中など知らず、幸村は言葉を続ける。「桜はさきほど言ったとおりだ」「平和な世の中にたとえてるってことでいい?」「うむ」「それで?」「ゆえに、佐助に見せたかったのだ」「いやだから。中間が抜けてるって」「ぬ? そうか」「うん、そう」 ふうむと幸村は腕を組み、桜を見上げた。「日ノ本は、ひとつだ」「うん……そう、だね?」 話が飛んだように感じるが、幸村のなかでは繋がっていると佐助はわかっていた。ただ、それがどうつながっているのかがわからないだけだ。なので次の言葉を待つ。「枝は各国と仮定する」「うん」「桜が咲く」「ええと、民が笑顔になるっていうか、そういうことって解釈でいい?」「うむ」 満足そうに幸村がうなずく。「それを、雪の紐がつなげておる」「そうだねぇ……ああ」「わかったか」「うん。多分、だけど」「ならばよい」「答え合わせをしなくても?」「佐助ならば、俺の思う答えとたがわぬものを見つけたはずだからな」「そりゃ、ずいぶんと信頼の厚いこって」 ちょっと照れくさくなった佐助は、おどけて見せた。幸村が満面を輝かせて雪紐で繋がれた桜を見上げる。「雪紐は解けて消えるが、それぞれの国が戦の終わりに笑顔となってつながれば、溶けて見えぬようになったとしても繋がりは消えぬだろう」(そう簡単にはいかないだろうけど) 心の中で否定しながら、幸村ならばそんな世の中を目指して実現させそうだと佐助はまぶしく目を細める。「槍を奮い、強い相手と相見えるは心が震える。だが、無益な命のやりとりは好まぬ」「ああ……そっか」 そうだねぇと佐助はつぶやき、幸村の隣に立った。 戦場にいるのは覚悟を決めた武士ばかりではないと、幸村は知った。そのことを指しているのだ。無理やりに戦に駆り出されたものを手にかけるのは、まっすぐな生粋の武人である幸村にはつらいだろう。(そういうものは、俺様の仕事だから) 苦々しい気持ちを味わわせたくない。佐助はそのために働いていた――口では給金のためとうそぶきながら。「めずらしい光景だろう」「うん」「ゆえに、見せたかったのだ。溶け消える前に……おまえに」「そっか」「そうだ」「ありがとね、旦那」「うむ」 だけどとこぼれそうになった小言を、佐助は苦笑でかき消した。あれこれ言うのは戻ってからにしよう。 日に照らされた雪紐がまばゆく輝いている。ぽたり、ぽたりとしずくが落ちて、ゆっくりと細くはかなくなってゆく。 幸村の望みもこれとおなじくらいに珍しく、はかないものだと佐助はわかっていた。だからこそまぶしいのだとも知っている。「旦那」「ん?」「なんでもない」「そうか」「うん」 どんな言葉も陳腐になりそうで、それ以前になにを言いたいのかわからなくなって、佐助はただ目を細めた。 濡れた桜と雪の共演を陽光がきらめかせている。 それにも負けぬ輝きを胸に秘めた人のために、すべてを尽くそうと佐助は思う。 雪が溶ければ、戦がはじまる――。 2017/04/13