ふっと息を抜いた気配を感じ、猿飛佐助は視線を上げた。 彼の目に映るのは、忍である佐助の主、真田幸村。癖の強いとび色の髪のひと房だけ長い後ろ髪が、鍛え抜かれた背中に落ち着く様子が、佐助の目にはゆっくりとした映像として映った。 幸村の手には鍛錬用の槍が握られている。想像上の敵との交戦を終えて、気持ちを切り替えるために吐き出した息を、影内にひそんでいた佐助は感知したのだった。「おつかれ、旦那」 ひょいと幸村の影の中から現れた忍に驚くことなく、首を巡らせた幸村は頬を持ち上げた。「うむ」「どうよ、調子は」 幸村の調子など、聞かずともわかっている。だが、こういう、忍にとっては無駄話でしかないやり取りを、主の幸村は好んだ。「悪くはないが、まだまだだ」 きりりと眉を引き締めて、槍を持つ手を見つめる口元は不敵な笑みを浮かべている。少年の気配を残すあどけない瞳には、未来への希望が満々とたたえられていた。 まぶしいねぇ、と心の中でつぶやく佐助の口元がほころぶ。「そんじゃ、ま。汗をぬぐっておいでよ。なにかお腹に入れられるもの、用意してくるからさ」 パッと顔を輝かせた幸村の口より先に、腹の虫が返事をする。「むっ!」 眉根を寄せて腹を抑えた幸村に、佐助は笑みを深くして片手をひらりと振った。「なるべく早く、持ってくるとしますかね」「うむ。頼むぞ、佐助」 幸村の声が空気に溶けるかいなかの間に、佐助の姿はかききえていた。当然のこととして受け止めた幸村は、汗をぬぐうために井戸へと向かう。そこにはすでに、幸村のための手ぬぐいが用意されていた。むろん、これは佐助が用意をしたものだ。「いつも、すまぬな」 姿がなくとも、声に出したものはすべて佐助に聞こえるものと、幸村は思っている節がある。だから、この場にいない佐助が、さも傍にいるかのように言葉を発する。他者から見れば奇妙であると思うことすらない。 きっと幸村は、いまごろ手ぬぐいの礼を口にしていることだろうと、台所に移動した佐助は想う。 自分のことは、佐助はすべて知っている。幸村はそう認識しているのではないかと、佐助は時折考える。 全幅の信頼を寄せられて、忍風情にかけるものではないと渋面を作りながらも、内心はまんざらでもないと思っていた。 忍と主らしからぬ関係は、佐助にとってはくすぐったい。幸村が当然の顔をしていることが、恐ろしくもあった。 いつか、取り返しのつかない――使い捨てのはずの忍を捨てることができなくなり、窮地に陥る――ことになるのではと危惧している。 まあ、俺様ほどの忍が窮地に陥るなんて考えにくいんだけど。 道具であるはずの忍を人間扱いする主のために、炭火で餅をあぶりながら佐助は苦笑した。 もしも自分が危うくなったら、あの人は必死の形相で救おうとするだろう。戦場で命を落としたとしたら、あたりをはばかることなく吠えるように嘆き悲しんでくれそうだ。 あるいは、衝撃のあまりに受け入れられず、呆然としてしまうかもしれない。 絶対に、そんなことにはなりえないけれど――世の中には“絶対”はありえないから――想像すると、胸の奥のあたりが、ほんのりと温かくなる。この感情の名前を、佐助は知らなかった。見つけようとも考えなかった。名づけてしまえば、陳腐なものになりさがってしまいそうだから。ただの感覚として、大切に味わっていたい。 餅がいい具合に焼けたので、味噌を添えて皿に盛り、茶を入れた湯呑とともに盆にのせて幸村のもとへと向かった。 なにを楽しいことがあるのか、幸村はにこにこと空を眺めて縁側に座っている。「旦那、おまたせ」「うむ。すまぬな」 佐助が盆を差し出すと、幸村はまず湯呑に口をつけて喉を潤し、餅に手を伸ばした。盆を置いた佐助は、餅をほおばる幸村の満足そうな顔をながめる。「佐助は、食わぬのか」「旦那のぶんしか焼いてないよ」「なぜだ」「なぜって……俺様、お腹空いてないから」「そうか」「そ」「ならば、茶を喫してはどうだ」「俺様の湯呑、持ってきてないから」「持ってこればよい」「主と並んでお茶を飲む忍なんて、どこにもいないよ」「佐助がおるではないか」「俺様、してないでしょ」「すればよい」「遠慮しとくよ」 このままでは、同じやりとりの繰り返しになると察して、佐助は話題を変えた。「そういえば、空を見て笑ってたけど、何かあったの?」 質問に、幸村はきょとんと目をしばたたかせた。「気づいておらぬのか」「何を?」 すいっと幸村の目線が移動し、佐助はそれを追った。スッと空を横切る影を見つけて、得心する。「春だねぇ」「うむ!」 力強くうなずいた幸村と佐助の視線の先には、二羽の燕の姿があった。 2022/04/12