誰にも足を踏み入れさせぬ、松永久秀の宝物庫。山の奥の洞窟を利用したその場所は、彼しか知らなかった。誰に邪魔をされることも無く、手に入れたものたちを思うさま愛でることができる。 そのときの気の向くままに手を伸ばし、気持ちが満たされるまで思うさま――。「ふぅ」 細く短い息を吐き出し、手にしていた茶碗を棚に戻す。これは、どうやって手に入れたのだったか。そんなことを思いかけて、久秀は唇の端を皮肉に持ち上げた。 そんなことは、どうでもいい。どうでもいいことを、何故に自分はよぎらせたのか。「まったく。ばかげたことだ」 明かりを消し、久秀はその場を後にした。 扉を閉めて、暗闇の洞窟を光の差すほうへと進んでいく。白んでいる出入り口へ向かう自分を、いつもひどく滑稽だと思う。 光の差すほうへ。 そんな自分の姿を、彼が見ればどんなふうに思うだろう。今は亡き、織田信長は――。 ばかげている。 久秀は自嘲した。 織田信長が討たれた。 その知らせを聞いた直後は、魔王と呼ばれる男であっても、討たれるのかと思っただけだった。久秀の中に何の変化ももたらさぬ知らせを、さらりと受け止め流しながら、欲しいと思ったものを手に入れるために、邪魔な人間を排除していた。 一月が過ぎ、二月が過ぎ、そうして季節が変わる頃に、自分の中で小さな変化が生じていることに気付いた。 取るに足らぬ変化だと、理解しがたいそれを瑣末なことと打ち捨てて、久秀は欲しいと思ったものを手にし、それを心行くまで愛でる、なんら変わらぬ生活を続けていた。 変化に気付いた季節が終わり、次の季節へとなった頃、久秀は信長と酒を酌み交わしていた頃を懐かしんでいる自分に気付いた。 無意識に、信長と酒を飲む時に持参していた杯を愛でる回数が、時間が増えていることに気付いた。 自分の変化を認識できぬまま、久秀は信長の髑髏を欲し、求め、手に入れた。けれどそれは「寂しさ」や思い出に対する「郷愁」に似たものではなく、単なる好奇心――他者の頭蓋を杯としていた信長。その頭蓋が杯とされたのなら、第六天魔王と呼ばれた男は、存在するかせぬかもわからぬ彼岸で、何を感ずるのだろう。 そんな自分の好奇心を満たすためだけに、頭蓋を求めているのだと、彼のそれを欲する自分を認識した。 手に入れた今は、無用な空虚が微風となって胸を掠めている。その空虚は、手に入れてしまったがゆえの、あの男ですらも屍となれば動物と変わらぬということを、この手のひらに乗せて認識したからだと、久秀は深く考えもせずに自分の中に落とし込んだ。 洞窟を抜けると、うっそうとした森になった。 正確には、山の中腹だ。 人の足のあまり入らない山の、奥の奥。そこに、久秀の宝物庫はあった。日差しは眩しいほどで、夏の名残を示してはいるが日の傾く速度は増していた。夏と秋が、せめぎあっている。 爆発するほどの生命力をみなぎらせていた山は、ゆっくりと成熟のときに向かっていた。やがて芳醇な香りを撒き散らし、沈黙の季節へと――次に乱暴なほどの命を世界に放出し、荒れ狂い、激しいほどの「生」を無差別に撒き散らす季節を迎える準備へと、入っていく。 ところどころ、紅葉のはじまりかけた木々の間を歩く久秀の目に、ふと見慣れぬものが映った。 赤いものが、ちらちらと見える。あきらかに人工物の色をしたそれに興味を引かれ、久秀は足先の向きを変えた。「ひぃ、はぁ。ああ、あったぁあ」 気の抜けるような音を出していたのは、大きな鍋を背負い、カブトムシのような甲をかぶり、赤い袢纏を羽織った、つきたての餅のようにふっくらとした頬をしている青年だった。いや、少年と言ってもおかしくはないほど、幼く頼りない雰囲気をかもし出している。 その彼が、安堵したように顔中の筋肉を弛緩させて眺めているのは、かさの大きなキノコだった。それほどの表情をするキノコであるのかと、久秀は彼に声をかけることにした。「そこで、何をしているのかね」 誰も居ないと思っていたらしい彼は、驚いたウサギのように縦に跳躍し、驚くほどのすばやさで、キノコを採取した木の後ろに逃げ込んで身を縮こめた。「ご、ごごごごごご、ごめんなさぁああぁああい!」「何を、謝るのか。さっぱりわからんな」「だ、だだだって、だって、誰かの所有地だなんて思わなかったんだ! 勝手にキノコを採って、ごめんなさいぃいっ」 ひぃいと悲鳴を上げて頭を抱え、ぶるぶると震える彼の前に立ち、見下ろす。怯えながら、大切なもののように採取したキノコを必死に守ろうと、胸に抱えている。「こっ、このキノコを、ぼくに下さいっ」 がばりと土下座した彼に、久秀は頷いた。「そのキノコは、それほどに大切なものか」「これは、これはホンシメジって言って、栽培の出来ない貴重なキノコなんですぅう。すっごく、すっごく美味しくって、だけど簡単には手に入らないから、だから、山に入って採ってたんですぅううっ」 震え怯えながらも、キノコを奪われまいとする姿に欲が浮かんだ。「そのキノコを置いていけば、許してやろう」 はっとした彼が顔を上げ、唇を噛み締めて久秀をにらみつけた。「だめだよっ! これは、このホンシメジは、ぼくが食べるんだからっ!」 叫んだ後で気づき、座したまま恐ろしいほどの早さで後退した彼は、別の木の背後に身を隠した。「だ、だから、だめですっ」 弱々しく言い直した姿に、ふっと久秀の唇に笑みが浮かぶ。「ならば、卿と私で共に食すというのなら、どうだ」「えっ」「それならば、許してやろう」 おそるおそる、青年が木の後ろから出てくる。「きみも、おなかがすいているの?」「ああ、そうだ」「一緒に食べたら、許してくれる?」「ああ、許そう。今後、ここでキノコや木の実、果実を採ることも、許可をしてもかまわんがね。どうだ」 ぱああ、と日が昇るように、青年の顔が明るくなった。「ぼく、小早川秀秋! きみの名前は?」「松永久秀だ」「そっかぁ。松永さんかぁ」 にこにこと、警戒を一気に緩めた秀秋が久秀に歩み寄る。「いっぱいキノコを採ったから、うんと美味しいキノコ鍋を作るね。ぼく、これでも戦国美食会の一員なんだよ」 得意げに胸をそらす秀秋に、愚かなものだと久秀は目を細めた。「ああ、でも、どうしよう」「何か、問題でもあるのかね」「御椀とお箸、ぼくの分しかないんだぁ」 しゅんとしてしまった彼に、他意は見えない。恐ろしいほどに心根の奥までを相手に見せる秀秋は、ひどく新鮮に思えた。「ふむ。それならば問題は無い。この先に、私の宝物を収めている場所がある。そこにある茶碗を使うとしよう」「宝物なのに、使ってもいいの?」「所詮は道具。使うのに、問題は無いだろう」「そっか」 にっこりとした秀秋は、すっかり警戒を解いてしまい、まるで親しい相手に向けるような気色を滲ませていた。それに、わずかに久秀は表に出さずに面食らう。戦国の世では、子どもであってもこれほどに無垢な者は珍しい。よほどに大切にされてきたのか、頭が足りないのか。久秀の姿に畏怖をむける者はあっても、これほど親しげな顔をする人間は、いままで一人もいなかった。酒を酌み交わしていた信長とも、親しいとは少し違った意味合いの関係であったように思う。――それが、どういう関係であったかと、説明をするにふさわしい単語を、久秀は浮かべることが出来なかったけれど。「では、行こうか」「うんっ」 誰にも知られぬことのないように、と山奥に設えたところへ、なぜ彼を案内する気になったのか。久秀は理解をせぬままに彼を連れて戻った。「わぁ」 明かりをつければ、秀秋が感歎の声を上げて棚を見て回る。小早川秀秋の名前は、聞いた事がある。毛利元就の血縁者で、一国一城の主であったはずだ。彼の無防備さが、残酷なほどに安穏とした育ちのよさのせいであるというのなら、ここにあるものの価値がわかることもあるだろう。 棚を眺める秀秋が、あっと声を上げて茶碗を手にした。地味ではあるが角度によって斑紋の周囲が虹色に輝き、妙味のあるものだ。信長が頭蓋の杯のほかに気に入りとしていたもので、本能寺の変の折に消失したと聞かされていたが、久秀は足を運び焼け跡からそれを掘り出し、ここに収めていた。 曜変天目茶碗。 それが、秀秋が手にしているものの名称だった。 さすがに価値がわかるのかと思った久秀に、親しげな笑みを浮かべた秀秋が茶碗を差し出す。「これなら、鍋を食べるのに丁度いいね!」 茶碗の価値ではなく、使い勝手を重点としていた結果、最上級の茶碗に目を留めたというわけか。 ふむ、とひとりで秀秋の価値観に知らぬ世界を感じた久秀は、茶碗を受け取る。この最上級の茶碗で、上質の茶を飲むのではなく、キノコ汁を食べるのも一興だろう。「わぁああっ」 ふ、と久秀の横に目を向けた秀秋が驚き、腰を抜かしてしりもちをつく。その視線を追いかければ、信長の頭蓋骨があった。「あ、あれ、あれ、なんで」 怯える秀秋に、ああ、となんでもないことのような音を、久秀が発した。「あれは、幾度か酒を酌み交わした男の骨だ」「へっ」 秀秋の恐怖が薄れる。「討ち捨てられていたものを、拾ってきたのだよ」 手を伸ばし、何気なく久秀が撫でる姿に、秀秋がぎゅっと眉根を寄せた。ゆっくりと立ち上がった秀秋が、怯えながらも問いかける。「と、友達、だったの?」「友?」 意外な言葉が出たものだ、と久秀は声をわずかに跳ね上げた。「友か。ふむ、友……」 口内で「友」という音を転がして確かめた久秀は、ぽんと軽く信長を親しげに叩いて、秀秋にあるかなしかの笑みを向けた。「唯一、友と呼べる相手であったのかもしれないな」 はっと息を呑んだ秀秋が、胸元で拳を握り、眉をきりりとさせて叫んだ。「ぼくと友達になればいいよ!」 さきほどまでの、ふわふわと頼りなげな雲のようであった秀秋の、力強い声に小さく久秀の眉が、驚きに持ち上がる。「卿と私が、友になると?」「おなじ鍋で食べあうんだから、友達だよっ」 うんっ、と自分の言葉に納得をした秀秋が、あらためてそれがとてもよいことだと噛み締めたらしく、笑みを深めた。「とびっきりの鍋を、作るからね!」 何者をもの毒気を抜くほどの、平和という言葉すらも超越しそうなほどの笑みに、腹の底から立ち上ったものを、久秀は口から迸らせた。「ははははははは」 この感情は、この感覚はなんだ。このように音に出して笑うことを、かつて行ったことがあっただろうか。 秀秋が、うれしそうに満足そうに目をとろかせる。「それじゃあ、外に出ようよ松永さん。とびっきりの鍋を、作るからさ」「ああ、馳走になるとしよう」 うきうきと出口に向かう秀秋の背を眺め、久秀は宝物庫の扉を閉める前に、ちらりと信長の頭蓋に目を向けた。薄く笑んで扉を閉めた久秀は、秀秋が与えた自分の内側の小さな変化に、まだ、気付かない。2013/09/28