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登場―徳川家康・長曾我部元親
立つ!

 雨が外界の音を全て叩き落とし、自らの音のみで世の中を覆いつくす。
 雨音に包み込まれた室内で、ほんのりとした灯明に浮かび上がる薄暗い中に、二人の男がくつろいだ様子で酒を飲んでいた。
 一人は、西海の鬼と呼ばれる長曾我部元親。
 一人は、このたび天下人となった徳川家康。
 二人は雨音を肴に、ほろほろと杯を傾けていた。どちらも、手酌である。それぞれの好きな速度で湿らせた唇を、ほんのりとした笑みで彩っていた。声を出さなくとも会話をしているように、二人はただ雨音に耳を傾け、酒の香りを鼻腔に含み、唇を濡らしている。
 どこからか風が入り、ゆらりと灯明の火を揺らし、灯明皿の油が少なかったのか、ふっつりと室内から明かりが消えた。
 うすぼんやりとした藍色に部屋が沈み、雨が先ほどよりも音を激しくさせたような気になった。
「家康」
 ぽつり、と元親が声を出す。家康が顔を上げた。藍色の闇の中では、その顔がどんな表情を持っているのかが判然としない。けれど元親の見えぬ左目は、彼と今まで重ねてきた友としての時間が見せる、家康の表情を浮かび上がらせていた。
 いや。
 灯明の明かりの在る中でも、元親の左目は薄い笑みを浮かべ穏やかに酒を傾ける家康ではなく、身を凝らせて震え、しずしずと涙をこぼしている家康が、握り締めた拳から血を流している家康が、見えていた。
「ここには、俺しかいねぇ」
 ふ、と家康の気配がぶれる。それを包み込むように、元親はゆっくりと噛んで含めるように、言葉を紡ぐ。
「ここまで来るのに、色んな絆を結んで、それ以上に、色んな絆を切ってきちまったよな。……痛ぇよなぁ」
 しみじみとした元親の声に、家康が息を呑む。元親の左目には、迷(まよ)い子の目をした家康が映っている。逞しく成長した彼ではなく、初めて出会った頃の、本田忠勝の影に隠れてしまうほどに未熟で、けれど硬く強い信念と自分を支える人々の心を汲み取り抱きしめようとする、ひたむきな瞳をした幼い彼の姿で。
 変わってねぇな、と元親は口の端で息を漏らす。
「俺も、気まずい部分はある。信じきれねぇで、悪かったな」
「元親」
 吐息のように漏れた家康の声は、かすかに震えていた。
「元親、ワシは……」
「取り繕うなよ。ここには、俺とアンタしかいねぇんだ。争いあっただの、これからは天下人だなんだと、そういう面倒くせぇモンは無しだ。雨が声を外に漏らさねぇように、してくれてる。昔みてぇに、腹を割って俺と話が出来ねぇってんなら、それはこの席が終わってからにしちゃくんねぇか。この場だけは、昔みてぇに腹ん中も全部ぶちまけてさらけ出して、キレイなモンも汚ねぇモンも見せあおうじゃねぇか」
 じわりと雨がしみこむように、元親の言葉が家康の肌身に沁みる。
「俺は、アンタじゃなく、アンタを恨む石田についた」
 家康の気配が揺れる。
「それは、アンタを信じきれなかったから、ってぇだけじゃねぇ」
 すう、と家康が深く息を吸い込んだ。
「ああ。わかっている。三成を見れば、元親は放って置けなくなることぐらい、ワシにはわかっていた」
 薄闇に浮かぶ家康は、穏やかに微笑んでいる。何もかもを受け入れた、仏のような笑みで。けれど――
「その報告を聞いて、そう返答をしたってぇ話は聞いたぜ」
 元親の左目に映る家康は
「そん時の声が、震えていたってな」
 寂しそうに、傷ついた顔をして唇を噛み締めていた。
「元親、ワシは……本当に、三成のそばに元親がいてくれて、良かったと思っているんだ」
「それが、ウソだとは言ってねぇよ。家康」
 穏やかに、海原のように懐の大きな鬼が微笑む。
「アイツを……石田を見たときに、家康が気にかけている理由は、すぐにわかった」
 家康が杯に目を落とす。藍色に包まれた彼の唇がどんな形になっているのか、元親の右目からは隠れていた。けれど暗闇であったとしても、元親の左目は家康の内側の表情を、しっかりと捉えている。
「家康。気を張っていなきゃいけねぇ相手は、ここにはいないだろう? なんでも、張り詰めすぎたら簡単に破けちまう。緩める時だって必要なんだぜ」
 そこで言葉を切り、元親は唇を湿らせる。
「釣り糸も、たわませて相手に合わせて。そうしねぇと糸が切れて、あと少しで釣り上げられたはずのモンに、逃げられちまう」
 家康にではなく、床に向けて声を放り投げた元親は、伺うように家康に目を向けた。迷う目で、家康が元親の言葉が転がる床の上を探っている。
 雨音が、部屋を包んでいる。
 人の気配は、ただこの室内のみにしかなく、世の中から隔絶されていた。
 今だけ、この部屋は世界から切り離されていた。
「張り詰めていた息を抜く時が無けりゃあ、小さなモンを見落としちまいかねねぇ」
 怒りに任せて目を曇らせ、真実を見落とし、家康を一時でも本気で憎んだ自分のように。
 言葉にしない元親の声を、家康の耳が拾う。ごくりと喉を震わせた家康が、杯を置いた。
「謝罪するつもりはねぇ。あん時、俺はそれが正しいと決断した。後悔はしてねぇ。間違ったとも思っちゃいねぇ。――けど、家康。アンタとこうして酒を汲みかわすにゃ少し、気兼ねするっつうか、落ち着かねぇ部分が、この胸にしこりみてぇに残ってる」
 とん、と元親が広く逞しく盛り上がった胸筋を、拳で軽く叩いて歯を見せた。藍色の闇に、秋晴れのような元親の笑みが浮かぶ。
「過ぎたモンは、戻らねぇ。どんな選択をしたとしても、前を向いて進むしかねぇ。だが、すれ違った分、その理由を、真実を……重ね合わせる事は出来るんじゃねぇか。進んだ先で、まったく同じにはならなくても、壊れちまったモンを修復して行く事は出来るんじゃねぇか。――いや。そうじゃねぇな。俺は、家康と、そういうことをしたいと思っている。アンタもそう思ったから、人払いをしての、俺との対話に承諾をしてくれたんだと、一人で納得してんだけどな」
 違うのか、と藍色に沈む部屋に元親の右目がきらめいた。
 ほう、と家康が何かを脱ぎ捨てるように息を吐く。そうして何か言葉を紡ごうと唇を開き、唇を迷わせ、震わせ、けれど何の音も出せずに閉じた。変わりに徳利を手にして、元親に差し出す。元親は杯を空にして、家康の酒を受けた。それを一気に煽って、今度は元親が徳利を手にする。家康も置いた杯を手にして煽り、元親の酒を受けた。
「っ、ふ」
 飲み干した家康の唇から、音が漏れる。かすかなその音に、元親が慈しむような気配を向けた。
「家康」
 元親が徳利を家康の前に置き、杯を差し出す。注げと無言で求める元親に、家康は唇を震わせ喉を鳴らしながら、酒を注いだ。
「っはぁ。……うまいな」
 しみじみと、元親が吐息を漏らす。
「ああ、うまい」
 返した家康は笑みを浮かべ、涙に声音を濡らしていた。
 雨が、渇いて割れてヒビの入った大地を潤す。渇いて硬くなっていた土が雨でとろけ、ヒビを埋める。
「壊れたんなら、何度でも直せばいい。欠けた茶碗みてぇに。不恰好にゃなるだろうが、長年使っていりゃあ、ヒビも入れば欠けもする。そりゃあ、仕方のねぇことだ」
 長く共に在れば、すれ違いもするし勘違いもする。けれど、そういうものを繰り返し乗り越えてこそ、不恰好でも絆は続き、強くなる。
「欠けたから、ヒビが入っちまったからって、簡単に捨ててしまわなけりゃあ、なんとかなる場合もある」
 それでも、どうしようもない時もある。けれど――
「諦めねぇで大切にし続けるのが、アンタだろう? 家康」
 石田三成とのすれ違いを、諦めずに思いを告げようとしたんだろう。互いに理解しあおうと、あがき続けたんだろう。頑なな彼に、自分ではない誰かとでもかまわないから、新たな絆を手にして欲しいと望んだんだろう。
「石田を見てたら、アンタの姿がちらついて仕方なかった」
 ぽつりとこぼした元親の言葉に、家康の胸が刺し貫かれた。
「っ、元親。ワシは、ワシは……っふ」
 言葉に出来ぬ家康の思いが、嗚咽となってあふれ出る。身を震わせて泣き濡れる家康を、元親が視線で抱き締めた。
「石田が、俺とアンタの壊れた絆の継ぎに、なってくれたんだなぁ」
「っ、ふ、ぅ……ぅう」
 歯を噛み締め拳を握り、家康が泣き崩れる。
「全部、吐き出しちまえよ。そのまんま、何もかも吐き出しちまえ。そうしなきゃ、先に進めねぇだろう」
 歩き出すために、堪えていたものを全て吐き出して、整理をしてから抱えなおせばいい。
「ハンパな覚悟じゃ、天下人はやれねぇからな」
 うんうんと一人納得をしたように頷きながら、元親は酒を飲む。
「けど、まぁ。天下人だなんだっつっても、家康は家康だ。そのことを忘れんじゃねぇぞ」
「っ、ああ。元親……ああ、ありがとう。ワシは、どんな立場であっても、ワシのままだ。元親。もしもワシが自分を見失いそうになった時は」
 ぐい、と家康が手の甲で目元をぬぐい、晴れやかな笑みを浮かべる。涙をぬぐった手で拳を握り、元親に突き出した。それに、元親が拳を重ねる。
「この俺が、思いっきりぶん殴って、泣き虫で弱虫のアンタを思い出させてやるよ」
 弱さを知る人間が、どこまでも強く優しくあれることを、誰もが笑って過ごせる世の中を作れることを、天下にしらしめてやればいい。
「飲もう、元親!」
「おう!」
 杯を打ち合わせ、一気に煽る。笑みを重ねた二人の間に入っていたヒビを、降り注ぐ雨が埋めていく。
「今は、ただの徳川家康で、いさせてくれ」
「いつでも、俺の前では他の何でもねぇ、肩書き抜きのアンタでいりゃあいい」
「――ありがとう、元親」
 翌日。
 すっきりと晴れ渡った曇りの無い青空の下で、天下人としての徳川家康が日ノ本に誕生した。

2013/10/23



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