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登場―家康・小十郎
その日が来るまで

 ふわりと、灯明で書物を読んでいた徳川家康の耳を、撫でるものがあった。目を上げた家康は、耳に触れたものを追うように目を閉じた。切れ切れに届くものに、家康の唇がほころぶ。
 腰を上げた家康は、違い棚の端に置いていた古ぼけた巾着に手を伸ばした。ずいぶんと薄汚れ擦り切れてはいるが、上等の織物であることは、見る者が見ればわかる品であった。それを懐かしげに見つめた家康が、明かりを消して部屋を出る。耳に触れるものを心で手繰りながら、それの邪魔にならぬよう足音を忍ばせて廊下を進んだ。
 膨らみきっていない、半ばよりも少し太めの月がしらじらと、家康の足元を照らしている。何もかもを照らし光と影を分けてしまう太陽の光よりも弱く、けれど凛とした強さを持って注ぐ月光は、光と影の境をぼんやりと馴染ませていた。
 月光と家康の足を誘うものが、彼の「今」と「昔」の境界を滲ませる。懐かしみと現在との距離を、その間にあった出来事の全てを、形の無い感情の煙として揺り起こし、家康の胸中を包んだ。
 家康が進むにつれて切れ切れだったものが、繋がりのあるものへと変化し、やがてそれは彩りに満ちたものへと変じた。
 繭が糸となり、紡がれて染まり、織られて反物となるように。
 人が生まれ、さまざまなものを経験し、成長していくように。
 反物は、繭には戻れない。反物になるまでに、さまざまな工程がある。
 人は、過去には戻れない。現在の自分になるまでに、さまざまな経験がある。
 自分は、どんな織物となって人の目にうつっているのだろうかと、家康は追ってきたものの出所にたどり着き、足を止めた。
 月光と踊るように紡がれる、家康の耳に触れて、彼の足を導き郷愁を胸に起こさせたもの――笛の音を響かせる男、片倉小十郎の背中を、家康は見つめた。
 奥州の竜、伊達政宗の腹心。竜の右目と呼ばれる勇猛な軍師。戦場で出会いたくないと多くの武将が思い、我が元へと望んだ男の紡ぐ笛の音の繊細さに、家康の心の琴線が震えて爪弾かれる。この場所へ、今の立場へ――天下人と呼ばれる高みに足を踏み入れ立ち尽くしている家康の、これまでのことを染め抜いた反物を広げて、彩り豊かな感情を足元から湧き立たせた。
 細く高く余韻の尾を揺らめかせて、笛の音が月光と踊って夜気に溶ける。名残もすべて消えうせてから、家康は小十郎の横に並び、腰を下ろした。家康が声を発する前に
「良い月だな」
 小十郎が月を見上げ、口を開いた。
「ああ」
 満月に少し足らぬ小望月を見上げた家康が、遠く寂しげに目を細めた。ちらりと横目でそれを見た小十郎が、細く息を吐く。
「眠れねぇのか」
「いや。文を、読んでいたんだ」
「文」
 小十郎が家康に顔を向け、家康も小十郎を向く。
「天下人になると、いろいろとしなければならないことが、思うよりも多いみたいだ」
 困ったように眉を下げて笑うのは、家康のクセなのだろうか。彼の幼少期の処遇がどうであったのかを聞いた事のある小十郎は、諦める事を覚えた笑みを浮かべる天下人を見つめる。諦めざるを得ないことを記憶した人間が、耐える事を学ばざるを得なかった人間が、ゆるぎないものを持ったとき、どれほど恐ろしい強さを身につけることになるのかを、小十郎は彼の姿を通して知った。危うさを滲ませながら、小さな揺らぎすらも感じさせない彼の心の軸に、小十郎は唇をほころばせる。
「あせる必要はねぇ。体を壊せば、元も子も無くなるぞ」
「あせっているわけではないさ。出来る事を、出来るだけ、したいんだ」
 目を落とした家康が、膝に乗せた手を上向かせて広げた。その手の上に、日ノ本全土の命運が乗っている。
「体調を崩してはいけないことは、重々承知しているつもりだ」
 統一となったからといって、地盤がしっかりと固まっているわけではない。そんな状態で自分が体調を崩せば、どうなるか。騒がしく血なまぐさい戦国をくぐりぬけた家康が、わからぬはずはない。けれど。
「一人で、抱える必要はねぇ」
 若さゆえに、気追いすぎて限界を見誤るのではないかと、小十郎は月光に照らされる家康の、頬に漂う幼さに言わずにはいられなかった。
 耐え忍び、強い信念を持ち、自分の力量を把握し、覇気ではなく温和を持って人々を導き手を携え、ここまで上り詰めた男の尊ぶべき幼さを、それゆえに彼が負わざるを得なかった残酷を、小十郎の目は映していた。
「ワシ一人で無し得たものではないからな。ぞんぶんに、頼るつもりだ。片倉殿。むろん、独眼竜、伊達政宗殿も」
 何の含みも気負いもなく言ってのける家康の素直さに、小十郎が目じりを緩める。
「あまり、そう簡単に相手を信頼するのも、どうかと思うがな」
「信じられない相手を、頼ることなど出来ないだろう」
 少し首を傾ける家康の奥底にある強さに、小十郎は瞑目した。
 親兄弟であろうとも欺き殺しあう時代の中で、疑うよりも信じる事のほうが難しい事は、身を持って知っている男の、飾らぬ何気ないその言葉にある厚みを確かめる。
「頼りにしている。……二人とも」
「ずいぶんと、買われたモンだな」
「むろん、二人だけじゃない。元親や毛利殿、真田や慶次、利家殿も頼るつもりだ。信玄公や謙信公、島津殿らから学ばなければいけないことも、たくさんある」
 これからだ、と家康が音にせずに呟く。拳を握り、その手にあるものの大きさと重さを確かめる。地盤を固め、細かなところにも目を配り、民の安寧を、絆を育める、人を信じる事の出来る世の中を作るために、武器を捨てて拳で挑んだのだ。この拳を解き、誰かと手を繋ぎ助け合い、誰もが笑って暮らせる世の中を、これから作っていくのだ。
「まだまだ、ワシは未熟だ。迷うことも、間違うこともある。だが、皆がワシを諌め導き、共に歩んでくれると、信じている」
 希望に満ちた家康の、若さゆえの美しさの奥に、うずまき揺れる血なまぐさい泥土がある。それを抜けて這い上がり、抱えたままに無垢でいられる瞳の強さに、小十郎は心地よい敗北を抱えながら、教え支えなければいけない危うさを見取った。
「もう遅い。早く寝ろ。寝不足だと、判断力が鈍るぞ」
 腰を上げた小十郎がきびすを返す前に、家康が身を乗り出した。
「不安なんだ」
 小十郎の足が止まる。去りかけた姿のままの小十郎に、家康はぽつりぽつりと独白した。
「片倉殿に、こんな情けなく頼りないことを言うのは、良く無い事だとわかっているつもりだ。だが、ワシは……不安なんだ」
 共に歩み支えてくれた徳川譜代の家臣だからこそ、言えないこともある。少し離れた立場の、信頼に足る精神的に熟した相手だからこそ――熟してはいるが遠くはない相手だからこそ、洩らせる弱音があった。
 同年代でもない、けれど師と仰ぐほど年が離れているわけでも無い小十郎は、家康が心に刺さった小さなとげのような不安を晒すのに、これ以上ないほどの距離と思慮を持った人物であった。
 ちらりと、小十郎が振り向かずに家康を見る。その手に古い巾着が握られているのに目を留めて、小十郎は口の端を持ち上げた。
「立場というものが、人を狂わせる姿を見てきた。だから不安だと言うのなら、その手に握りしめているモンを見て、思い出せばいい」
 はっとした家康が、手にある巾着を見る。
「片倉殿」
「なんだ」
「笛の音を……ワシが迷い、踏み出すことをためらうようなことがあれば、笛の音を、聞かせて貰えるだろうか」
 月を見上げた小十郎が、息を吐く。
「政宗様以外に乞われて、俺が吹くことは無ぇ」
 うつむいた家康が、寂しげに唇を歪ませる。
「だが、俺の興が乗って今日みてぇに吹いている時に聞きに来るのは、かまわねぇぜ」
 はっと顔を上げた家康の目に、去りゆく小十郎の背が、ひときわ大きく頼もしく映った。ありがとう、と口の中で呟き頭を下げた家康は、手の中の巾着の口を開いて中身を取り出した。その中にあった古い笛は――幼かった人質時代、賑やかな今川義元の屋敷にいた頃に、少ない金を工面して手に入れ、慰みに河原で一人吹いていた子ども用の笛は――今の家康の手には、とても小さなものになっていた。

2013/12/15



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