ひとり、徳川家康は海を眺めていた。潮騒を耳に受け、何をするでもなくたたずんでいる。その目ははるか向こう――海平線のさらに向こうへと、注がれていた。「何、ひとりで年寄りみてぇに、辛気臭ぇ空気をかもし出してんだよ」 突然にかけられた声に、家康は目を丸くした。聞こえるはずの無い声が、なつかしく大切な声が続く。「天下人になっちまったら、いきなり老け込んじまうのか。それとも俺が海に出ている間に、浦島太郎みてぇに、とんでもなく時間が流れちまった、なんて事は無ぇだろうな」 聞き間違いでも、幻聴でもない。その声は確かな力強さを持って、家康の耳に届いている。「元親!」 長曾我部元親。西海の鬼と呼ばれた男は、西海だけにおさまることなど出来ず、大海原へと旅立ったはずであった。どのぐらいの旅になるか、わからない。イスパニアのその先まで行ってやると、彼は豪快に笑っていた。その元親が、ゆったりとした足取りで近付いてくる。見送ったときと変わらぬ、逞しく眩しい笑みを浮かべて。「久しぶりだなぁ、家康」「帰って来ていたのか」 互いに拳を握り、それを打ち合わせる。それだけで、離れていた年数が打ち砕かれ、別れたあの日の続きとなる。「土産があるぜ。後で持って行こうと思っていたんだけどよ」「どうしてここが?」 家康は、誰にも告げずにここに来ていた。政務に追われていると時折、多くの人間に囲まれているというのに、無数の絆を感じながらも言い知れぬ孤独を味わう。その矛盾が身の内から溢れそうになると、家康はたった一人で、腹心の本田忠勝にすら何も言わず、ひっそりと海に慰めを求めに来る。「俺との約束を、確認しに来てんだろ?」 家康が息を呑み、元親が得意げに鼻を鳴らす。元親が出立する前に、家康は彼と約束をした。この国を、美しい反物のように絆の糸で折り上げると。世界を目指す海賊として出航した元親は、その壮大なオタカラを拝みに帰ると。「出来たか?」 微笑み、家康は寂しげな瞳で首を振った。「まだまだ、足りないところばかりだ」「海の先には、この国には無ぇ織物が、たんまりあったぜ。それを土産に持ってきた。久しぶりに、俺の船に乗ってみねぇか」「三成は息災か?」「ああ。相変わらずだ。大谷も、まあ、元気って言っていいのか、わかんねぇが。ま、ぼちぼちってとこだな」「そうか。――毛利殿は、元親がいなくなって清々としたとか言っていたが、ワシには寂しそうにみえる」「っはは! 毛利はひねくれてるからなぁ。俺がいなくなって、張り合いがなくなってんだろ。久しぶりに、顔を見に行ってやるとするか」「しばらく、滞在するのか」「ん? ああ。野郎どもが、郷土の味が恋しくなったって言うんでな。日ノ本がどんな具合になったのか、見に行くのも悪かねぇと思ってよ」「そうか」 どことなく寂しげな家康の背を、元親の大きな手のひらが叩いた。「久しぶりに会ったってぇのに、シケた顔をしてんじゃねぇよ。この鬼との再会を祝して、潰れるまで呑もうじゃねぇか。まさか、天下人になっちまったから、海賊風情とそんなこたぁ出来ねぇなんざ、言わねぇだろうな」 何も変わらぬ元親の朗らかさに、家康の胸に込み上げるものがあった。「元親」「ん?」「この国を、見てくれないか」 変わらぬ目を持った彼に、人の影に隠れてしまうほど未熟であった頃からの理想を、夢を、確認して欲しい。「いろんな国を見てきた鬼の目は、厳しいぜ」 元親がニヤリとした。「望むところだ。それで無くては、より良い国造りを進められない」 家康は夢を語りながら杯を交わした日々を思い出す。自分の夢の根幹を知っている元親なら、諸外国を目にしてきた元親ならば、自分が見落としている所に気付くだろう。自分を慕い集まる者らの名を全て覚え、細やかな気配りの出来る元親ならば。 家康の気持ちを見透かしたように、元親はつまらなさそうに鼻を鳴らした。「つまんねぇ顔してんじゃねぇよ、家康」「え。う、わわっ」 元親の大きな手のひらが、わしわしと乱暴に家康の髪をかきまぜる。「海賊にゃ、天下人だろうと明の国王だろうと、イスパニアの王様だろうと、関係ねぇ。そんなもんに縛られねぇから、海賊なんだ。ま、まれにそういう下らねぇ事を気にしている海賊に遭遇することもあるけどよ。この鬼は、そんな小せぇことは、気にしねぇ」「小さい事って」 明国王やイスパニアの王となれば、相当な相手だと思うがと、家康は呆れた。家康の頭を掻き交ぜていた手を、元親は彼の肩にかけて引き寄せる。「だから俺の前では、そんなくだらねぇモンから離れて、好きに夢を語りゃあいいんだよ」「元親」 元親が白い歯を見せる。その眩しさに、家康の目頭が熱くなった。「なんだったら、毛利も呼んでよぉ。久しぶりに政宗や慶次も集めて、俺の船で金吾の鍋でもつつくとしようぜ。土の上なら家康は天下人かもしんねぇが、海の上ならバカみてぇに理想を語って、ぐでんぐでんに酔いつぶれて寝ちまう、徳川家康ってぇ名前のただの人間なんだからよ」 ただの人。 その言葉が、家康の胸に深く刺さる。目じりを光らせた家康の頭を力任せに腕にくるみ、もう片手を拳にして脳天をグリグリ押しながら、元親は悪童の笑みを浮かべた。「この俺が、誰かに額づくわけ無ぇだろうが」「あはは、痛い、元親、痛い」 オラオラと元親が親しみをこめた意地悪をするのに、家康も童子のように反撃をした。「うひゃっ、この野郎!」 わき腹をくすぐる家康から元親が逃れ、家康が追いかける。相手の腕を交わしつつ、隙を狙ってイタズラをしかける。走り回り大声を上げて笑い、年端も行かぬ子どものようにはしゃぎまわった二人は、息を切らして大地に転がった。大の字になり空を見上げ、大きく胸をあえがせる。「政務だなんだで、体力が落ちてんじゃねぇのか」「まだまだ、元親よりも若いからな」「人を年寄りみてぇに言うんじゃねぇよ」 元親の腕が家康の首にかかる。快活な笑い声を上げながら、家康は胸中の澱が溶けるのを感じた。「かなわないな」「あん?」「なんでもない」 ふうん、と元親が起き上がった。砂を払い、家康に手を差し伸べる。「おら、行くぜ」 その手をしっかり握りしめ、家康は立ち上がった。手はすぐに離れ、元親は家康に大きな背を向け、導くように進む。「昔よりもずっと、大きくなったと思っていたんだが」 握った手の大きさは、槍を手にしていた頃よりもずっと近付いた気がしていたのだけれど。「何やってんだ。さっさと来いよ、家康」「ああ」 大海原のような男には、いつまでもかなわないなと思う。それが胸を膨らませ、気持ちを浮き上がらせる。小走りに元親の横に追いつき、家康は自分がまだまだ道の途中であることが、この上も無く嬉しかった。「今夜は呑み明かそう。元親」「当然だ。珍しい異国の酒を、ぞんぶんに振る舞ってやるよ」「楽しみだ」 肩を組み、肩書きの無い“人”として、夢を肴に酌み交わす。 千代に八千代に、絆織り成す羽衣は、波頭に洗われ彩と成す2014/04/26