同じ年頃の者がいるからと言われ、弁丸はお館様こと武田信玄の使いと共に、奥州へと出かける事になった。出かける前に、同じ年頃の奥州の嫡男は大病を患い快癒したばかりだと、弁丸は信玄に言われ、その名残で辛い思いをしているそうだと聞かされた。「弁が、しっかりとお慰めもうす。ご安心くだされ。お館様」 きりりと眉をそびやかし、弁丸は小さな胸を反らして請け負った。 自分の始めての、お館様よりの任務だと、弁丸は意気揚々としている。ふっくらとした頬をうれしげに持ち上げ、丸い目を細めている。得意満面の瞳はキラキラと輝き、道中の者らの心をほっこりと和ませた。そしてそれを、ほんのすこし心配気味に、一行とは少し離れた場所から見守っている、弁丸付きの忍、猿飛佐助がいた。 道中、期待と気合をぐんぐん膨らませた弁丸は、だから、奥州の伊達屋敷に入るなり客間に通され菓子を出され、侍女と遊んでいろと言われて驚いた。 ぽかんとしている弁丸をよそに、大人たちは大切な話があるからと、弁丸に「後でな」と告げて去ってしまった。 それでもまだ、屋敷の侍女がニッコリと弁丸の手を握り、奥へ参りましょうと言った時には、多少の希望もあった。これから自分は、大病を患った嫡男の所へ連れて行かれるのだと。 だが、弁丸は今、やわらかな笑みを浮かべた侍女二人に世話をされ、茶と団子をふるまわれている。一向に、その嫡男と対面の出来る様子が無い。「ほんに、おかわいらしい使者ですこと」「まんまるのおめめに、ふっくらとした頬。あいらしゅうございますわね」 ふふと弁丸を囲む侍女は楽しげに笑い、細く白い指で弁丸の髪を梳いたり、頬をなでたりする。この二人が心底、自分を受け入れてくれていることは、その褒め言葉が本音であることは伝わってくる。可愛がられることは不快ではない。ぬくぬくとしたやさしさに囲まれ、おいしいものを食すというのは楽しいものだ。 だが、弁丸の笑みはどこかぎこちない。あせりのようなものが滲んでいる。「緊張をなさっておいでなのですね」「これほど、おちいさいのですもの。致し方ありませんわ」 侍女らは、見知った大人がいない知らない場所にいることを、弁丸が不安に感じているのだと判じた。「あの」 弁丸が声を出せば、侍女らが慈しみの眼差しで小首を傾げる。「弁と同じ年頃の子どもが、こちらにいると伺っておりもうす」 弁丸の言葉に、侍女らは顔を曇らせ見合わせた。「お会いしとうござる」 ほうっと困惑の息を吐き、きりっと顔を引き締めた弁丸に、侍女は首を振った。「梵天丸様には、お会いになれませぬ」「なにゆえにござりまする。大病を患ったとお伺いしておりもうす。もしや、ふたたびお加減が優れぬのでしょうか」 悲しげに案じる弁丸に、侍女らはますます困惑を深めた。「それがし、お慰めあそばすようにと、お館様より下知をいただいたのでござる」 しゅんとしてしまった弁丸に、侍女はあわれみを浮かべて小さな肩に手を置いた。「そのように、落ち込まれずとも良いのですよ」「おちいさいのに、大切な任務を与えられ、全うしようと思うておられるのですね」 立派だこと、と褒められても、弁丸は悲しげにうなだれたままだ。侍女らはいたいけな弁丸を慰めようと、腕をさすり団子を勧め、道中の話を聞かせて欲しいなどと言った。気を使われていることを察した弁丸は、なんとか笑みを作り団子をありがたく受け、道中の話をしたが目元は曇ったままだった。その姿に侍女らは胸を痛め、そうだと軽く手を打ち合わせた。「庭にお出になられますか」「そうですね。お疲れでなければ、屋敷内を散歩などしてみては、いかがでしょうか」 何をしても弁丸の心が奥底から晴れないと気付いた侍女は、それでも愛らしい子どもに心底からの笑みを浮かばせたいと、いそいそと障子を開けて庭に誘った。 庭を行けば、もしかすれば大病を患ったという嫡男に会えるかもしれない。 弁丸は侍女らの誘いに導かれ庭に下りた。「好きに歩いても、ようござりまするか」「ええ、ええ。甲斐の使者が参っていることも、その中にお子がいらっしゃることも、皆、承知しておりますから。塀の中ならば、お好きに行かれてようございますよ」「かたじけのうござる」 ぺこりと頭を下げた弁丸が、うれしげに走っていくのを、侍女らは「やはり子どもは、じっとしておるより外で遊ぶほうが好きなのですね」と、ほほえましく見送った。 見送られた弁丸は、庭を走りあちらこちらに顔を出した。見知らぬ子どもがいることに屋敷内の大人が目を丸くすれば、姿勢を正して「甲斐よりの使者がひとり、弁丸にござる」と頭を下げる。それに大人たちは目じりを下げ、小さいのに立派な挨拶ができてえらいと褒めた。そこで弁丸が嫡男殿はいずこにと問うと、全員が顔を曇らせる。大病の名残で苦しんでいると聞いていたので、嫡男の子どもは相当に苦しまれているから、みなが顔を曇らせるのだろうと気遣い、弁丸は大人たちに詳しく問うことができなかった。 そうこうしているうちに、弁丸は相手の名前が「梵天丸」というのだと知った。梵天丸は、いずこにいるのだろう。大人たちが顔をこわばらせたり、目をそらしたり、そそくさと話題を変えて立ち去るほどの大病の名残とは、どれほどのものなのだろう。 弁丸は考えれば考えるほど、胸の辺りがズキズキとして苦しく、自分に彼を慰めることが出来るのだろうかと不安になった。「梵天丸殿は、どこに」 途方にくれて、走り回る気力も萎え、とぼとぼと庭を行く弁丸の目が丸くなった。 池の前に子どもがいる。まさかあれがと、弁丸は小走りに駆け寄り声をかけた。「失礼致す。貴殿が、梵天丸殿でござるか」 ふわりと黒髪を揺らして、池を見ていた子どもが振り返った。透けるように白い肌に整った鼻梁。切れ長の目は叡智の光りを宿し、同じ子どもであるのに妙な隔たりを感じて、弁丸はたじろいだ。「あ、あの」 ふ、と少年の唇が、子どもらしからぬ皮肉な笑みに歪んだ。「俺が梵天丸であることに、間違いはねぇが。アンタ、誰だ」「甲斐よりの使者がひとり、弁丸にござる」 きりっと態度を整え挨拶をした弁丸の、頭の先から爪の先までを眺め、梵天丸が腕を組んだ。「ふうん? で。その使者が、なんでこんなところにいるんだ」 鋭い目が弁丸に向けられる。右側が白い布に覆われているのに、弁丸の目が吸い寄せられた。「ああ。これか。――アンタ、この家の跡継ぎと渡りをつけておきてぇってんなら、俺を相手にするのは間違いかもしんねぇぜ」 そっと右目の包帯に触れた梵天丸に、弁丸は首を傾げた。「どういうことにござるか」「俺の右目は、もう使いものにならねぇ」 意味はわかるよな、と梵天丸が視線で弁丸に告げる。武人の子である弁丸には、十分にその意味が理解できた。「俺が時期当主にふさわしくねぇって、みんな思ってんのさ」 だから、梵天丸のことを問うたときに、大人たちはあんな態度だったのかと、弁丸は悲しく腹立たしくなった。ぎゅっと拳を握り、勝気な態度に寂しさを滲ませている梵天丸に近付く。「みんなとは、ひとりのこらず、ということにござるか」「え」「ひとりのこらず、そのように思うておられると、そう申されるのか」 梵天丸の目が泳ぎ、池に映る自分の姿に止まった。「――ああ」「そうでは無いのでは?」 梵天丸は答えない。弁丸は、彼がそうではない人間を知っていると、その相手を心底から信頼していると、その相手に心底から望まれていると確認をしたがっていると、本能的に察した。 なんとなく、似たような気持ちになることが、弁丸にもある。 全幅の信頼を向けている相手。けれど時々、ふとした瞬間に不安になって、相手が自分を大切に思ってくれていることを確かめたい。知っているけれど、大丈夫なのだと確認をしたい。 そんな気持ちになるときが、ちゃんと相手が自分を見てくれているのか知りたくなるときが、唐突にやってくるのだ。「確かめればようござる」「は?」 梵天丸が目を丸くして、自信満々な弁丸を見た。「かならず、梵天丸殿の思うようになりまする」「ちょっと待て。話が見えねぇ」「安心めされよ。その者はきっと、梵天丸殿を大切に思うておりまする」 言い切った弁丸に、梵天丸はポカンとした。次いで顔をしかめる。「なにをどう思って、そういう話になったのか知らねぇけどな。アイツは、そういうんじゃねぇよ。俺のことは呼び捨てだし、ぜんっぜん敬う気もねぇし」 梵天丸が唇を尖らせて、弁丸はニコニコした。「弁の佐助も、同じにござる」「佐助?」 こっくりとした弁丸が、梵天丸の手を握った。「弁の佐助は、よく弁をしかりまする。呼び捨てにはされませぬが、尻を叩かれることもござる」 梵天丸がまたたいて、弁丸の顔をのぞいた。「敬語を使わねぇで、怒鳴ったりもすんのか?」「しょっちゅうにござる」 弁丸がうれしげで、梵天丸は面食らった。「梵天丸殿の、その御仁も、そのような方ではござらぬか」 むっと鼻先にしわを寄せた梵天丸が顔をそむけた。「アイツは、父上の命を受けて、渋々と俺の相手をしているだけだ」「なれば、梵天丸殿をしからなくともよいのではござらぬか」「なんで、そうなるんだよ」「お館様が申されておりました。ほんとうに自分を思うてくれる相手は、遠慮もせずにしかり、注意をしてくれる者だと」 ぐっと梵天丸が言葉に気圧される。「アンタは、その、ソイツを心底、信頼してんのか」「むろん! なれど、時折、不安になりもうす」 しゅんとした弁丸に引きこまれるように、梵天丸は顔を寄せた。「信頼してんのに、不安になるのか」 顎を引いた弁丸が、こつんと梵天丸と額を合わせて声を潜めた。「佐助は、弁が悪い時でなくば、怒りませぬ。心配をしたから、と怒る場合もござるが、理不尽な事はいたしませぬ。遠慮もせぬので、弁も佐助には本音を常にぶつけておりまする」 じっと梵天丸は弁丸の瞳を見た。「なれど、長期の任務で不在になったり、何かに夢中になって、その、弁を邪魔のようにする場合がござる。そういうときが続けば、不安にもなりもうす」 そこでちょっと、弁丸がイタズラっぽく目を光らせた。「なので、弁はわざと悪い事をいたしまする」「は? なんで」 ニコッとした弁丸が質問に答えず問うた。「その、梵天丸殿にとっての、弁の佐助のような方は、この近くにおられまするか」「さっきまで、兵法の勉強だっつって俺の部屋にいたからな。まだ、そのへんにいるんじゃねぇか」「それは、ようござった」 いぶかる梵天丸の手をしっかり握り、弁丸はささやく。「先にお詫び申し上げる。無礼を、おゆるしくだされ」「え」「わぁあああ! 梵天丸どのぉおお! あぶのうござるぅうううううっ!!」 いきなり弁丸が大声を上げて、梵天丸の耳が痛む。何事かと思うまもなく、梵天丸は弁丸に思いきりつきとばされ、池に落ちた。「ぶはっ」「なんだ、今の叫び声は!」「梵天丸殿が! 助けてくだされぇ」 駆けつけた大人に弁丸が叫ぶ。その言葉が終わる前に、駆けつけた大人は庭を走り池に飛び込んで、梵天丸を抱きかかえた。「何をやってやがる! 怪我はねぇか」「……あ、ああ」「ったく。余計な手間をかけさすんじゃねぇよ」 呆然とする梵天丸を抱いたまま、ざぶざぶと池から上がった大人が、乱れた髪を掻きあげて弁丸を見た。「オメェが叫んだのか」 頷いた弁丸に、ありがとよと頬に傷のある大人が笑えば、弁丸もニッコリとした。「ようござったな、梵天丸殿」 そこで弁丸の意図に気付いた梵天丸が目を丸くし、照れて拗ねた顔になった。「おう」「梵天丸と遊んでいたのか。着替えてくるから、そのへんに座って待ってろ」「わかりもうした」 ずぶぬれで去っていく二人を弁丸は見送る。大人の肩ごしに梵天丸が弁丸を見た。大人の首に腕を回し、拗ねた顔のまま軽く手を振ってくる梵天丸に、弁丸は手を振り返す。二人の姿が見えなくなってから、弁丸は急に寂しくなって、うつむきつぶやいた。「佐助」 ぽつりとこぼれた声が地面に落ちる前に、さっとつむじが湧き起こり、弁丸の目に人の足が映る。「なぁに、やってんのさ」 くしゃりと髪をなでられ、弁丸は胸をくすぐられて目の前に現れた相手に体当たりをした。「佐助ぇ」「はいはい。もう」 ひょいと抱き上げられ、しっかりと佐助にしがみつき、弁丸は幸せそうに頬を持ち上げる。「梵天丸殿も、ようござった」 こんなふうに、心の奥底からポカポカとなれるものがあって、ようござった。 満足そうな弁丸の小さな背を、佐助の手が労うようにやさしく叩いた。2014/05/27