突然の雨に降られ、真田幸村は街道を駆けた。 彼は戦装束ではなく、旅の服装をしていた。笠を少し前に下げるようにしてつかみ、足元が雨でけぶり視界をさえぎらぬようにしながら、幸村は駆けた。 夕刻の唐突の雨。 季節の変わる頃に多いこの雨は、すぐに止むだろう。だが、それをしのぐ場所が、近くに無かった。 幸村は駆けに駆け、一件の納屋を見つけた。その軒先に飛び込んで、笠を外す。「ふう」 手にした笠からは水が滴り、足元は跳ね上げた土で汚れている。空を見上げ、分厚い灰色の雲の姿を視線でなめて、その先に切れ間が無いかと探す幸村は、青い光の筋が雲に走るのを見た。 少し遅れて、空が割れたような、すさまじい音が響く。 稲光に、幸村は口の端にうっすらと笑みを浮かべた。「何を、ニヤついていやがる」 納屋の戸が開き、顔を覗かせた男が幸村に声をかけた。「おお。これは、片倉殿ではござらぬか」 納屋から現れたのは、奥州の副将であり、軍師でもある片倉小十郎だった。小十郎は野良儀姿で、頭には手ぬぐいを巻いている。「なんで、テメェがこんなところにいるんだ。真田」 幸村は甲斐の武将である。奥州に来るには、それなりの理由があるはずだと、小十郎は探る目を幸村に向けた。幸村はその視線を、からりとした晴れ間のような笑みで受け止める。「政宗殿に、お館様よりの書状を届けに参り申した」「書状だと?」 小十郎は、ますます怪訝な顔をする。「オメェが使いをするくらいだ。よほど重要な用件なんだろう」 小十郎があごで納屋に入れと示し、幸村は一礼をして入り口で雨粒を払い、足を踏み入れた。「ここは、片倉殿の農具場でござったか」 立て掛けられている農具を見る幸村に、小十郎が座れと藁を積み上げた場所を示す。軽く頭を下げた幸村は、示された場所に腰を下ろした。「文を」 小十郎が手を伸ばし、幸村は書状を渡した。彼に渡すことはすなわち、奥州の頭脳に渡すのと同意であると知っている。私的な内容や奥州の主、伊達政宗に直接渡せと言明をされていない限り、彼に渡しても問題はないことだった。むしろ政治的なものは、彼に先に見せて取り継いでもらうほうがいいと、幸村は知っている。小十郎は、隻眼の政宗が失った右目と言われるほどに、彼と一身同体と表現して差し支えのない相手だった。 小十郎は幸村の主、甲斐の領主・武田信玄の文に目を通し、大切にふところにそれをしまった。「用件は、よくわかった。政宗様にお見せして、返書をしたためていただく」「かたじけのうござる」 膝に手を付き頭を下げた幸村に、しかし、と小十郎は首をかたむけた。「オメェが使者にならなきゃならねぇほどの用件とは、思えなかったんだが。何か他に、言伝なんかがあるのか」 幸村は信玄の薫陶を受け、甲斐の虎と称される信玄と並び、甲斐の若虎との呼び名を持つほどの武将である。そんな幸村が単身、奥州にまで使者としてやってくるには、それなりの理由があるのだろうと、小十郎は読んだらしい。幸村は年に似合わぬ、幼さの残る丸い瞳をキョトンとさせて、すぐに破顔した。「言伝などは、なにもござらぬ。ただ――」「ただ?」 小十郎が、少し前にのめった。恥ずかしそうに、幸村が続きを言う。「その足で諸国を見てまいれと。そして滾りをぶつけてこいと。お館様は申されたのでござる」 一瞬あっけにとられた小十郎は、すぐに笑みを浮かべ、なるほどなと信玄の意図を察した。「一応、徳川の世になり、目立った戦は無くなった。これからの時代の形を見て、くすぶるモンを発散して来いと言われたのか」 幸村は根っからの武将である。それを小十郎は知っていた。小十郎の内側にも、熱く滾る武人としての魂がある。それは、平穏の世にあっては沈黙をせざるを得ない類のものであった。「さすがは片倉殿。お館様のお考えを、すぐに察知なされるとは」 感心する幸村に、小十郎は苦笑した。「察知も何も。誰にだって、すぐにわかることだ」「なんと!」 幸村のそれは、心底からのものだ。この男には裏というものが存在しないことを、小十郎は知っている。戦の世でも、その明快さはあやうく見えたが、力では無く知略が武器となっていくであろう今後の時代の流れでは、さらにそれは危険なものとなるだろう。「猿飛は、一緒じゃねぇのか」 彼のその素直さを補って余りある、人の裏をさぐり暴く忍、猿飛佐助の名を小十郎が口にすれば、幸村は素直に答えた。「佐助も参っており申す。――佐助、出てこぬか」 幸村が声をかければ、納屋の隅に緑の風が舞いこんだ。「はいはいっと。……っていうか、大将。そんな簡単に、忍の俺様を呼び出さないでくれる? 忍んでいる意味が、無いんだけど」 軽く肩をすくめる男、猿飛佐助は着慣れた忍装束ではなく、里の者のような緑の小袖姿だった。その背に風呂敷包みを負っている。「片倉殿の前で、忍ぶ必要も無いだろう」「まぁねぇ。一応、戦の無い平穏な世の中ってことになってるから? まあ、問題は無いとは思うんだけどさ」 佐助はちらりと意味深な目を、小十郎に向けた。むっと小十郎が眉根で力む。「俺たちが、真田に危害を加えるとでも思ってんのか」「いやぁ、違う違う。そういう意味で見たわけじゃないよォ? そちらさんの偉い人は、甘んじていないんじゃないかなぁって思っただけ」 含む笑みを浮かべた佐助に、小十郎が鼻から息を吐き出した。「政宗様が、徳川に戦をしかけるとでも言いてぇのか」「ま、平たく言えば、そんなとこ」「無礼だぞ、佐助!」 幸村が拳を握り、勢いよく立ち上がった。「ああもう、大将。そんな興奮しないでよ。だから、お館様に世間を見て来いって言われるんでしょー? ほんっと、単純なんだから」「ぬぅ」 どこか楽しそうに諌める佐助と、不服を残しつつも素直に反省を示す幸村の姿に、小十郎は目元をゆるめた。「変わらねぇな」「ぬっ」「ほらほら、大将。成長して無いって、よその人にまで言われちゃったじゃないさ」「ぬ、ぅう。……不甲斐なし」 ガクリと膝を折る幸村の大げさな反省に、小十郎はついに笑い出した。「ははは、そういう意味じゃねぇ。落ち込まなくていい」 幸村はいぶかしげに小十郎を見、佐助はペロリと舌を出した。「政宗様も、真田の来訪を喜ばれるだろうな。なんだかんだで、くすぶっておられる」「おお!」 喜色満面で幸村が飛び起き、佐助がため息をつきながら、頭の後ろで腕を組んだ。「まったく。ほんと、妙な人たちだよねぇ。何がそんなに楽しいんだか」「猿飛には、わからねぇか」「わかるわけないでしょ。俺様、戦バカなあんたたちと違って、忍ですから? 雷を見て思い出し笑いをするような人の感覚、さぁーっぱり理解できないっての」「んなっ」 幸村は自分の顔を手のひらでこねくりまわした。「俺は、笑っていたのか。佐助」「ニヤニヤして、気持ちわるいったら無かったぜ」「致し方なかろう! 政宗殿と対峙するは、久方ぶりなのだから」「政宗様も、真田が一戦交えに来たと知ったら、喜ぶだろうな」「まことにござるか!」「ああ。近頃、退屈をなされているようだったからな」「竜の旦那も、炎とか見てニヤニヤしてたりするわけ?」 佐助のからかいに、小十郎はわずかに微笑むだけで返答を終えた。佐助が肩をすくめ、やれやれと息を吐く。「雨、止んだみたいだぜ。大将も俺様も、長旅で疲れちゃったからさぁ。ゆっくり休ませてくれんだろ? 片倉の旦那」「雨に濡れて、足元が泥だらけだろう。湯を馳走してやる」「おお。かたじけのうござる」「あらま。それは何より。そんじゃ、のんびりさせてもらいますかねぇ」 折り目正しい幸村と、軽く受け止めた佐助に、小十郎が親しげに目を細める。からりと納屋の戸を開ければ、熟れきった柿色の空が群青と層を成していた。※湯を馳走する→お風呂を用意してあげますから、ゆっくり汚れと疲れを落としていってくださいね。という意。2014/08/25