くつくつと、良い香りが湯気となって天へと昇っていく。「天高く〜馬肥ゆる秋〜♪ 僕だって、太っちゃうねぇ」 ふふーっと嬉しげに頬をゆるませたのは、小早川秀秋。通称・金吾。彼の前にはいくつもの鍋が置かれ、それぞれに秋の味覚が詰まっていた。「ああ〜、どれを食べるにしても、楽しみすぎるよ。収穫の秋って、素晴らしいね」「金吾さんの場合は常に、肥ゆる季節であるように思えるのですが」 福々しい、若き日の布袋様と言っても通じそうな金吾の横に、絹糸のような白髪を海風になぶらせている、妖のような雰囲気の僧侶・天界が、ニコニコとしながら鍋の群を眺めた。「そりゃあ、四季折々それぞれに、美味しいものは沢山あるよ。だけど秋は格別だよぉお」 ぷっくりとした頬に両手を添え、金吾はとろけそうな目をして身をくねらせた。「その全てを最善の調理法で食したいからと、いくつもの鍋を作ってしまうとは。さすがは金吾さんです」「いやぁ。それほどでもぉ〜」 照れた金吾は鍋の間を歩きまわりつつ、それぞれの火加減を確認する。「こっちは、そろそろいい具合かな。あっちはもうちょっと。うーん。ここは火を少し弱めて……」 ぶつぶつ言う金吾をほほえましく見守る天海が、左足を下げた。「では、私はこの場や材料を提供してくださった方々を、呼びに行ってまいりましょうか」「あ。そうだね! うん。もうすぐ全部が食べごろになるから、楽しみに来てねって伝えてね」「わかりました。それでは」 ゆらりと金吾に背を向けた天海は、足場の悪い岩場を軽々と飛び進んで、その向こうにそびえる城郭のような船へと向かった。そこに、この場所と材料を提供してくれた人々がいる。「ふんふふ〜ん」 彼が戻ってくるまでに、特製の鍋は全て出来上がるだろう。あの巨大な船には、北から南まで、さまざまな地域の味覚で育った武将達がいる。その誰の口からも「旨い」という言葉を引き出す自信が、金吾にはあった。「戦国美食会の鍋奉行としての手腕、しっかりと味わってもらうんだから!」 戦働きとなれば、金吾はからっきしだ。剣呑な世界は性に合わない。けれど食への探究心や腕前は、誰にも負けないと思っている。「ん〜、こっちの塩鍋はいいカンジ。あっちの味噌鍋は……うぅ〜ん、最高だね。おっと、この醤油鍋は……はぁ〜、たまらない。栗雑炊に芋粥だって、最高の仕上がりだし」 味見をしては、満足げに頷き歩く金吾の耳に、人の足音が聞こえた。「あれ、天海様。早かった……ね」 顔を上げた金吾は、目を丸くした。薄い笑みを浮かべつつ近付いてくるのは、白と黒の対比がすっきりと上品な、紳士然とした男だった。天海が行った船の中に、彼はいない。現れたのは、船とは逆の松林の方角からだった。「あっれぇ、松永さん。松永さんも、鍋の会に来てくれたの?」 小首を傾げ、親しげに目を細める金吾に、松永久秀は上品な、どこか含みを持たせた笑みを崩すことなく、静かに歩み寄る。その足取りは、宮中を行くようになめらかで、とても岩場にいるようには見えなかった。「良い香りが磯の風に含まれていたのでね。興味をそそられ、来てみたのだが……なるほど。これだけの鍋がそろっているのならば、良い香りがして当然だな。圧巻、と言ってもいいほどの鍋の数だ」 首を巡らせ鍋を見る松永に、褒められるのを待つ子どものような顔で、金吾が胸をそらした。「僕の知りうる限りの味付けを、全て用意したからね! どれもこれも、ほっぺたが落ちちゃう香りでしょ」 わずかに笑みを深めた松永が、目を細めて遠くに見える大船に顔を向けた。「もうすぐ、天海様がみんなを呼んでくるから。松永さんも一緒に食べよう」「みんな、とは誰のことかね」「えっと。元親さんでしょ、片倉さんでしょ、伊達さんもいるし、毛利様もいるし、家康さんと……」「なるほど。錚々たる顔ぶれだな」 指折り数える金吾を遮る。「それだけの人数ならば、この鍋の量も頷ける」「それもこれも、家康さんが天下を統一してくれたからだよぉ」「ほう」 興味深そうに、松永は眉を上げた。「大きな戦が無くなって、これからは協力し合っていかなきゃいけないからって。鍋の会で一緒においしいものを食べて、親睦を深めようって」 松永は手をあごに当て、しばし考え込んだ。「そういうことなら、遠慮をしておくことにしよう」「ええっ! なんで? 松永さんだって、強い武将なんでしょう。だったら、家康さんは仲良くしたいって思うはずだよ。たくさんあるから、松永さんが混ざったって足りなくなったりしないし。材料は、まだまだあるし」 ねぇ、と無邪気に誘う金吾に、松永は太い竹筒を差し出した。きょとんと首を傾げて金吾がつぶやく。「もしかして、お弁当箱?」「これほどの香りに包まれて、一口も味わわないのというのは名残惜しい。卿が私に合うと思ったものを、これに詰めてもらえるか」 竹筒を受け取りながら、金吾は長身の松永を納得しきれぬ顔で見上げた。「みんなで一緒に食べたほうが、おいしいと思うよ?」「共に食事のできぬ相手も、いるということだ」「でもでも。毛利様と元親さんは、一緒に食べるよ。三成くんも、家康さんと一緒に来るし……」「卿は、見目にたがわぬ柔らかな男だな」 むうっと唇を尖らせた金吾が、首を伸ばして訴える。「もし、悪い事をしちゃった相手がいるのなら、ごめんなさいってすればいいよ。ちゃんと謝れば、きっと大丈夫だよ。ね、だから松永さん」 松永はゆるくかぶりを振り、金吾の手にある竹筒を示した。「どの鍋が、私の口に合うと思うね」 どれほど言っても無駄だと悟り、金吾はしゅんとして鍋を見渡し、そのうちの一つを選んで竹筒につめた。「ほんとは、全部を食べて欲しいんだけど」「胃袋がひとつでは、足りなくなりそうだ」「じゃあ、じゃあじゃあ! 僕のお城に食べにおいでよ。いろんなお鍋を作って、食べさせてあげるから」 松永は微笑みながら、差し出された竹筒を受け取り、何の返事もしないままに背を向けた。「いつでも大歓迎だから。遠慮せずに来てよね!」 小さくなっていく松永の背に、金吾は声をかける。松永は振り向きもせず、松林の中へと姿を消した。「ぜったい、来てよね」 名残惜しむように呟いた金吾は、たくさんの鍋を見回した。 おなかがいっぱいになれば、気持ちがゆるむ。あたたかな鍋を囲んで、同じものを美味しく食べれば、心が和む。ずっと反目しあっていた長曾我部元親と毛利元就が、他の武将達に囲まれての席とはいえ、食事を共にするのだ。松永がどんなことをしてきたのか、誰と共にあるのを気まずく思っているのかは知らないが、おいしいものを食べればきっと、新たな気持ちで仲良くなれると、金吾は信じていた。「美味しいものは、最強なんだから」 空腹は悲しい。それだけでも悲しいのに、空腹であれば、さらに悲しいことを引き寄せてしまう。ならばその反対の満腹は、幸福なことのはずだ。その幸福の中であれば、きっと誰もが笑顔でいられる。「せっかく、戦が終わったんだから」 あの恐ろしい事が、終わったのだから。だからみんな、幸せになっていいはずだ。笑顔を交わしていいはずだ。 顔を上げた金吾は、こちらに歩いてくる一団を見た。刃を交えた者たちが、共に金吾の鍋を食そうと集まってくる。武器の変わりに箸を持ち、和やかに過ごすために。 ここにある食材はすべて、彼らから提供されたものだ。色々な具材が共にあり、えもいわれぬ美味を生み出す鍋。この鍋のように、色々な人が共にあり、えもいわれぬ平穏を生み出せるのではないか。「まってるからね」 松林に顔を向け、ぽつりとこぼした金吾は、最後の仕上げに取りかかった。2014/09/28