ぼんやりと、高い空を見上げている男がいた。すらりとした体躯の男の髪は、浮かぶ雲のように白く、やわらかな陽光に輝いている。その肩は色づきつつもさみしげな様相をかもす、秋の野山のような気色を乗せていた。 彼の頭上で、鳥が高く旋回しながら飛んでいる。彼はそれを見ているわけではなく、ただ漫然と立ち尽くしているだけだった。 ひょい、と彼の肩に小さな陰が飛び乗る。首に紅白の飾りをつけた小猿が、そっと男の頬に手を当てた。気付いた男は目を向けて、鋭く整った目じりをほんのわずかにゆるめた。「貴様のみ、来たのか」「キキィ」 男の言葉がわかるらしく、小猿はピンと片腕を高く伸ばした。「そうか」 男の眉がやわらかく下がる。小猿はにっこりとして、男の見ていたものを探すように空を見た。「別に、何かを見ていたわけではない」 小猿が首を傾げ、苦笑を漏らした男は足を動かしその場を去った。小猿は彼の肩に腰掛けて、彼の進むままにしている。 やがて男は少し大きな百姓家へ着いた。家の中からよい香りが漂っている。室内では炭が焚かれ、香りの元となっているものが男と小猿を待っている。 からりと戸を開ければ、予想通りに囲炉裏には鍋がかかっており、がっしりとした大柄な体躯の、けれど優男という表現が似合う美男が、ぐるぐると鍋をかき回していた。「おっ。おかえり、三成」 男の名を、にっこりと美男が呼ぶ。「前田慶次。貴様がこの猿に私を呼びに行けと命じたのか」 後ろ手で戸を閉めながら、三成が眉間にしわを寄せる。不機嫌だからというのではなく、疑問があるときのクセだと、この頃の付き合いの中で慶次は覚えた。「この猿じゃなくて、夢吉。ちゃんと名前を呼んでやってくれよ。夢吉はちゃんと、石田三成ってアンタの名前を覚えてるんだぜ。なぁ、夢吉」「キィイ」 そのとおりと示すように、夢吉がぐんと胸をそらした。 鼻を鳴らした三成は土間を進み、上がり框に腰を下ろした。「ここの家主はどうした」 この百姓家は慶次のものでも、三成のものでもない。「仕事だよ。収穫の時期は、どっこも大忙しさ」 椀に鍋の汁をよそった慶次が、ほいと三成に差し出す。「これ食ったら、俺も手伝いをするつもりだけど。三成は、どうする?」 椀を一瞥し、三成は腰を上げた。「いらん」「まぁ、そう言うなって。うまいよ?」「いらんと言っている」 苛立ちの乗った声に、夢吉が身をすくめて肩から飛び降りた。「そんな不機嫌な声を出すなって。夢吉が、ビックリしちまっただろ」 ちろりと夢吉に目を向けた三成は、ほんの一瞬気まずそうに目を揺らしたが、すぐに鼻を鳴らして顔を背けた。「私にかまうな」「ここに来てみたいって言ったのは、三成だろ」 陽気な声をおだやかなものに変えて、慶次は夢吉の前に椀を置いた。夢吉はふうふうと湯気を吹いて、鼻をうごめかす。「秀吉の里を知りたいって言ったのは、アンタだろ」 哀愁を含んだ声に、三成は座りなおした。膝に腕を乗せ、頭を垂れる。「……ここで秀吉は育ったんだ。いい所だろ? 昔はよく、俺と秀吉とで大人相手に悪戯をしかけたもんさ。秀吉は気が優しくて、悪戯の後の補佐っていうのか、とりなしっていうのか。そういうのをしてくれて。だから、悪戯も大目に見てもらえてたんだって、今ならわかる」 慶次は椀に汁をよそい、それに口をつけた。それを見た夢吉が、うんと全身を使って椀を押し、三成の元に寄せる。三成は夢吉を見、夢吉はにこにことして両手を差し出し、どうぞと示した。「熱くて食べらんないんだと思ったのか? 夢吉」「キィイ」「だってさ」 慶次の笑みに押されるように、三成は椀を手にした。夢吉が嬉しそうに、箸を手にして三成に差し出す。「私よりも、貴様のほうが熱いものは苦手では無いのか」「キッキィイ」 夢吉は平皿を引き寄せて、三成に示した。「平皿なら、すぐに冷めるからさ」 慶次が鍋の具を平皿に乗せ、夢吉が食べやすく冷めやすいように、箸で小さくする。「この家には、よく秀吉と一緒に来て鍋を囲んだもんさ。野良仕事の手伝いをしたり、悪戯の後の隠れ家として、かくまってもらったり。秀吉はあの図体だし、俺だって人よりはいい体格をしているからさ。隠れるっつっても、ひょいと木陰にってわけには、いかなかったんだよな」 ふふっと口元を綻ばせ、慶次が汁をすする。夢吉は指先で皿の中をつついて、まだ熱かったらしく、残念そうに口をヘの字にした。「三成」 ぽつりと慶次が名を呼んだ。目を向けた三成は、彼のさみしげな横顔に、遠い記憶を見つめる瞳に続く言葉を待った。「秀吉は、俺のせいでかわっちまった。俺が調子にのって、あんな相手に悪戯をしかけなきゃ……」 三成は無言で慶次を見つめた。慶次はゆるく頭を振って「言っても、仕方がないよな」 力無く微笑んだ。「前田慶次」「うん?」「貴様は、自分のしでかしたことにより、秀吉様が覇王となり、家康……――家康に、討たれたと言うのか」 言葉を詰まらせ迷いつつも、三成は声を絞った。苦しげな三成に、慶次は哀切を向ける。「うぬぼれるな!」 その哀しみを、三成はばっさりと切り捨てた。「貴様ごときが秀吉様の道先をゆがめたなどと、傲慢な戯言を。秀吉様は貴様のその下らぬ児戯の誘いが無くとも、覇王となられた。あの方がいなければ、私は……私は…………」 奥歯を噛みしめる三成に、慶次はそっと悔恨の息を吐き出した。「三成は、秀吉に救われたんだっけ」 静かな呟きの後に、沈黙が降り注いだ。夢吉が心配そうに二人を見比べる。「秀吉様がいなければ、私はこうして生きてはいなかった」 慶次の頬が力無くゆるむ。「三成と会わなきゃ、俺は秀吉を誤解したままだったかもしれない」 三成の視線が、疑問を浮かべて慶次に注がれた。「秀吉は、優しすぎたんだな」 歯を見せて笑った慶次に、三成は驚きまたたいた。「優しすぎたから、自分の力で守ろうとして、覇王を目指したんだ」 天井を見上げ、慶次は目を細めた。「……そして、家康に討たれた」 三成が目を落とすと、夢吉と視線が合った。気遣わしげな夢吉を見つめ、三成は箸の先で夢吉の皿から湯気の消えた芋をつかみ、差し出す。夢吉は芋と三成を交互に見て、芋をつかんでかぶりつく。三成の椀の湯気も消えうせていた。三成はそれを、何かの仇のように口内に流し込み飲み下す。「貴様もさっさと食え」 椀と箸を投げ捨てるように置いて、三成は苛立ちをそのまま所作に浮かべて立ち上がった。「ちゃんと噛まないと、体に悪いよ」「貴様に案じられるほど、軟弱な体をしていない」 慶次は夢吉に向けて軽く肩をすくめ、汁をすすった。「家康とさ。話、してみなよ」 椀を空にして、慶次が独り言のように声をかけた。鍋からくゆる湯気に語りかけるように、慶次は言葉を紡ぐ。「俺は秀吉と語ることができなかった。腹を割って話せば、違う道があったのかもしれない。俺は俺の視野に遮られて、秀吉を信じきることができなかった。秀吉を理解し、道を模索しようとはしなかった。ただ、アイツを止めることばかり考えてた」 慶次の言葉を、そこに滲むものを、三成は見つめる。「家康は、会話したがってる。それは、理解して納得しろってことじゃなくて、許しを乞うものでもなくて……なんていうのかな。かけがえのない相手だから、知っていてほしいっていう、それだけのものなんだと思う」 椀を手にして立った慶次は、三成の椀と箸も手にして土間に降りた。水甕から盥に水を入れて、茶碗と箸をすすぐ。「俺は、それすらもできなかった。永遠に、できないままになっちまった」 洗い物の水を切って振り向いた慶次は、泣き笑いで誘った。「収穫の手伝いが終わったらさ、一緒に家康のところへ行かないか? 絆を望むアイツとの絆の糸が、完全に切れる前に」「絆の糸が、完全に切れる前に、だと」 二人に遅れまいと、慌てて食べ終えた夢吉が、皿を盥に入れた。洗おうとする夢吉を、慶次が助ける。「擦りきれて細くなった糸を、紡ぎ直して太くするんだ。そうすりゃあ、遠く離れても、違う道を進んでも、糸はどこまでも伸びて、繋がったままでいられる。もし糸が切れちまったら、どんなにたぐっても相手にたどり着けない。だからさ」「もういい」 三成が戸に手をかけた。「家主の手伝いをするのだろう。さっさと行かねば、終わるのではないか」「三成」 振り向くことなく、三成が戸外へ踏み出す。「キィ」 慶次の腕を登った夢吉が、不安そうに慶次を見上げた。「大丈夫だよ、夢吉。大丈夫。あの二人には、時間という名の機会が、まだまだあるんだ。俺と秀吉との時には無かった時間が……絆のほころびを縫い直す時間がある。俺は、そう信じてる。俺と秀吉のような関係は……こんな気持ちはもう、誰にも味わって欲しくないんだ」 慶次は鍋に蓋をして、炭火を消すため土間から上がった。夢吉は戸外の三成の様子を見るため、走り出た。 家の前で、ぼんやりと三成が空を見上げる。高い空に浮かぶ雲のように、どこか頼りなげな様相の彼に、夢吉はそっと近付いた。 よそよそしさを含んだ秋の陽に、郷愁を滲ませる三成の瞳が輝いている。薄い唇が紡いだ音を、夢吉の耳が拾った。「お待たせ。行こうか、三成」「さっさと案内しろ」「はいはい」 気楽な様子を纏った慶次が、ぶらぶらと進む後に三成が続く。慶次の足をつかんで肩まで登った夢吉は、ちらと三成を見て嬉しげに微笑んだ。 実りの秋が過ぎ、篭る冬を経た後は、やがて雪解け想いが芽吹く、春となる。2014/10/07